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第12回 舞子与一と骨付鳥

「あ〜、よく寝た!」


目が覚めて、同時に出た言葉がそれだった。

時計は五時半。昨夜は八時過ぎには二人とも布団に沈んで、そのまま朝まで爆睡したらしい。


「お腹すいた!」


これもハモった。顔を見合わせてゲラゲラ笑う。平和な朝だ。


「もう起きとん? ほんなら朝ごはん用意しよか〜」


襖の向こうから、民宿のおばちゃんの声がする。

僕が「こんな早くて大丈夫ですか?」と返すより早く、布団の中から舞子が、


「お願いします〜!」


と元気に返事した。


洗面所で顔を洗う音を聞きながら布団をたたみ、ざっくり荷物をまとめる。

台所の方からは、だしの香りと、焼き魚の匂いが漂ってきた。


「昨日のしょうゆ豆、また出てくると思う?」


「出てきそうな気がする」


「うれしいの?」


「……まあまあ!」


えへへと笑う声が、朝の光に溶けていく。


おばちゃんに呼ばれて居間に行くと、ちゃぶ台には、焼き鮭、玉子焼き、味噌汁、漬物、炊きたてのごはん。

そして当然のように、小鉢のしょうゆ豆。


「しょうゆ豆だ〜」


舞子は、昨日から会いたかった友だちに再会したみたいな顔をした。


「昨日、あんたがようさん食べてくれたけんね。今朝はちょっと甘めに炊いてみたんよ」


「いただきます」


白味噌仕立ての味噌汁は、柔らかい甘さで寝起きの体にしみていく。

ごはんは粒立ちが良くて、噛むたびに甘い。


舞子は、しょうゆ豆を一粒つまんで、しばらくじっと眺めてから口に運んだ。


「……やっぱり好き。しょっぱいんだけど、ほっとする」


ごはんをひと口、豆をひと粒。お茶をすすって、また豆。

完全に「しょうゆ豆の人」になっている。


朝食を終えて部屋に戻ると、つい癖で布団を押し入れに片付けようとしてしまい、


「あ、それ、しまわんでええよ〜。干したり点検したりするけん、そのままで助かるわ」


とおばちゃんに笑われた。


部屋でお茶を飲んでいると、縁側で舞子が座布団に丸くなり、猫みたいに日向ぼっこを始める。

こっちまで眠くなるなあと思ったところで、うっかり二度寝してしまったらしい。


ボーン。


柱時計の音で目を覚ますと、八時半だった。


「舞子、そろそろ行くよ」


声をかけると、縁側から「はーい」という返事。

玄関で靴を履いていると、舞子がお腹を押さえながら言った。


「……ちょっと、お腹すいてきたかも」


「はやない? さっきあれだけ食べてたやん」


「でも、なんか……"うどんの口"になってきた」


その言い方が妙にしっくりくる。

旅先特有の、「今ここでしか食べられないものを、今のうちに食べておきたい」あの感じだ。


「旅してるとさ、"食べとかなきゃ損"って気持ちにならない?」


「分かる」


二人して頷いてしまう。


支払いを済ませると、おばちゃんが小さなタッパーを差し出した。


「これ持っていき。昨日の残りに、今朝炊いたしょうゆ豆も足しておいたけん。冷めてもおいしいから、途中のおやつにでもして」


「うわっ……!」


舞子は両手でタッパーを受け取って、ぱあっと顔を輝かせた。


「ありがとうございます! 絶対こぼしません!」


車に荷物を積み込んで、手を振って民宿を後にする。


「しょうゆ豆はうどんまでガマンね。うどんの後のおやつ」


舞子はタッパーを膝の上に抱え、きっちりルールを決めている。

どこまで豆が好きなんだ、この子は。


◇  ◇  ◇  ◇


今日の最初のうどん屋は、昨日までの店よりもさらに「普通の家」だった。


小さな集落の中、畑の向こうに見える木造の家。

看板も暖簾もない。

