第41回 にくの星の山頭火
国道二四号線を五條で十津川方面に曲がると、大きな川を越え、しばらくは古い民家の町並みが続く。
「『十津川』方面にずーっと行ってくれたらいいから」
舞子の言葉に従い、「柿の葉すし本舗」という大きな看板が暗闇の中に浮かび上がるY字路を、「←十津川温泉」の看板に従う。
しばらくは緩やかな山あいのワインディングロードが続き、ヘッドライトに浮かぶ梅の名所だという看板を過ぎると、やがて道は細かく左右にハンドルを切り続ける山道になった。
「うお。なんやこれ。途中越えどころの話ちゃうな」
「でしょ?」
舞子が何故か勝ち誇った顔で言う。
まるでヘアピンカーブのような折り返しの上り坂が続く。
やがて珍しく長い直線を走り、ゆるやかな左カーブに差し掛かると、妙な看板が現れた。
「に、く、の、星?」
ヘッドライトに浮かび上がった看板にはたしかにそう書いてある。
「なんで肉の星?」
舞子が大笑いしだした。
「え?だって書いてたやん」
「『星のくに』だよ。よ、う、こ、そ、星、の、く、にって、右側から読むんだよ。」
「え?なんで右から?」
「走ってきた人に順番に読ませるためじゃない?」
だとしたら、それは大失敗だ。
どう見ても「にくの星」だ。
「に」「く」「の」「星」「そ」「こ」「う」「よ」
その看板に続いて、「ライトを下向きに。天体観測中」という看板も出てきた。
さらに先には「P→」の看板も見える。
ガガっ。
「ちょっとそこの駐車場で休憩しよか」
ガガっ。
「了解」
車を停めて駐車場に立てられた案内看板を見ると、どうやらそこは一昨年やってきたハレー彗星に合わせて作られた天文台のある施設らしかった。
そういえばあの年はハレー彗星で、どこの街も少し浮かれていた。
煙草を一服して自販機で缶コーヒーを買い、再びスタート。
できるだけブレーキランプを光らせないようにエンジンブレーキで減速しながら右に左に忙しくハンドルを切る。
たまに対向車が来れば左のガードレールギリギリまで車を寄せ、真っ暗な山道をひた走る。
時々小さな集落が現れては消える。
なんだってこの人たちの先祖はこんなところに住もうと思ったんだ?
やがて、舞子が言ってた「十津川村」という看板が出てきた。
繰り返すが、なんだってこんなところに村を作ろうとしたんだ?
「あ、もうちょっとしたらすごい吊橋が出てくるから、そこで停まってちょっと見ていかない?」
舞子が言った。
僕はトランシーバーでそれを伝える。
ガガっ。
「谷瀬の吊り橋」と書かれた看板に従って、空いた駐車スペースに車を停める。
あたりの店はもう閉まっていて、人の気配はなかった。
真っ暗な谷に向かって、吊橋がすうっと伸びていた。
たわんだ中央付近は闇に呑まれて見えず、足元は横三枚の木板だけ。
隙間から下を覗くと、色の無い深さがぽっかり開いているようだった。
「わわわわ!揺らすな!!」
「揺らしてへん!勝手に揺れるねん!!」
揺れと風の音だけがやたら耳に残る。
向こう側へ渡り切る未来が、どう頑張っても想像できない。
マサキとサクラが手を繋いで十歩進んで帰ってきたところで、突然──
「おわあああ!タカちゃんやめてええええ!!」
ミナコの叫び声。
見ると、タカトモが吊橋の上で逆立ちしていた。
木板がギシ、と一度だけ大きく鳴った。
山の闇が一瞬だけ息を呑んだように見えた。
「わ!やめろ!おい!シャレならん!!」
「やめてよ!!」
皆の声が重なる。
誰も笑っていなかった。
タカトモはそのまま両腕をバネのように使って跳ね上がり、体操選手みたいに着地した。
「へへへへ」
得意満面。
「もう!!なんかあったらどうすんのんよー!!!」
ミナコが今にも泣き出しそうな声で駆け寄る。
「おんやー!?もうそんな感じなんや?」
ヒロくんが冷やかす。
「車の後ろでずーっと二人の世界だったもんね、ミナコ」
ユリカも続く。
タカトモは満更でもなさそうだ。
「ね、ハルもやってみてよ」
僕の横に来てユリカが言った。
「いやいやいやいや、無理やって」
「どうしてよ?マット運動得意で、ハンドスプリングとかできるって言ってたじゃない」
「いや、できるけど、こんな真っ暗な狭い吊橋の上でなんか絶対無理やって!」
「ふーん…つまんないの。タカトモさんの方がカッコいいね。乗り換えよっかな」
なんてことを言うんだこいつは。
乗り換えるも何も、去年の秋に別れているはずじゃないのか、僕たちは。
少なくとも舞子にはそう説明している。
こないだのあれか?
