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第37回 束の間の嵐と、夜のはじまり

「来るぞ!」


───ゴオッ!!!!


タツヤの声と、その風が吹くのがほぼ同時だった。

僕達は


「ひゃっはー!!!」


と、バギーに乗ったモヒカン達のような気勢を上げて、琵琶湖へとダッシュする。

その勢いのままボードを水面に下ろし、セイルいっぱいに風を受けて一気に飛び乗る。


ふっ飛ばされそうになるのを耐えてブームに全体重を預けて足元の力を緩めると、ボードがものすごい勢いで加速する。

タツヤは既に僕の五メートルくらい前に飛び出していた

ボードが水切りの石みたいに水面を浮き上がってピョンピョン跳ねていくのが見える。

僕も負けじとセイルをコントロールする。

ふっと、脚にかかっていた水面からの蹴り返しが消えると、僕の板も水面を切って跳び始めた。


琵琶湖は、夏の午後三時頃に比良山から強い風が吹き下ろす事が多い。

地形の関係なのか、このあたりでは風が巻いて、ちょうど湖岸と平行に吹く。


岸からまっすぐ出れば、面倒なタックを繰り返して風上へ登らなくてもいい。

風を横から受けて沖へ走り、ジャイブを決めて、そのまま戻ってくることができる。


ただし、今日の空の様子からすると、一本沖まで行って折り返したら終わりだ。

すぐに撤収しないと、南国のスコールのような雨が降り出す。


はるか前方でタツヤのセイルがくるりと返り、見事なプレーニングジャイブを決めたのが見えた。

僕はどうする?

いつもなら、ターンの前にセイルを開いて風を逃がして減速し、ダガーを出してアウトレイルで大きくジャイブする。

でも今日は、インレイルに挑戦だ。

セイルを立て、ボードの後ろに移動しながらインレイルを踏む。

はらんだ風の力で一気に…


ドッパーン!!!


僕はセイルを飛び越えてボードの前方に放り出された。

琵琶湖の生臭い水が口の中に流れ込む。


嘲笑うかのように水面を切りながらみんなのところに戻っていくタツヤの背中を見ながら、僕はもう一度水中からセイルを立ち上げて、その後を追いかけた。


「わはははは!まだまだやのお、ハルヒト!」


岸に上がると、タツヤが満面の笑みで待っていた。


「今日はこの辺にしといたるわ!」


僕はお決まりのセリフを返して、とりあえずボードだけ引き上げてみんなのところに急いだ。

さっきまでワイワイとしていた東屋は、ゴミをまとめた袋だけを残してきれいに片付いていた。


ゴロゴロゴロ…


遠くで雷の音がした。


「みんな、ありがとう。ザーッとくるから、車に退避して!」


「えー、なんでわかるねん、そんなん。」


「ええから、濡れたくなかったらはよ!」


舞子がゴミ袋を持って僕の車に乗り込み、皆もそれぞれの車に乗り込んだのを見届けると、僕とタツヤはボードのところに戻った。

板からポールを外し、バテンを抜き、あちこちのロープを緩めていると──きた。


バチバチバチバチ!!!


