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第55回 舞子の嘘と、愚か者の涙

「ちょっと買い物行ってくるねー」


その日舞子は、バイトが休みにも関わらず朝からパタパタ落ち着きがなかった。

朝食には舞子の大好きなフレンチトーストを作ったのだが、いつものようにゆっくりミルクティを淹れて他愛のないお喋りをすることもなく、冷たい牛乳でさっさと食べ終わって、何やら冷蔵庫を点検し初めて、メモを取っている。


「買い物、どこ行くの?」


「商店街ー。」


そういう舞子に、一緒に行こうかと言ってみたが、一人で行くからと断られた。

帰りに鴨川の反対側のプランタンビルでミスドのドーナッツを買ってきて、鴨川デルタで一緒に食べたかったんだけど。

きっと十月の風が爽やかで気持ちいいだろう。


「ハルくん、今日お昼からスタジオで練習でしょ? しっかりベース練習しとかないと、タカトモさんに今度こそ怒られるって言ってたじゃん。ベース弾いてて」


そう言って、自分のお買いものカゴを持って出かけてしまった。

確かに、渡された曲目リストの曲たちはどれもコードは知っていたが、不慣れなベースだから練習しておくにこしたことはない。


RCとローザのカバーバンド、先週の自転車京都観光の帰りに寄ったバイト先で帰る時に渡されたリストは、どれも僕の好きな曲ばかりだった。


アコースティック系の曲が一曲あり、この前聴いた分にはアコギは僕の方がいいということで、これは僕のギターとタカトモのボーカルとハーモニカだけでやりたいという。

ベースの他にこれも練習しなくちゃいけない。


僕は、部屋にむき出しで置いてあったベースを膝に抱えて練習し始めた。

くれたはいいが、運搬用のケースもストラップもなく本体だけだったので、昨日三条の十字屋で安いギグバッグとストラップ、それにシールドを買ってきた。

年季の入ったこのジャズベースは、よく胴鳴りして、アンプを通さなくても練習には充分聞こえる音量が出る。

今日、スタジオでアンプに繋いで音を出すのが楽しみだ。


「台所使うから、悪いけどお昼は昨日私がバイト先で貰ってきたパンの残り食べて。私もそうするから」


舞子は、買い物から帰ってくるなり台所を占領して何やら作り始めた。


「何作ってるん?」


覗き込もうとすると、


「ダメ!あっち行ってて!」


と怒られる。

仕方がないから朝淹れて冷たくなったコーヒーと一緒にパンを齧りながら、ずっとベースの練習を続けた。


「今日、スタジオ何時から?打ち上げとかやるの?」


舞子が背中を向けたまま訊く。


「いや、三時から五時までで、そのまま解散だから、夕方暗くなり始めた位には帰ってくると思うよ」


「はーい。気をつけてね」


そう言って、舞子はずっと台所でカチャカチャやっている。

僕はベースの練習を続けた。

窓の外から猫の声が聞こえた。

静かな秋の午後だった。

たまには、こんな日も悪くないと思った。



「そろそろ行ってくるね」


「はーい!行ってらっしゃい!気をつけてねー!」


相変わらず舞子は台所に向かったままだ。

僕はギグバッグを背中に背負い、リハーサル場所に向かった。

場所は三条木屋町だとタカトモが言うので、駐車場代も高いし、自転車で向かう。

肩はもう痛まない。



タカトモ指定のビルには、一五分ほどで着いた。

なんでも昨日オープンしたばかりのライブハウスで、オーナーとタカトモが知り合いらしく、店の営業が始まるまでの時間を格安で練習に使わせてくれるという。


「おお、ちゃんと来たな」


ビルの下でタカトモが手を振った。


エレベーターを上がると、店の前には開店祝いの花輪や鉢植えがずらりと並んでいた。

扉を開けると、掃除をしていたスタッフが振り向いて、


「え? 誰? まだ営業前だよ?」


と驚いた顔をした。

あれ? 話が通ってない?


「おお、タカトモ、来たか!」


奥からオーナーが出てきて、


「ええねん。この子らは知り合いや。練習で使わせてあげる約束や。

 もし演奏良かったら、店で出てもらうこともできるしな」


と笑った。


「ほな、ステージのドラムもアンプも好きに使ってええから」


昨日オープンしたばかりだけあって、店内には新しいカーペットや塗装の匂いが満ちている。

機材もすべてツマミの光沢までピカピカだった。


「こんにちは〜!」

「お世話になります!」


他のメンバーもやって来た。

タカトモが順に紹介してくれる。


「こいつがドラムのニシケンで、こっちがギターのコウジ」


二人が軽く会釈する。


「こいつが言うてたベースのハルヒトや」


「はじめまして。先週は僕の怪我ですんませんでした」


「ラグビーやったっけ? すごいなー、あんなスポーツやってるって」


「そやけど、かしこまって敬語とか使わんでええよ。俺らも普通に喋るしな」


「おう。呼び名もニシケンとコウジでええし。俺らもタカトモと同じようにハルヒトって呼ぶから」


二人とも人当たりが良くて、僕は少しホッとした。

背中のギグバッグを下ろして楽器を取り出す。


「うわ! しっぶ!」


ニシケンが声をあげた。


「タカトモが千円で見つけた言うてたやつやんな?