引き戸の横に、簡素な長机とベンチが置かれているだけだ。


「ほんとにここがうどん屋さん?」


不安そうに言いながらも、舞子の目は期待でキラキラしている。


引き戸をそっと開けると、湯気と小麦粉の匂いがふわっと押し寄せてきた。

奥には大きな釜、その横に白い粉でうっすらと色づいた麺台。

腰の曲がった小柄なおばあちゃんが、白い割烹着姿でこちらを見て微笑んだ。


「食べますか?」


「はい。お願いします」


「熱いのですか、冷たいのですか。大きいのですか、小さいのですか」


メニューは、それだけ。


「僕は大の熱いので。舞子は?」


「うん、私も大の熱いの」


「ほな、ちょっと茹でるけんね。十分ほど待ちよって」


僕たちは外のベンチに座って待つことにした。


「まだかな、まだかな」


舞子が歌うように呟く。その横顔は完全に子どもだ。


「できとるで〜」


声に呼ばれて中へ入ると、湯気の立つ丼がふたつ並んでいた。

横には、ざるに山積みになった生卵と、ネギの入ったタッパー、醤油の瓶。


「まず卵、割ってうどんに落とす」


僕が言うと、舞子は素直に従って、丼の真ん中にぽとりと落とした。


「次、ネギ」


タッパーから好きなだけすくって、卵の周りにふわりとかける。

最後に醤油を回しかける。かけ過ぎるとしょっぱいから、控えめに。


「そしたら、親の仇みたいに混ぜる」


二人して、ぐるぐる、ぐるぐる。

白い麺が、卵と醤油とネギに染まっていく。


「いただきます!」


ひと口すする。


「うわ!」


舞子が叫んだ。


「なにこれっ!? なにこれなにこれなにこれっ!?」


麺の熱で少し固まった卵が、濃厚なソースみたいに絡みついてくる。

しっかり腰のある麺なのに、口当たりはまろやかで、ネギと醤油の香りがふわっと立ち上がる。

あえて言うなら、卵と醤油だけでできた、和風の濃いソースみたいなものだった。


舞子はあっという間に「猫舌ハムスターモード」に入り、ほっぺたを膨らませたまま、一心不乱に麺をすすっている。

今、この子の視界には、きっと世界にうどんしかない。


「あ〜〜〜! 美味しかった!」


丼を返しながら、二人同時に声を上げる。


「昨日の宮武さんも、フェリーのも、山の上の店も全部美味しかったけど、ここはまた別世界だね!」


「ここは絶対外せへん店やからな」


お会計は驚きの値段だったが、それを口に出すと旅情が安くなる気がしたので、心の中だけで驚いておいた。


◇  ◇  ◇  ◇


うどんで満たされたお腹をさすりながら、まだ朝の十時。

さて、どうしようかと考えていると、横から舞子が言った。


「ねえ、今日ってもう京都に戻るの?」


「うん。一応そのつもりやけど……その前に、ちょっと寄り道しよか」


「寄り道?」


「たぬき、好き?」


「たぬきさん? うん! かわいい!」


「よし。じゃあ、たぬきに挨拶して帰ろ」


そう言って、僕はハンドルを北の方へ向けた。


山道を越え、工事車両の多い広い道を抜ける。

新しい空港の工事が進んでいるらしく、道沿いには案内看板や工事の標識が目立った。


市街地に下りていくと、案内板に「屋島」の文字が見えてきた。


駐車場に車を停めて降りると、まず視界に飛び込んできたのは──


「えっ、たぬき……多っ!」


土産物屋の前に、信楽焼のたぬきがずらりと並んでいる。

笑顔のたぬき、ほろ酔い顔のたぬき、笠をかぶったたぬき。

大中小、全部たぬき。うさぎもかえるもいない。徹底したたぬき推しだ。


「ここ、すごい……たぬき王国だ……」


舞子はたぬきの間を縫うように歩き、ひとつひとつじっくり眺めている。

ときどき本物そっくりの剥製に「ひゃっ」と跳びのいて、照れ笑いを浮かべる。


