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第38回 ペンギンカレー

「舞子、今日の晩ごはん、カレーでええ?」


琵琶湖バーベキューの翌日、舞子は朝早くからバイトに出かけて、いつものようにお昼頃帰ってきた。


「カレー?やったー!」


「うん、ローストチキンしたあとの鶏ガラと残り野菜でカレー作ったら、めっちゃ美味しいって叔父さんが言ってた」


「わ!絶対に美味しいやつ!うー、もう口の中がカレーになってきた!あ、はいこれはお昼ごはん!」


舞子はそう言って、ホテルのモーニングの残りを貰ってきたパンを僕に渡した。

とりあえずお昼はオムレツとパンだ。



「さて、舞子、ダッチオーブンどこやろ?」


食後のコーヒーを淹れながら僕は訊いた。


「え?下ろしてないなら車の中じゃないの?」


「あ…わー!!!!しまった!!!!車の中や!!!絶対に腐ってる!!!」


「腐る?鉄が?」


「いや、中に残った野菜とか鶏ガラとか…わ、鍋自体大変なことになってるかも…」


「昨日、車の中のダッチオーブン見てない?」


「見てない…」


舞子が笑い出した。


「ほんと、なんにも見てないんだねー。大丈夫だから、車の中見てきたら?」


舞子に言われるがままにキーを持って駐車場に行き、リアゲートを開ける。


昨日、大急ぎでそのまま車に放り込んでもらったはずのダッチオーブンは、ピカピカと黒光りしていた。

バーベキューグリルも、脚がきちんと折りたたまれて、網の焦げ付きもなくなっている。

スチベルを開けると、中は空だった。


何がなんだかわからないままにとりあえずダッチオーブンを持って部屋に戻ると、舞子が


「ね?大丈夫だったでしょ?」


と笑っていた。


「どういうこと?いつの間に?」


「大きな子供二人が波乗りしてる間に、ね」


「ええ!?あんなわずかな時間で?」


「わずかって…岸から見えないくらい向こうまで行ってたじゃない?結構な時間あったよ?」


そうなのか…やっている僕からしたら、あっという間に行って帰ってきた気がしてたんだけど。


話を聞くと、僕とタツヤがアホみたいな声を上げてすっ飛んでいったあと、

実はもう撤収の大半は終わっていたらしい。


舞子は、みんながバーベキューを楽しんでいる間じゅう、そして各自がのんびり飲み出してからもずっと動いていたという。

空き缶を集め、ゴミをまとめ、使い終わったグリルの網の焦げを落とし、

ダッチオーブンも「まだ食べられそう」と思った野菜と鶏ガラをバットに移してラップし、

スチベルにしまい、鍋まで洗っておいてくれたと。


だから僕が「風来るで、撤収や!」と声を上げた時には、片付けの大半はもう終わっていたらしい。

残っていたのは、重い荷物を車まで運ぶのと、舞子が最後にゴミと忘れ物を拾い集めることだけだった。


僕が風を読んで得意になっているあいだに、舞子はもう、撤収できる場所を作っていたのだ。



驚いた。

なんとなく蕎麦屋の時みたいにパタパタしてるなとは思っていた。

けれど、本当にあの時と同じように、ずっと動きっぱなしだったとは気づきもしなかった。


「でも、ダッチオーブンは洗って太陽で干して乾かしただけだけだから、叔父さんが言ってた、使った後の手入れはハルくん今からやってね」


「分かった。」


僕はそう言って、ダッチオーブンの手入れを始めた。


鍋にたっぷり水を入れてコンロにかけ、グラグラと沸いたところでシンクにあける。

熱気が残るうちにステンレスたわしで中をこすった。


「あちっ!」


そりゃ熱いに決まっている。

時々水をかけて指先を冷やしながらこする。


終わったら鍋をそのまま火に戻し、空焼き。

水気が完全に飛んで、薄く煙が立ち始めたところで火を止め、

キッチンペーパーで油を満遍なく塗り込む。


最後にもう一度軽く加熱して油を焼き付ける。

これで、ダッチオーブンの事後の儀式は完了だ。


「でも舞子、もっとのんびり楽しんでてもよかったのに。なんであんなにテキパキ片付けてたん?」


ダッチオーブンを手入れしながら訊くと、舞子は少し照れたように笑った。


「うん、小さい頃ね──」


舞子の家族で、紀伊半島の山奥にある“掘れば温泉が出る河原”へ出かけた時のことだった。

お父さんがバーナーで湯を沸かして作ってくれたラーメンを、家族みんなで食べていたら、突然サイレンが鳴った。


上流で大雨。

雨雲が丸ごとこちらへ向かっているから、河原の人は急いで撤収しろ──というアナウンス。


「舞子!車に乗れ!」


車に押し込まれた舞子は、窓の外で家族が必死に片付けているのを見ていた。

空は一気に暗くなり、ぽつりと大粒の雨が落ちた瞬間、家族も荷物もなんとか車に飛び乗った。


アクセルを踏んで河原から少し離れた道に上がる。

そして、そのわずか5分後──


さっきまで自分たちが座っていた河原が、丸ごと濁流の底に沈んだ。


「…それ以来なんだよね。キャンプとかバーベキュー行くと、反射的に“すぐ撤収できるように片付け”しちゃうの」


舞子は笑っていたけれど、

小さな子どもが見ていい光景じゃない。

胸の奥がひゅっとなる話だった。


「だからね、スチベルで冷やして持って帰ってきた食材は、全部冷蔵庫にあるよ」


素晴らしい。

僕は思わず舞子を抱きしめたくなった。


が、それはさすがに思いとどまった。


「じゃあ、やっぱり今日は家でカレーやな。一瞬、全部だめになったと思て、でも口はもうカレーになってるし、ビィヤントか、京大北門前の進々堂か、篠田屋の皿盛かって、瞬間的にめっちゃ考えたわ」