 でもそれ、グレコがフェンダーのジャズベ目指して本気で作った名機やで」


コウジがギタリストらしい口ぶりで言う。


「ほな、ぼちぼち始めよか」


タカトモがハーモニカをアンプの上に並べながら言った。


◇    ◇    ◇    ◇


「お〜! ええ感じやったな!」


「タカトモ、ええベース見つけてきたな!」


初合わせとは思えないほど演奏はまとまり、

僕自身も、文化祭の即席バンドとはまるで違う、“やりやすさ”を感じていた。


「自分ら、なかなかええやん!」


オーナーも満足そうだ。

もしこの店で演奏なんてことになったら――舞子も呼んでやりたい。

そんな妄想をしていると、突然にぎやかな声が飛び込んできた。


「タカちゃん、おつかれー! 練習どやった?」


「ハルヒトー、久しぶりぃ♪」


ミナコとユリカだった。


「おお、ミナコ! バッチリやで」


タカトモがミナコの腰を引き寄せる。


「ん?」


「ああ、言うてへんかったな。

 私ら、付き合うことになってん」


なんと、いつの間に!


確かに白浜の時からいい雰囲気ではあったが…

デートを重ねて、すっかり意気投合したらしい。


「それにしても二人とも、エラい派手なカッコしてるな?」


ミナコはワンレンソバージュに、大きな肩パッド入りの赤い上着。

白いタイトミニで、体のラインがはっきり出ていた。


ユリカは金色のパンツに同じ素材のジップアップジャケット。

胸元のジッパーは深く下がっていた。


「これね、河原町で見つけたんだけど、

 私が着てこの状態になる服って、一体誰向けなんだろうね?」


ユリカが笑った。


「そんでな、今日練習の後でタカちゃんとデートするって言うたら、ユリカがハルヒトくんも一緒なんやったら四人で遊びに行こうって」


「今日、ハル、誕生日でしょ?みんなでお祝いしてあげるよ」


あ、そうだった。

すっかり忘れていたが、今日は僕の二十一歳の誕生日だ。

…ということはもしかして、朝からパタパタしていた舞子は、僕の誕生祝いの料理とかを作ってくれてるんじゃないか?


「あー、ごめん、ちょっと…」


そう言いかけた僕の言葉を遮って、ユリカがかぶせる。


「え?どうしたの?もしかして舞子ちゃんが待ってるとか言わないよね?」


「え?舞子ちゃんって、あの親戚のちっちゃい女の子?なんであの子がハルヒトくん待ってるん?」


ミナコが言う。


「そういやお前、今井食堂にも、三角州で一緒にギター弾いた時も、先週店にも、あの子一緒やったな。ホンマに親戚の子ぉか?」


タカトモが疑わしげな目で僕を見た。


「あー、そしたら俺らはこれで!」


「ゆっくり楽しんで!」


そう言ってニシケンとコウジが帰っていった。


「で、待ってるの?"親戚の"舞子ちゃん」


ユリカは事情を知っている。

親戚の子なんかじゃないってことも、一緒に住んでいるってことも。

下手なことを口走られたら、僕は完全に危ないやつだと思われてしまう。


「私が誘ってるんだよ?」


ユリカが挑発するように言った。


「いや、大丈夫。なんでもない。ほな、どこ行く?」


僕は平静を装ってそういった。

ごめん、舞子。


「祇園のマハラとか行こうよ」


ミナコが言う。

でも、今日は僕もタカトモもバンドの練習のつもりだったからジーンズにコットンシャツという出で立ちだ。

ジャケットなんかもちろん持ってきていない。


「いや、多分俺らは入れてもらわれへんやろ」


「確かにそうやな。でもタカちゃん、なんで私とデート言うてたのに、そんな全身丸洗いOKみたいな格好なん?」


確かに全身コットン一〇〇%だ。


「そんなん、お前と普段通りいつも通りで付き合いたいからやんけ」


「はいはい。ノロケはいいから、じゃ、どこ行く?」


ユリカの言葉に、僕は


「じゃあさ、VOXビルの一階のカフェバーええんとちゃう?あそこなら食べもんもあるし、手頃でお洒落やし」


と提案した。


「あら?私と初めて出会った場所がいいの?ハル?」


…そうだった。去年の七月に、その店での合コンでユリカと知り合って、そして付き合ったんだった。

ひと夏で別れてしまったけど。


「じゃ、そこにしよか」


タカトモが言う。

僕は、台所で一所懸命何かを作っていた舞子の姿を思い出した。まだ五時過ぎだし、軽く乾杯して七時頃には帰ればいいか、と思い直して木屋町を四人で歩いて南へ下がっていった。