「いたいいたいいたいいたい!!!!」


ものすごい大粒の雨がとんでもない勢いで裸の背中に降り注ぐ。

僕とタツヤは悲鳴を上げながら大急ぎでウィンドサーフィンを分解し、車まで三往復して全てを屋根に積み終えた時には、もはや雨なんかどうでも良くなっていた。


ビショビショのまま車に乗り込んでエンジンをかける。

ラジオからはちょうどママス&パパスの「California Dreamin'」が流れてきた。


冬の歌だが、僕は琵琶湖のスコールに一番合うのはこの曲だと思っている。

濡れた背中と、灰色の空と、遠いカリフォルニア。


これで曲の空気は残しつつ、歌詞そのものは避けられます。


三十分も車で待っていると、すぐに雨足は弱まった。

知っていたけれど。


僕は車から降りて、まず東屋の周りを見た。

ゴミ袋は積み終わり、かまどの炭も完全に沈黙している。

よし。


それからみんなの車を周り、今日はここで解散と告げて、楽しかった一日のお礼を言った。

みんな陽に焼けて、口々に今日のバーベキュー料理への賛辞を伝えてくれた。

ユリカも機嫌良さそうだった。

タカトモはミナコの連絡先をゲットしたとホクホク顔だ。


「ほな!またこのメンバーでどっか行こや!」


そう言って僕達は現地解散した。


◇    ◇    ◇    ◇


「ねえ、今日こそバームクーヘンと飴炊きと鮒ずしね」


実家にウィンドサーフィンを置いたあと、舞子が言った。

そういえばこの前叔父さんのところに来たときには、初めて見るキャンプ道具に興奮して、すっかり忘れててそのまま帰ってしまったんだった。

今の時間は午後の五時。

間に合わないことはないが、近江八幡は帰りと逆方向で、今からそっちに向かうのはちょっと面倒だ。

しかも夏の日曜日の夕方なんて、他府県ナンバーで道も混む。

舞子にそう説明すると、


「じゃあバームクーヘンはまた今度だね。でも、琵琶湖の魚の飴炊きと鮒ずしは何としても買って帰りたい!あの、エビ豆ってやつも!」


と言う。

まあ、それなら琵琶湖大橋の向こうの堅田の平和堂に行けば売っているだろう。

鮒ずしは微妙かもしれないが。


実家から取付道路に出て琵琶湖大橋に向かう。


「はい。二百円」


琵琶湖大橋の料金所の手前で、舞子が手際よくコインホルダーから小銭を渡してくれる。

七月の琵琶湖はまだまだ昼間のように明るく、湖面を行き来するウィンドサーフィンのセイルもいくつか見える。


堅田の平和堂は、夕方ということもあって混み合っていた。

食品売り場を探すと、すぐに飴炊きコーナーは見つかった。

ゴリ、稚鮎、モロコ、ワカサギ、エビ豆。

お、今回はシジミもあるじゃないか。

次々に買い物かごに放り込んでいると、舞子が赤こんにゃくを見つけて、


「そういえばこれ、まだ作ってもらってない」


とこちらを見た。


「今日の夜作ってあげよう」


「わーい!けど、鮒ずし、ないね…」


「ああ、鮒ずしはある時とない時があるねん。これはしゃあない。今日は、赤こんにゃくと飴炊きで白いご飯で納得して」


「分かったー。楽しみ楽しみ」


レジでハトのマークのついたカードを出して精算する。


"あなたの平和堂ショッピングカードが、新しく生まれ変わります!"

"一九八九年、HOPカードスタート予定!"

"ポイントがもっと貯まりやすく、使いやすく!"

"詳しくはサービスカウンターまで"


という告知ポスターが張り出されていた。


平和堂を出ると、町には少しずつ夕方の気配が降り始めていた。

アパートに帰るには、いつものように大原を抜けるのがいちばんの近道だが、せっかく今日は左にハンドルを切ったんだから、たまには違う道を選んでみるのも悪くない。

雨の匂いがまだ残る湖岸の風を受けながら、僕は今日一日のことを思い返していた。


渋滞気味の国道一六一号線をノロノロと南下し、やがて「日吉大社」の案内板が見えたところで、ハンドルを切って鳥居をくぐって坂道を上り、日吉大社の前を抜ける。

そこから京阪電車の線路沿いに続く細道をしばらく走ると現れる"比叡山ドライブウェイ"への分岐を直進して坂を登りきれば、西大津バイパスだ。

こうすれば、比較的スムーズに京都東ICの手前へと抜けられるのだ。

と言っても、161号の渋滞で結構な時間を食ってしまったのではあるけれど。


逢坂山の方から合流してくる国道一号線、つまりは五条通の方へは行かずに、三条通への道で山科を抜ける。

御陵を過ぎると、三条通の上を京阪京津線の電車が走っている。道路と一体になった軌道の上を、電車が車とすれ違いながら進んでいく様子は、どこか不思議な風景だった。


黄昏どきの空が、白から藍にゆっくりと色を変えつつある。信号の先に、京都市内の灯がちらちらと点き始めていた。


しばらくして、車は蹴上の手前へと差し掛かった。

東山ドライブウェイの方へとハンドルを切る。

カーブの続く登り坂を、二速のままエンジンの唸りを聞きながらゆっくりと登っていく。


背後にあった喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに、木々の隙間から西の空が開けてくる。夕陽はもう山の向こうに沈んでいたが、まだ淡い名残りが雲の端に残っている。峠の途中、車を路肩に寄せて、しばらくその茜色のグラデーションを見送った。


将軍塚の駐車場に着くころには、もう空は群青だった。


「舞子、ちょっと降りよう」


小さな段差を越え、暗い歩道を歩いて手すりのある展望ポイントへ進む。

眼下に広がるのは、ゆっくりと瞬きを始めた京都の夜景――南へ、北へ、まるで地図の上に星をばら撒いたように、町が静かに光っていた。


遠くに、ひときわ明るく浮かび上がる京都タワー。

その右手に、四条通の光の帯が夜の街を横切っている。

あの灯りのひとつひとつに、誰かの人生があるんだと、そんな当たり前のことを、なぜか今さら思った。

どこかで聞こえるサイレンが、夜に吸い込まれていった。

鴨川の流れは見えない。ただ、灯りの切れ目や、並木の暗がりが、それがそこにあることを教えてくれているようだった。


「うそ……何これ……映画みたい……」


舞子は手すりに手をかけたまま、しばらく言葉を失っていた。口元だけが、かすかに開いていた。


「将軍塚。京都でいちばん夜景がきれいに見える場所や」


僕は舞子の隣に立ち、手すりにもたれてタバコに火を点けた。

舞子は、しばらく黙ったまま夜景を見ていた。

光の海に吸い込まれるような顔で、どこか遠くを見ているようだった。

横顔が、街の灯りで淡く縁取られていた。


「ユリカさんともここ来たの?」


小さな声で舞子が呟いた。


胸の奥で、何かが小さく引っかかった。


「え?」


聞き返すと、舞子は今度は大きな声で言った。


「なんでもない!ねえハルくん、お腹すいた!バーベキューもうみんな消化しちゃった!早く家帰ってご飯炊いて!」


よし。任せとけ。


僕たちは車までヨーイドンで駆け出した。

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