第25回 春の妙心寺、電話の向こう
毎年ゴールデンウィークが明けた次の土日、広告研究会では、友好団体の関大広研と合同で、妙心寺で春合宿がある。
出町柳から車で向かった。
お昼すぎ、集合場所の三門の前に到着すると、既にほとんどのメンバーが集まっていた。
朱塗りの荘厳な門の前で、大学生の団体ははっきり言って場違いだ。
本堂の屋根からは、ゆっくりと風が滑り落ちてくるような気がする。
松の枝がざわっと揺れたとき、その下でスカジャンを着た関大の男が「うわ、虫やん」と声を上げ、参道の空気が一瞬で俗世に引き戻される。
参拝客は、遠巻きに、しかしあからさまに迷惑そうに僕たちを見ながら通り過ぎて行く。
しかしこのお寺は、毎年快くこの場違いな集団の恒例行事を受け入れてくれていた。
関大広研は、こちらに比べて明らかにサブカル臭が強い。
右側と後ろは刈り上げているのに、左側だけ目も耳も隠れるほど長く伸ばしたアシンメトリーな髪型の男。
どこで売っているのか謎の、全身真緑のブラウスとロングスカートの女。
その女は、なぜか常に片手に『ユリイカ』を持っていて、それを手帳みたいにして何か書き込んでいる。
もう初夏だというのに真っ黒のマント姿がいるかと思えば、全身コテコテのアイビールックに蝶ネクタイ、しかもレンズの入っていない飴縁のウェリントンメガネをかけているやつもいる。
一方こちらは、「テニスサークルです」と言ってもすんなり通りそうな、ごく普通の格好のメンバーばかりだ。
さすがに3回生にもなると見知った顔も多くすっかり慣れたが、1回生で初めてこの合宿に参加して彼らと会った時は、正直ものすごく気後れした。
コピーライターだとかデザイナーだとかエディターだとか、そういう「クリエイティブ」な仕事に就くのは、きっとこういう人たちなんだろうと思っていた。
彼らには、奇妙な自信があった。
自分の価値を、自分でちゃんと信じているような感じ。
僕みたいに普通にミーハーなタイプの人間にとって、そういう人たちは、少しまぶしすぎた。
しかし所詮は大学生のマスコミごっこ、彼らは勝手にこちらがビビっていたほど気難しくも先鋭的でも芸術家肌でもなく、ちょっとサブカルっぽい格好をしてみたかっただけの普通の大学生だということが分かってきた。
そして実に気のいい連中だということも。
僕たちは年に何回かの交流行事を通じてあっという間に打ち解けたし、2回生に上がる頃には、何組かのカップルまでできていた。
きっと今回初めてのうちの大学の1回生も、今は同じようにビビり、やがて同じように打ち解けて行くのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「今回の課題を発表します!」
オリエンテーションの席、両校の会長が皆の前で模造紙を広げた。
毎年この春合宿では、新入生と2回生を中心に広告制作のフローを学ぶことを目的として、広告する課題商品が発表され、それぞれの大学で広告案をプレゼンする。
夏合宿や冬合宿は、沖縄に遊びに行ったり、信州へスキーに行ったりする、合宿という名のお遊び旅行に近い。
それに比べて春合宿だけは、唯一、本当に広告を研究する。
翌日は、皆で嵐山や八瀬遊園に遊びに行く。
その昼食代や入場料をかけた戦いになるから、おのずと真剣になる。
今年の勝負の賞品は、嵐山の湯豆腐御膳ランチだった。
半額は負けた方の広研の運営費から出るとは言え、個人も結構な出費だ。
制作作業に入る前に、2回生から新入生向けに基礎講座が行われる。
ブレスト、ターゲットセグメント、AIDMA、マズローの5段階欲求説、キャッチコピーの考え方、紙面上での視線誘導などなど。
新入生が学ぶだけではなく、2回生も人前で講義をするために、必死で勉強し直す。
そして、今回の広告課題商品は、前年にソニーから発売された家庭用ビデオカメラ「ハンディカム CCD-V50」。
価格は約二十万円。
大卒初任給の一・五倍ほどするこの贅沢品を、どうやって売るか。
そのための広告戦略を考え、最終的に一ページの雑誌広告という体で仕上げるのが課題だ。
発表は翌日の朝食の後。
3回生の投票で勝敗を決める。
基礎講義が終わると両大学に分かれて、1、2回生はまさに侃々諤々、ああでもないこうでもないと意見を出し合っている。
正直、3回生は時々アドバイスする程度であまりやることがないのだが、去年まで必死に頭を捻っていた立場だったのだから、まあ公平だと言えるだろう。
あっという間に時間が過ぎていく。
夕暮れの光が本堂の屋根を朱に染めていく頃、僕たちは作業を中断して、大方丈の広間に敷かれた畳の上に正座していた。
夕食だ。
襖が音もなく開くと、静かに運ばれてきたのは、朱塗りの膳に整然と並べられた一汁七菜。