僕は焦って舞子の方を見た。
幸い、舞子はタツヤと橋の真ん中の方まで行っていて、今の言葉は聞こえていないようだった。
「おーい!舞子!危ないからそろそろ帰っておいで!タツヤ!お前はもっとどんどん行ってええぞー!」
「なんでやねーん!!!」
そう言って笑いながら舞子とタツヤが戻ってきた。
「いやすごかった。また帰りに昼間渡りに来ようや」
吊橋が背後でわずかに揺れ続けていた。
風が吹いていないのに、ずっと。
再スタート。
道は更に山肌にへばりつくようにクネクネと細く曲がりくねり、アクセルもブレーキもハンドルも本当に忙しい。
対向車の光が見える度にうんざりしながらガードレールギリギリに寄って減速し、またクネクネ。
民宿や土産物屋が立ち並ぶ鄙びた温泉街を抜けると、また延々と山道だ。
四国うどんツアーの思い出話、しょうゆ豆、奥琵琶湖の桜、近江ちゃんぽん、鮒ずし、ゴールデンウィークに観に行ったとなりのトトロの話、舞子との話がずっと尽きないのが救いだった。
しかし。
「ね、ハルくんて、一番好きなテレビ番組って何?」
という舞子の質問に、
「う~ん……三月から始まった『探偵!ナイトスクープ』かなあ。上岡龍太郎の。舞子は?」
「…」
返事がない。
「舞子?」
「…」
舞子は、自分から質問したくせに、僕が答えてる間に寝てしまっていた。
「おい!」
舞子がぴくっとして起きた。
「ん?お好み焼き」
何を言ってるんだこいつは。
「今、僕に何のテレビが好きか訊いて、僕が答えてる間に寝たよな?」
「え!?寝てないよ!そんな器用なことできるわけないじゃん!」
いや、してただろ。
吊橋から一時間も走っただろうか、やっと山じゃない開けた場所に出てきてホッとした。
右手に大きな神社が見えてくる。
「熊野本宮大社」
看板にはそう書いてある。
「もうちょっと行ったら、右に曲がったら白浜って看板あるはずだから、その前にこの辺で一回休憩しよ?」
了解。
ガガっ。
神社の駐車場にあった自販機で思い思いにジュースやコーヒーを買ってタバコを吸う。
「この先に、右行ったら白浜って看板あるらしいわ」
「よかったー。もうええ加減この山道嫌になってたしな」
「ホンマや。もうハンドル切ったりエンブレ効かしたりすんのん飽きた」
運転していたタツヤとヒロくんが口々に言う。
タカトモとミナコは、後部座席で眠ったままだ。
ヒロくんの車でも、後ろで頭を寄せ合うようにマサキとサクラが寝ている。
ユリカは、
「タツヤさん、運転上手いね。全然しんどくならない」
と、今度はタツヤに近距離で話しかけている。
後ろからは、
「なんでやん!」
「そんなん言うたらヒロくんかって!!!」
ヒロくんとヨーコも、いつのまにかタメ口で笑い合うようになっていた。
もうすぐゴール。
そう思うと、ここまでの疲れも取れるようだ。
だがそれは、あまりに楽観的過ぎる予測だった。
◇ ◇ ◇ ◇
舞子の言った「白浜→」の看板を曲がっても、
行けども行けども山、山、山。
あの暗闇のトンネルを抜ければ視界が開けるか?
と思うたびに、また同じ黒い稜線が現れる。
夜が、ずっと夜のまま続いていくような感覚だった。
曲がっても曲がっても、真っ暗い山。
山頭火もびっくりだ。
「舞子、この先、白浜の海やねんな?」
「うん。着いたらバーって視界開けて、海だよ」
「で、それはいつやねん?」
「う~ん…お父さんの車の記憶では…」
「記憶では?」
「あと一時間くらい?」
うそだろ。
もういい加減みんな嫌になってるのに、このクネクネをあと一時間だと?