「それはそれで楽しそう!それもまた連れてってよ」


「もちろん」


「でも今日は、アウトドアカレーだね。」


改めてそうと決まれば、カレールーを買いに行かなければならない。

僕は舞子と自転車に乗って商店街に出かけた。


「舞子の家では、カレールーはいつも何使ってたの?」


「バーモントカレー。甘口」


うん。やっぱりカレーはバーモントだ。

リンゴとハチミツもとろ~り溶けてる。


「僕もバーモント。やけど舞子、辛口にしてもいける?」


「え~辛いのは…」


「じゃあ中辛は?」


「う~ん、じゃあ一回食べてみる」


よかった。

ヒデキもカンゲキだ。


バーモントカレー中辛をかごに入れ、次はお漬物コーナーへ。

真っ赤な福神漬と、真っ白ならっきょう。やはりカレーにはこのコントラストが欠かせない。


買い物を終えて家に帰ると、僕は冷蔵庫から鶏ガラを取り出し、一番大きな鍋で煮出しはじめた。

グラグラと煮立ってきたら、火を弱めて、アクを丁寧に取る。

このまま三十分くらい放っておけばOKだ。


僕の部屋に大きな鍋はこれ一つしかないから、煮出した鶏がら出汁は、網で濾しながらいったんいくつかのボウルに分ける。

鍋を洗って、今度は昨日ダッチオーブンに残った玉ねぎ、にんじん、じゃがいもを入れ、ボウルの中の鶏がら出汁を注いで火を点ける。

冷蔵庫から出した時点で既に玉ねぎは透明に崩れ、じゃがいもも溶け始めていた。

鶏ガラにまだ残っている肉も、指でむしって全部鍋に入れた。


沸騰したら火を弱めて煮込む。

といっても、もう完全に火は通っているから、野菜にスープの旨味が沁みればいい。

火を止めて、バーモントカレーを投入。

よくかき混ぜて完全に溶けたらもう一度火を点けて、とろみが付くまで弱火で五分。


同時進行で、同じタイミングで蒸らしが終わるように土釜で炊いていたご飯も、時間計算は完璧だった。

冷蔵庫に麦茶も冷えている。


「舞子~!できたよ~」


僕は皿に盛ったカレーライスをテーブルに運んだ。

舞子の肩が、期待でほんの少し上下した。

白く輝くご飯の上にとろりとかかる琥珀色とも飴色とも違う「カレー色」としか表現できないルーの色、福神漬の赤、らっきょうの白。

僕はカレースプーンを水に入れて出すのは、なんだか古臭くて好きじゃない。

磨いたスプーンを、麦茶のグラスと一緒にそっと並べる。舞子の顔がぱっと明るくなるのが分かった。


「「いっただっきまーす!」」


舞子の手が最初の一口をすくった。


「……んんっ!」


口に入れた瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。

そのあと、スプーンを口に押し込んだまま両目を閉じて、しばらく動かない。


「どう?」


「なにこのカレー?」


舞子が涙ぐみそうな顔で呟いた。

その睫毛が、夏の光を受けてわずかに濡れて見えた。


「バーモントカレー中辛。」


「違う、そういうことじゃないんだよ」


舞子はスプーンでらっきょうをひとつすくって口に入れた。

麦茶もひとくち。


「昨日のバーベキューの名残りみたいな味がするし、琵琶湖が見えるっていうか……なんだか、うまく言えないけど、優しい」


「鶏ガラやからな」


「骨から出た味、ってやつ?」


「うん、たぶん。でももうちょっと寝かせたら、もっと美味しくなる」


「じゃあ明日も食べよう!」


舞子はそう言って、福神漬をルーにちょんと押しつけて、赤く染めたご飯を口に運んだ。


「……うん、やっぱカレーって偉いね。何にでもなじむ」


僕は笑いながら、カレーを口に運ぶ。


「それって、舞子っぽいな」


「え?」


「なんか、周りのどんな人とも不思議と合うっていうか、最初はピリ辛で緊張するけど、打ち解けたら甘みが出てきて──」


舞子は一瞬きょとんとして、すぐに顔をそらした。


「なにそれ、照れるじゃん」


「急に照れるなよ」


「うるさいっ」


そう言いながら、舞子のスプーンは止まらなかった。

ふたりのカレーは、どんどん皿から消えていく。

舞子が、あの軽井沢の蕎麦屋で見たペンギンみたいに立ち働いてくれたからこそ食べられたカレー。

だからこれは、ペンギンカレーだ。

まるで、暑さも、昨日の疲れも、全部、胃袋の中に丸ごと放り込んで忘れてしまうかのようなカレーだった。


「ふう~、ごちそうさま!」


そう言ってスプーンを置き、麦茶のおかわりを舞子が入れてくれて僕がタバコに火を点けた時、部屋の電話が鳴った。




「ハルヒト!海行くぞ海!昨日のメンバーで!もちろんミナコちゃんも一緒や!」


タカトモだった。

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