展望台へ向かう途中、「屋島合戦」の案内板が立っていた。

義経の夜襲、扇の的。教科書で見た名前が並んでいる。


「ここが、あの源平合戦の場所なんだ……」


舞子は珍しく真面目な顔で説明文を追っている。


「"与一、扇の真ん中を射よ"ってさ……外したらどうなるの? 討たれる?」


「たぶんな」


「うわぁ……プレッシャーえぐい」


しばし歴史に思いを馳せてから歩き出すと、「かわらけ投げ」の的台が見えてきた。


「投げていいやつだ!」


舞子は嬉々として三枚セットの素焼きの皿を買い、「心願成就」「厄除け」「恋愛成就」と書かれた皿に、それぞれ何か書き込んでいる。


「なんて書いたん?」


「内緒。恋愛ではない……と思う」


怪しい。


ひと呼吸おいて、皿を構える。


「いざ、出陣……!」


かっこいいセリフの直後、一枚目は見事に茂みに消えた。


「……あれ?」


「風のせいやな」


二枚目も三枚目も的は外れたが、舞子は悔しがるよりも、皿が空中で割れる音を楽しんでいた。


「なんかさ、パリンって音が気持ちいいね。嫌なものが落ちてく感じ」


展望台の望遠鏡に百円玉を入れて、海を覗く。


「あっ、船だ! あ、もう終わり!? 短っ!」


「それで百円やで」


「うん。でも、なんか得した気分」


最後に、売店でソフトクリームを買ってベンチに腰かけた。

濃いのにしつこくないバニラをひと舐めし、舞子が「はい、一口」と、子どもが大事なおやつを分けるみたいな手つきでこちらに差し出してくる。


二人で笑い合いながらソフトクリームをつつく。

山の上の風は涼しくて、眼下には高松の街と、穏やかな海が広がっていた。


舞子はカップを手にしたまま、しばらく何も言わず海の方を見つめていた。

横顔が、風景に溶けていきそうになる。


「……ここ、来てよかったね」


ぽつりと、その一言。


「うん。そう思う」


僕も同じ方向を見ながら答えた。

遠くの海のあたりで、何かがゆっくり動いたような気がした。


◇  ◇  ◇  ◇


ソフトクリームを食べ終えて駐車場に戻る頃には、ちょうどお昼時だった。


「なんかまた、お腹すいてきた」


「うん。そろそろ、今日最後の"本命"いこか」


「本命?」


「骨付鳥」


「えっ、あの骨付鳥!? お祭りで売ってる、甘いタレのやつ!?」


「……まあ、骨付鳥は骨付鳥や」


なんとも曖昧な返事をしてしまった。


海沿いの道を西へ走り、街が少しずつ低くなっていく。

川にかかった橋を渡り、お目当ての店の駐車場に車を入れた。


「ここ?」


「うん。ここ」


古民家風の店構えの中に入ると、にんにくと鶏の脂と胡椒が混じり合った匂いが、一気に全身を包み込んだ。


「……なんか、すごい」


「戦のにおいやろ?」


「だから誰と戦ってるの……?」


笑いながら席に案内される。

窓の向こうには、川の土手が見えた。


「僕は"親"で。ちょっと固いけど、味が深い。舞子は"ひな"がええと思う」


「柔らかいのがいい。雛……名前がかわいすぎて怖いけど」


注文を済ませると、厨房の方からジュウウウ……という音が聞こえてくる。

にんにくが焦げる匂いがさっきより濃くなった。


「たぶん、今うちらの焼いてる」


「え、私たち、今こんがりしてるの……?」


しばらくして、まずキャベツが出てきた。

それをかじりながら待っていると、ついに本命が銀の皿にのってやってきた。


「……なにこれ」


舞子が素でつぶやく。


皿の上には、黒々とした皮をまとった肉の塊。

皮には細かい泡が浮かび、にんにくと胡椒と脂が一体になったような、凶悪な匂いを放っている。


「えっ、骨付鳥って、こんな迫力あった? もっとこう、かわいい照り焼き的な……」