「うわー!!!もう嫌やー!!!」
「ハルくん!ハルくん!ほら、缶コーヒーとタバコ!」
そう言って舞子は僕の口にタバコを咥えさせると火を点けてくれた。
しかし、終わりのない旅はない。
国道三一一号線が、ちょっと大きな川と並走するようになってくると、徐々に前方に連なる山々の間隔が広くなってきた。
やがて川が太くなり、両側に家並みが見えてくるようになると、どんどん視界が広くなっていき、そのまま国道四二号線になってずーっと川沿いを行くと、ついに海が見えた。
「海やー!!!!」
僕はトランシーバーの送信レバーを握り、皆に叫んだ。
ガガっ。
とりあえず、「白浜→」の看板がある交差点の手前で車を停める。
空はゆっくりと白くなり始めていた。
「やっと着いたなー」
タバコに火を点けながらタツヤが言った。
「でも、こっからどう行ったらええねん?」
ヒロくんも煙を吐きながら言う。
タカトモとミナコは、まだ後部座席で眠ったままだ。
マサキとサクラも起きてこない。
とりあえずホテルの場所と、ビーチの場所を見つけないといけない。
「お父さんから送ってきたホテルのパンフ持ってるよ。地図載ってるかも」
ユリカがそう言って、バッグから大層なパンフレットを取り出した。
『選ばれし者の休日』
そう書かれたパンフレットをめくると、確かに地図が載っていた。
「ビーチから徒歩一分の贅沢」
いちいちキャッチコピーのついたそのページを見ると、
どうやらホテルは白浜で一番大きなビーチに面して建っているらしい。
ではまずはそこを目指そう。
今度はユリカの乗ったタツヤのソアラを先頭に白浜に向かう。
「なあ、まだ朝早いけど、浜付く前にお腹空いてへん?」
ガガっ。
トランシーバーからタカトモの声がした。
やっと起きたようだった。
確かに、腹が減った。
どこか朝からモーニングをやっている、僕達のバイト先のような店はないものか。
線路と並行した道を、店を探しながら走っていると、都合のいいことに「二十四時間営業」という看板を掲げた、きいたこともないファミリーレストランが見えてきた。
よしあそこだ。
ガガっ。
僕たち以外誰もいない店内は、寒いくらいに冷房が効いていて、さすがに朝早すぎてまだモーニングサービスの時間になっていなかった。
とりあえずメニューで頼める軽食、サンドイッチやトーストやホットドッグとドリンクを頼む。
僕はミートスパゲティの大盛りとアイスコーヒーのビッグサイズを頼んで、女性陣に呆れられた。
舞子だけは、眠そうな目でメニューを眺めながら、
「朝からスパゲティって、旅って感じするね」
と妙な納得をしていた。
「とりあえず、ホテルのチェックインは午後やろうから、それまでは海で遊ぶとして、俺等みんなほとんど徹夜やから、ちょっとでも寝やんと、海で死ぬかも知れんな」
「せやな。タカトモは寝とったけどな」
「せやから、ここ出たらビーチの駐車場入れてしもて、エンジンかけたままでクーラー効かして寝よや。他のお客さん来始める頃まで、五時間くらい寝られるやん。」
「賛成。それにこの時間やったら、係員おらへん間に車入れてしもて、駐車代ただになるかも知れんしな」
という、無責任極まりない決議を経て、僕たちはファミリーレストランを出てビーチへ向かった。
ビーチの駐車場に着くと、予想通り係員はだれも居なくて、僕達は思い思いに車を停めた。
ソアラとアコードワゴンの中で、窮屈そうにシートを倒すのが見える。
僕は、「このスケジュール、いつ寝るの?」という舞子の発案で、後部座席を倒してクッションを敷き詰めたいつもの巣にしてやってきたので、ゆっくり横になって寝ることができる。
◇ ◇ ◇ ◇
──コンコン!
「お客さん!」
どれくらい寝ていたのだろうか、僕は車の窓を叩く音と声で目が覚めた。
胸元の少し下あたりで、舞子が丸くなって眠っていた。
鼻先が僕のシャツにちょんと触れている。
クルクルとドアのハンドルを回して窓を下ろすと、STAFFと書かれた札を首から下げた係員さんが
「はい。一日千円。」
と料金を徴収した。
世の中そう甘くはない。
他の二台も同じように起こされて料金を徴収されていた。
僕達はそのまま水着とタオルと着替えの入ったバッグだけ持って、ビーチへと向かった。
TUBEの「Beach Time」がそのまま似合いそうなピーカンだった。




