episode 8
その後、殿下は旦那様のことも、側妃のことも、一切話題にすることはなかった。
私から話題にすることももちろんなく、私たちはただ、たわいのない会話を楽しんだ。
そのおかげもあってか、私の心は王宮に来た時と比べて、随分と軽くなっていたと思う。
「あ、そろそろ、帰らないといけない時間かな?」
なんていう、殿下のお言葉を聞くまでは。
私は、一気に気が重くなるのを感じ、それだけ帰りたくないと思っているのだということに気づいた。
「帰りたくない?なら、泊まっていってもいいよ」
「えっ?」
「ああ、安心して。ちゃんとゲストルームを用意するから」
私はただ、思いもしなかったご提案に驚いただけ。
そんな心配をしたわけでは、なかったのだけれど……。
「侯爵家から、迎えが来そうで心配?」
そう、私が心配していたのは、こちらである。
もし私が帰らなかったら、王宮にご迷惑をおかけしないよう、侯爵家からわざわざお迎えが来てしまうだろうと思ったのだ。
「ちゃんと使いを出すから大丈夫だよ。侯爵夫人は、体調を崩したから王宮に泊まらせるって」
それでも、やっぱり来てしまうような気がする。
口に出したわけではなかったけれど、そんな私の不安に、殿下はちゃんと気づいてくださった。
「それでも心配なら、今日はもう遅いから侯爵家からの訪問は禁止っていうのも付け加えておこうか」
それなら、安心かもしれない、そんな気持ちが芽生え始める。
「これでも一応、王太子だからね。さすがの侯爵家も俺がそこまですれば、今日は迎えには来られないよ」
それは、きっと、そうだろう。
さすがの旦那様であっても、殿下のお言葉に逆らうことなどできないはずだから。
けれど、殿下にそこまでさせてしまうのは申し訳ない、そんな気持ちの方が強かった、この瞬間までは。
「で、明日からどうするかは、明日また、ゆっくり考えようか?」
優しい笑顔と、優しい誘惑。
私は、それに縋りつきたくなってしまう。
「いいん、でしょうか?」
「少なくとも、俺はいいと思うよ。たまには、息抜きも必要ってことで」
殿下が立ち上がり、私に手を差し伸べてくださる。
その手を取るということは、きっと今日はここに泊まるという選択になるのだろう。
「最近あまり食べられてないんでしょ?夕食は食べやすいものを用意させるから、一緒に食べようか。ね?」
「……はい」
それでもやっぱり帰らないと、そんな思いもあったのだけれど。
結局、私は優しい誘惑に負けて、殿下の手を取ってしまった。
殿下が厨房に指示して用意してくださった食事は、どれも胃に優しく食べやすい、それでいてとてもおいしいものばかりだった。
もちろん、食事の場にマチルダ様がいらっしゃるようなこともない。
私なんかが妃殿下から、王太子殿下との夕食の時間を奪ってしまってよかったのか、少し心配にはなったものの、殿下との会話はやはりとても楽しくて、私は久しぶりに食事の時間を楽しむことができた。
やはり、そこに旦那様に対するような、ときめきなんて微塵もなかった。
けれど、殿下と過ごす穏やかで優しい時間は、あらためて私に、こんなお兄さんがいたら素敵だろうな、と思わせるものだった。
「わぁぁ、素敵なお部屋……」
旦那様が私に用意してくださった、侯爵邸の寝室もとても素敵だけれど。
王宮で用意してもらったゲストルームは、それとはまた違った魅力のある、お部屋だった。
侯爵邸の寝室は落ち着いた貴婦人の部屋、それに対して、ゲストルームはかわいいお姫様の部屋といったところだろうか。
「気に入った?なら、コゼットが側妃になったら、お部屋はこんな感じにしようか」
「へっ?」
突然飛び出した、『側妃』の言葉にどきりとする。
だって、私はまだ、その結論を出せてはいないから。
けれど、もし本当に殿下の側妃になるとすれば、今の侯爵邸の寝室も気に入ってはいるけれど、それとは全く違う雰囲気のこのゲストルームのような部屋の方がありがたいかもしれないと思った。
その方がきっと、侯爵邸や旦那様のことを、思い出さなくてすむだろうから。
肌触りの良い、シルクのナイトドレス。
安眠効果のある、ハーブティー。
そして、親切なメイドさん。