湯気の立つ味噌汁に、炊きたての白米。小鉢には胡麻豆腐や季節の煮物、山菜のおひたし、切干大根の炊いたん、胡麻和え、そして香の物。すべて、動物性のものは使われていない。
2年前、初めてこの料理を出された僕は、最初、大いなる不満を持った。
「……え? これだけ?肉は?」
思わずそう口にした僕に、向かいに座った関大の3回生の女性が笑った。
「まあ、食べてみって」
「はあ…」
しかし、箸を手にとってまず胡麻豆腐を口に運んだ瞬間──
「……うまい」
驚いたように自分の声が漏れた。
まったりと舌に広がる胡麻の風味、淡い出汁の香り。柔らかいのにしっかりとした食感。そして、後からふわりと香る山葵の爽やかさ。
思わず次の小鉢へと箸をのばし、煮物に噛みしめると、味の染みた人参や高野豆腐が、思いのほかしっかりと「滋味」を伝えてくる。
「なんやろ、これ……素材の味って、こんなにちゃんと分かるんや」
耳を澄ますと、夜の気配とともに虫の声が聞こえてくる。
遠くでウグイスが、ほつれるように一声、鳴いた。
──食べ物が、こんなに静かに心に染みることがあるなんて、知らなかった。
あれから毎年、僕は年に一度のこの精進料理を楽しみにしている。
今年の胡麻豆腐も、やっぱりうまかった。
けれど、一口食べた瞬間に浮かんだのは、隣にいない舞子の顔だった。
「舞子にも食べさせてやりたいな」
そう呟いた僕の声を、誰かが聞いたかもしれない。
でも、誰も何も言わず、静かに箸を進めていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「えー!ハルくん、今週末いないの?」
舞子は口を尖らせた。
「ハルくんいないと、ひとりの夜なんて寂しすぎるよー」
「何言うてんの。今までも週に一回は深夜シフト入ってて、いいひん夜あるやん」
「それは帰ってくる夜でしょ。今回は、朝になってもいないんでしょ。それに、ハルくんがご飯作ってくれなかったら、私、餓死しちゃうかもよ?」
「いやいや、冷凍庫に舞子が作り置きしてるお好み焼きがアホほどあるやん。」
ぐずる舞子を何とか納得させるのに、結局、自転車を走らせてたこ焼きを食べに行くことになってしまった。
土曜日の朝、出かけるときに舞子がバイトに行っていたのは、ラッキーだったかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
「舞子、どうしてるかな?」
夕食とお風呂の後、戦略会議を再開した後輩たちの姿を横目に見ながら、僕はロビーに降りていった。
片隅のピンク電話で、自分の部屋の電話番号をプッシュする。
僕の留守中、舞子は基本的に電話に出ない。
ただし、二回鳴らして一回切り、すぐにかけ直す。
それが僕からの合図で、その電話だけは出てもいいことにしていた。
「はーい!」
聞き慣れた舞子の声がした。
「あ、舞子?ハルヒト。」
「ハルく~ん!」
「ハルく~ん!」
受話器の向こうで、声が少し跳ねていた。
「舞子、大丈夫か?」
「ハルく~ん!」
「ご飯食べた?」
「ハルく~ん!」
「いいから質問に答えて」
そう言いながら僕は吹き出してしまった。何か喋れ。
「お風呂、ちゃんと言うたように明るい内に行った?」
「うん、おばちゃんが『あらお嬢ちゃん、今日はひとりかいな?えらい早い時間に』って言ってたよ」
やっと会話が成立した。
「そか」
「寂しいよー」
「バイト帰ってきてからどうしてたん?」
「ちょっとお昼寝して、着替えとキャットフード持って猫たちにご飯あげながら鴨川デルタまでお散歩行って、錢湯行って帰ってきた。」
「さっきも訊いたけど、晩ごはんちゃんと食べた?」
「食べたよー。お好み焼きチンして」
「そか。良かった」
「でも、ひとりで食べると美味しさが減るんだよ」
「明日の夕方には帰るから、大人しく待ってて」
「うん、大人しく待ってるー」
「じゃあ、切るね。おやすみ」
「おやすみー」
僕は少しの間、受話器を耳に当てたままにしてから、そっと置いた。
電話を切って振り返ると、自販機のところで缶コーヒーを手に持った関大の野上くんがニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「中田くん、彼女に電話?」
「いや、違うねん。」
「何が違うん?」
ニヤニヤ。
「家にペットいてな、うん、ペットのハムスター」
「へー、最近のハムスターは、電話に出るねんな」
そう言って、ニヤニヤしたまま階段を上がっていった。
別に、関大の野上くんになら、「彼女に電話」と答えても何も不審な点はない。
むしろ、その方が説明は簡単だった。
それでも、舞子との電話を「彼女との電話」と言われることには、妙な抵抗があった。
そう言ってしまった瞬間、何かを雑に決めつけてしまう気がしたのだ。
布団に入って眠りの淵に落ちるときも、耳の奥で舞子の「ハルくーん」という声がした。




