第40回 夜を越えて
「ハルヒト~!どないや~!?」
タカトモから電話がかかってきたのは、その日の夜だった。
そうだった。
この前のバーベキューのメンバーで、海に行く話だった。
タカトモの声は、夜なのにテンションだけ真夏の真昼だ。
「あー、ちょっと待って。すぐかけ直すわ。」
受話器を手で押さえて振り返ると、
舞子は銭湯帰りの髪をタオルで拭きながら、テーブルの上の麦茶を飲んでいた。
さてんのに~ちゃんのTシャツに、ドルフィンパンツ。
脚が風呂あがりの熱でほんのり赤い。
アパートの薄い壁越しに、遠くのバイクの音がぼんやり響いていた。
「タカトモから。今週の海、行けるかって」
「え、海?」
「うん。この前のバーベキューのメンバーで、土曜の夜出て、日曜遊んで、月曜まで泊まるって言うてる」
舞子はタオルをぽん、と膝に置き、
ほんの数秒だけ遠くを見るように黙って──“行きたいけど仕事あるしどうしよう”という迷いが、ほんの一瞬だけ表情に出たが、すぐに笑顔を向けた。
「うん、大丈夫。月曜もなんとかする。行こうよ」
「無理言うてごめんな」
「ううん。大丈夫。私、いつも頑張ってるから休みくらい取れるよ」
風呂上がり特有の柔らかい笑顔が、ふわっと灯った。
それを見た瞬間、僕の胸の中に「行きたい」という気持ちが一気に濃くなった。
ということで、海に行くのは今週の土曜の夜出発、日曜に一泊して月曜に帰ってくるという、なかなかの強行軍になった。
みんな暇な大学生だから、スケジュールなんか簡単に合うと思っていたが、ユリカの友達が一人、帰省する関係で参加できないという。
まあ仕方ない。
行き先は白浜。
例のユリカのお父さんが会員になっているホテルがあるので、十人用の大部屋で良ければ格安で取ってくれるという。
「大部屋で雑魚寝とか無理!」
と、ユリカと友達は、緊急時用に確保されているという四人を取ってもらったようだが。
どうやらホテルにはそういう部屋もあるらしい。
ということは、大部屋は──
タツヤ、タカトモ、ヒロくん、僕、そして舞子。
「大部屋?私、気にしないよ〜。平気平気」
と舞子は軽い感じだったが、平気で済ませていい話でもない。
僕は一応、二つだけ念押ししておいた。
・みんなの前で着替えない
・大浴場は女の子たちと一緒に行くこと
──土曜、夜。
集合場所は北白川のバッティングセンター。
駐車場が広いし、出発前に天一でラーメンも食べられる。
「またラーメン……」
とか言いながら、舞子は嬉しそうだった。
夜の駐車場はコンクリートが昼の熱をまだ少し抱えていて、
その隙間を夜風がゆっくり通り抜ける。
蛍光灯の光が、停まった車のボンネットで波のように揺れていた。
ソアラ、アコードワゴン、スプリンターカリブ。
三台が並んでいるだけで、遠足前みたいな空気になる。
車割りは舞子は当然ながら僕の車。
他はくじ引き──のはずだったが、
タカトモが“今井の鯖煮定食”で僕を買収してきたことは、誰にも言わない。
くじの結果はこうだ。
●タツヤのソアラ:タカトモ・ミナコ・ユリカ
●ヒロくんのアコードワゴン:マサキ・ヨーコ・サクラ
●僕のカリブ:僕・舞子
ちょうどよく収まった。
ルートの話をしていた時、舞子がそっと手を挙げた。
「あの……奈良から山抜けて十津川の方に行く道、
お父さんと何度か通ったことあって……私、分かると思う」
少しだけ声が震えていた。
それでも、ちゃんと自分から言った。
タカトモやヒロくんが「おお、頼もしいやん」と言うと、舞子は照れたように笑った。
「じゃ、白浜に向けて出発!」
3台のヘッドライトが夜の北白川を照らし出し、
その光が道路の白線を吸い込むように前へ進んでいく。
全員が持っている“私をスキーに連れてって”型のトランシーバー。
コードの先にある送受信機がミラーにぶら下がり、
走行の振動でピヨンピヨン揺れるのがやたら楽しい。
白川通から今出川へ。
賀茂大橋を渡ると、鴨川は黒いガラスのように静かだった。
街灯だけが川の表面を細い帯にして流れていく。
河川敷には、こんな時間なのに寝そべっている学生の姿が見えた。
夜の鴨川は、いつだって人を甘やかす。
「またお散歩しようねー」
舞子は窓の外へ手を伸ばしながら言った。
風をつかむみたいな仕草が、どこか子どもみたいだった。
十条を越え、宇治川を渡ると街の光が急に少なくなる。
窓を少し開けると、湿気を含んだ土の匂いが入ってきた。
「なんか……ほんとに旅行だね」
「やろ?大学生の夏っぽいやろ」
大和郡山、天理、橿原、御所。
地名だけが看板となって流れていく。
「長いね、二十四号」
「でも、悪くない夜やろ」
舞子の瞳にテールランプの赤い光が細く映っていた。
“五條市”の青看板が現れた瞬間、
舞子が窓の外を指さした。
「あ、この辺、見覚えある!」
青看板には、
← 新宮・十津川
↑ 和歌山・橋本
→ 河内長野
と書かれている。
僕はトランシーバーを掴んだ。
「一回ここで止まろか」
「了解!」
タツヤの声が混線しつつ返ってくる。
コンビニ前に車を止めると、
夜風がアスファルトの熱を含んでむわっとした。
けれど、京都市内とは比べ物にならないくらい息がしやすい。
舞子はお茶を飲みながら、少し誇らしげに道の説明をしてくれた。
「ここから一六八号。ずっと山の中で、川と並走したり、すごい崖があったり……景色、めっちゃきれいなんだよ」
その声は優しくて、少し懐かしそうだった。
舞子にとってこの道は、地図の上の道ではなく、家族と通った記憶の道なのだろう。
3台の車が再びエンジンをかけた時、空気が変わった。
森の匂いの濃さ、湿度、温度──
全部が一段階、深い夜へと沈んでいく。
「眠くなったら言えよ?」
「大丈夫。こういう道、好きなの」
ヘッドライトが山の闇を切り裂き、そのすぐ先から、また新しい闇が流れ込んでくる。
谷へ落ちるように下り、またぐっと登り返す。
カーブ、カーブ、カーブ。
窓の外では、
真っ暗な木々がヘッドライトに照らされて一瞬だけ姿を見せては、すぐに闇へ溶けていった。
「……すごい道やな」
「ここからが“エンドレスくねくね”だよ」
舞子は笑いながら少し身を乗り出し、
フロントガラスの向こうを目をこらして見つめていた。
まるで、これから始まる“夏の一夜”が全部見通せるかのように。
夜の山道には、誰も知らない夏の匂いが漂っていた。
スピーカーから、山下達郎の夏の歌声が流れている。
白浜までは、まだまだ長い。
それでも、わくわくする夜が続いていた。