◇    ◇    ◇    ◇


「ん?どこやここ?」


目を開けると、見慣れない天井が見えた。

──いや、正確には去年何度も見たことのある天井だ。


「おはよう」


隣でユリカの声がした。

もちろん二人とも何も身につけていなかった。


まただ。

また、やってしまった。

どうも僕は、ユリカが絡むと、その場の流れを断ち切れなくなる。


昨夜は確か、カフェバーで乾杯して、ピザと唐揚げとシーザーサラダを頼んで…

そうだ。確かユリカが、


「誕生日プレゼントあげる。ちょっと上むいて口開けて」


と言って、僕の唇に塩を塗ってライムを口に絞り入れ、


「ハッピーバースデー」


と言いながらテキーラをショットグラスから自分の口に含んで、僕に口移しで飲ませたんだ。


「ユリカー!やりすぎー!」


とミナコが笑い、


「ええぞー!もっとやれー!」


とタカトモがけしかけた。

ユリカは、


「はい、おかわり」


と言って何回も僕にテキーラキスを繰り返した。


──そして気がつけば、この朝だ。


「ごめん、帰る!」


僕はそう言って飛び起きて自分のジーンズを探した。


「えー?帰らなくてもいいじゃん?まさか本当に舞子ちゃん?」


そういうユリカを、始まったばかりの後期の授業がどうこうの話をしてなんとかごまかし、僕はアパートを出てバス乗り場を探した。

ユリカのマンションから河原町までは三十分ほどで着く。

そこで昨日置き去りにした自転車に乗ってアパートに帰れば、十一時頃には着くだろう。

今日は夕方近くに、ユリカへの言い訳じゃなくて本当に講義がある。


僕は必死で自転車を漕いで川端通りを北へ向かった。

いつもなら十五分かかるところが、十分程で鴨川デルタが見えてきた。

アパートの駐輪場に自転車を停め、部屋のドアを開けようとすると、鍵がかかっていた。

鍵を開けて部屋に入ると、舞子はいなかった。


「そうや、月曜やしバイトやん」


気づいた瞬間、少しだけ力が抜けた。

とりあえず椅子に座りタバコに火を点けた。

間もなく舞子が帰ってくる時間だ。

自転車を飛ばしてきて喉が渇いたので冷蔵庫を開けた。


────そこには、ラップをかけられたケーキが入っていた。


冷蔵庫から出してみる。

それは、ホットケーキを何枚も焼いて重ね、生クリームで飾り付けしたものだった。

皿にはラップに包まれたロウソクもあった。

長いロウソクが二本と、短いロウソクが一本。


舞子は、どんな気持ちでこのケーキを作ってくれたんだろう。


どんな気持ちで僕を待って、

どんな気持ちでラップをして冷蔵庫へ片付け、

朝になっても帰ってこない僕に気づいて、

どんな顔でバイトへ向かったんだろう。


「ただいまー!、あ、ハルくん帰ってきてる!」


明るい声で舞子が帰ってきた。


「あ、ケーキ気づいてくれた?ケーキって言っても重ねたホットケーキだけどね」


そう言って笑う舞子を、僕は抱きしめたくなったが、そんな事ができる立場じゃないと思って我慢した。


「じゃ、切るから一緒に食べよう!あ、誕生日おめでとう!」


「ありがとう。ごめんね」


「何が?」


舞子が笑う。


他にも色々作ってくれてた気がしたんだけど、他には何もなかった。

朝から買い物に行って、ずっと台所でパタパタして…


「舞子、他にも何か作ってくれてなかった?」


「あ、失敗しちゃって、全部自分で食べちゃった」


舞子が明るく笑う。


でも、それはきっと嘘だ。


返事のタイミングが、ほんの少しだけ遅れた。

舞子は、そういう時だけ笑い方が軽くなる。


僕は大馬鹿だ。


「舞子、ごめん」


「ハルくん!なんで泣いてるの?そんなにケーキ嬉しかった!?」


舞子はあくまで明るく笑う。

舞子の強がりが、僕の胸に刺さったまま抜けなかった。


本当に僕は大馬鹿だ。

外では十月の風が気持ちよく吹いていた。

けれど、僕の胸の奥には重たい塊が居座ったままだった。

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