きっと急遽あれこれ手配が必要になったはずなのに、殿下が用意してくださったものは、何から何まで驚くほど完璧だった。
殿下とこんな風に過ごす穏やかな日々も、悪くはないかも。
気づけばそんなことを考えながら、私はその日眠りについた。
翌朝、といっても、まだ眠りについている人も多いだろう、非常に朝早い時間のことだった。
非常に騒がしい足音が聞こえてきて、私は目が覚めた。
何かあったのだろうか、そうしてベッドから身体を起こしたまさにその瞬間だった。
「コゼット!」
そんな言葉とともに、部屋の扉が勢いよく開いて、これまた勢いよく旦那様が部屋の中へと飛び込んできたのは。
「ひゃあっ!!」
旦那様の登場にもびっくりだったけれど、その後ろには王太子殿下もいる。
そんな状況で、私は寝起きの状態、しかもナイトドレスは左肩の方がずり落ちそうになっている。
私は慌てて、さっきまで被っていた布団で、とりあえず自身の身体を隠した。
「ごめんね、コゼット。止めようとしたんだけど、止めきれなくて」
そう仰った殿下も、身なりが整っておらず、私と同様寝起きのように見える。
無理もない、この時間はまだ王太子殿下が夢の中にいらしても、何ら不思議のない時間である。
そして、そんな王太子殿下は、旦那様はとても恐ろしい表情で睨みつけていた。
「おまえが昨日来るなって言うから、朝まで待ったんだろう」
「朝っていっても、いくらなんでも訪問するには早すぎでしょ……」
こればっかりは、王太子殿下に同意である。
しかしながら、旦那様の身なりは私たちとは違ってしっかりと整えられている。
いったい、いつ起床されたのだろうか。
「コゼット、体調が悪いと聞いたが本当か?医者には診せたのか?こんなところにいないで、家に帰ってすぐ休もう」
「え?」
旦那様から矢継ぎ早に出てくるのは、私を心配するような言葉ばかり。
予想もしなかった言葉の数々に驚いたけれど、それ以上に心配そうに私に触れる旦那様の手に、私はどきどきせずにはいられなかった。
けれど、そんな時間も長くは続かなかった。
「テオっ!」
そんな声とともに、今度はマチルダ様が部屋の中へと駆けこんで来たから。
どこからか、旦那様が王宮にいらしたことをお聞きになったのだろう。
もしくは、旦那様が私の元へ訪れたのはあくまでついでであって、本来はマチルダ様に会いにいらしただけなのかもしれない。
同じナイトドレス姿でも、マチルダ様のそれは女性の私でさえ目のやり場に戸惑うような大胆なデザインだった。
しかし、それでいてマチルダ様の美しさを引き立てていて、とても艶やかでとても色っぽい。
「マチルダ……」
そう呟いた旦那様も、マチルダ様からすっかり目が離せないご様子だ。
お二人が見つめあう姿をこんな間近で見ていたくなくて、思わず視線を逸らした時だった。
「え?」
ちょいちょい、とまるで小さな子どもでも手招きするかのように、私を呼ぶ殿下と目があった。
私はその手に吸い寄せられるかのように、殿下の元へと向かう。
すると、殿下はナイショ話でもするかのように、私の耳元に手を添え口を寄せてくる。
しかしながら、そうして殿下が話されたのは、
「ぐっすり眠れた?」
という、普通に問いかけても何の問題もないだろう一言。
しかしながら、それに答えようとすると、私も同じように話せと言わんばかりに、ご自身の耳を指差してくる。
仕方がないので、私は同じように殿下の耳元に手を添え、囁くようにしてお答えを返した。
「はい、とてもよく眠れました」
という、決して耳元で囁く必要などないだろう、ごくごく普通の返答を。
「それは、よかった」
殿下がまた、私の耳元で囁いた。
いつまで続けるおつもりなのだろう、そう思った時だった。
まるで、私を殿下から遠ざけるかのように、強い力に引っ張られた。
「何をしているんだ」
聞こえてきたのは、一際低く聞こえる旦那様のお声。
いったいどんなお顔をなさっているのか非常に気になったけれど、なぜか私は旦那様に後ろからしっかりと抱きしめられてしまっていて、身動きが取れない。
わかるのは、ただ、こんな時でさえ、背中から伝わる旦那様の体温のせいで、私の心臓はうるさくて仕方がない、ということだけだった。