「みたらし団子の親戚みたいな味想像してた?」


「そうそう! 砂糖醤油で、ちょっと甘くて安全なやつ!」


目の前の"ひな"は、安全とはだいぶ違う方向に振り切れている。


「とりあえず、一口やな」


箸袋で骨の細いところをくるりと巻いて、手でつかむ。

舞子はおそるおそるかぶりついた。


パリッ。


皮が裂けた瞬間、熱い肉汁があふれ出す。

にんにく、胡椒、脂。全部が一度に口の中を駆け抜けていく。


「……なにこれ」


さっきと同じ言葉なのに、声の色がぜんぜん違う。


「おいし……ちょ、待って、なにこれ……やば……」


「うまいやろ?」


「皮パリパリ! 中ジューシー! にんにく! でもくどくない! でも辛い! ていうか味濃い!!」


「そう、それがここの骨付鳥」


「ごはん……ごはん欲しい……!」


「おむすびあるで」


店員さんを呼んで、おむすびの皿を頼む。

しばらくして運ばれてきたのは、黒ごまが山のように乗った白い三角と、海苔付きがひとつ。

黄色いたくあんが添えられている。


「かわいい……」


ひとつ手に取って、ひと口。


「……あああ〜〜〜助かる〜〜〜!!」


思わず声が漏れている。


「辛い! →白ごはん! →まだ辛い! →白ごはん! これ! これだよ!」


骨付鳥とおむすびのループに突入した舞子は、ほっぺたをパンパンに膨らませたまま、集中して咀嚼している。

さっきまで与一を心配していた子とは思えない。


おむすびを平らげたところで、舞子が言った。


「ねえ、おむすび、もうひと皿頼んでいい?」


旅先では、胃袋だけ別行動を始めることがある。


「ええよ」


二皿目が来たところで、僕は皿の縁を指さした。


「そのおむすび、ちょっとだけこの油にちょんちょんってつけて食べてみ?」


「えっ、そんなことしていいの?」


「だいぶ悪いことしてる気分になるけど、やってみ」


恐る恐る、黒ごまのてっぺんを油にちょん、とつけて、ぱくり。


「…………なにこれ」


数秒固まってから、目だけこっちを向けてきた。


「やば……やば……革命……」


言葉になっていない。


そこから先は、骨付鳥とおむすびと皿の油で、完全なる無限ループが完成した。


最後の一かけまできれいに食べきると、銀の皿には骨だけが残った。


舞子を香川に連れてきて、よかった。

そんな単純な気持ちが、骨付鳥の脂の匂いの中に、じんわりと滲んでいた。


「……すごかった……」


舞子は、しばらく皿を見つめてから、ふっとため息をついた。


◇  ◇  ◇  ◇


店を出ると、空はもう西に傾き始めていた。


「うどん、うどん、しょうゆ豆、うどん、たぬき、与一、骨付鳥……情報量えぐい……」


助手席で舞子がぼんやりつぶやく。


「楽しかった?」


「楽しいとかおいしいとか、そういう単語じゃ足りない……でも、全部、ちゃんと覚えておきたい……」


フロントガラスの向こうで、瀬戸内の光がゆっくりと淡くなっていく。


「じゃあ、そろそろ帰ろか」


「えー」


ライブで「次が最後の曲です」と言われた客みたいな声が出た。


「また連れてきたるから。うどんも、金毘羅さんも、たぬきも、骨付鳥も、しょうゆ豆も」


「絶対?」


「絶対。名物"かまど"にも誓う」


「しょうゆ豆にも誓って」


「もちろん」


そう言って、舞子の頭をぽんぽんと叩く。


京都へ向かう道のりは、来たときより少しだけ短く感じた。

舞子の膝の上には、おばちゃんにもらったしょうゆ豆のタッパーが大事そうに抱えられている。

助手席では、ポニーテールとタキシードサムが、ゆっくりと揺れていた。

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