episode 5
私が殿下にいただいたたくさんのお菓子を抱えて邸に戻る頃には、マチルダ様のお姿はどこにもなかった。
きっと私と入れ違いで、王宮に戻られたのだろう。
しかし、旦那様のお姿は、すぐに見つけることができた。
私が玄関の扉を開けると、ちょうど自室に向かうべく階段を登る旦那様の後ろ姿があったから。
「旦那様っ」
私が呼びかけると、旦那様はすぐに振り返ってくださった。
しかしながら、マチルダ様と何かあったのだろうか、その表情はとても不機嫌そうだった。
「今、帰ったのか?」
「はい。あの、王太子殿下に呼ばれていて、その……遅くなって、申し訳ありません」
もしかしたら、不機嫌な理由は、私の帰りが遅かったせいなのだろうか。
私がいないことで、何かご迷惑をおかけすることがあったのだろうか。
「あの、何か、ご用がおありでしたでしょうか?」
「いや、何もない」
旦那様の言葉に、私はほっとした。
私に用があったわけではないのなら、私が不在だったことは、きっと何の問題もないだろうから。
「あ、旦那様、よろしければこれを……」
私は、手に持っていたお菓子の箱を旦那様に差し出した。
殿下が、旦那様は甘いものがお好きだと仰っていたし、これで少しでもご機嫌が良くなればと思ってのことだった。
「それは……?」
「王宮でいただいたお菓子です。王太子殿下が、たくさん持たせてくださって」
マチルダ様とお茶をしていた際にも、お菓子は召し上がられていたはずだ。
少なくとも食べられないほど嫌いだとか、苦手だとか、そういったことはないはずである。
それなのに、私の言葉を聞いた旦那様は、なぜか先ほどよりも不機嫌なお顔になってしまった。
「お、お嫌い、でしたでしょうか……?」
自分でもしっかりとわかるほど、私の声は震えていた。
「で、でも、これは、殿下が用意してくださったもので、本当においしかったので……」
悪気があったわけではない、そう伝えたかったのだけれど、何も言わない方がよかったのかもしれない。
旦那様はますます不機嫌なお顔になった上に、私の手にあった箱を払いのけるように地面に叩きつけてしまった。
「あ……っ」
私は慌てて落ちた箱に駆け寄ったけど、箱の中身はぐちゃぐちゃになってしまった。
「大丈夫ですか?」
執事やメイドが私の周囲に駆け寄って、心配そうに声をかけてくれる。
一方で、旦那様は私に背を向け、無言でこの場を立ち去ってしまった。
甘いもの、本当はお好きではなかったのだろうか。
それとも、私からお菓子を受け取るのが嫌だったのだろうか。
どれほど考えてみたところで、何が旦那様のご気分を害してしまったのか私には推し量ることができなかった。
わかっているのは、ただ、私が旦那様を怒らせてしまったのは間違いない、ということだけ。
「ふっ、うぅ……っ」
私は使用人たちがたくさん見ているとわかっているのに、その場で泣き崩れてしまった。
いつもは、私にも優しく紳士的に接してくださる旦那様。
それなのに、あれほど怒らせてしまったという事実に、私は耐えられなかったのだ。
「奥様、大丈夫ですか?」
「どうか、泣かないでください、奥様」
本当なら、こうして慰めてくださっている皆さんにも、おいしいお菓子を食べていただきたかった。
それなのに、すっかりダメになってしまったお菓子を見て、私はますます悲しくなった。
旦那様にも、王太子殿下にも、そして皆さんにも、ただただ申し訳なくて仕方がなかったのだ。
私は、しばらく旦那様を避けて過ごしていた。
もともと、あまり一緒に過ごす時間は多くはなかったけれど、夕食だけはできる限り一緒にとるようにしていた。
だが、ここ数日は食欲がないという理由で、お断りし続けている。
食欲がないのも、嘘ではない。
けれど、一番の理由は、旦那様にあわせる顔がないからだ。
旦那様から、顔を出すように言われることも特にはなかった。
きっと、旦那様も、今は私の顔なんて見たくないのだろう。
「奥様、王太子殿下の使いの方が、また……」
「え?」
私はまた、執事を通して王太子殿下からのお誘いを伝え聞いた。
どうやら先日のお言葉は、ただの社交辞令ではなかったようである。
私はそのことが、ただただ嬉しくて仕方がなかった。
殿下のお誘いは、決して強要するものではなく、もし時間があれば、ということだった。
しかしながら、私は王太子殿下のお誘いならばお断りするわけにはいけない、ともっともらしい理由をつけてお受けした。
本当は、ずっとこの邸に居ることが辛くて、少しでも逃げ出したい、そんな思いからお受けしただけだった。
殿下は、前回同様に笑顔で迎えてくださった。
しかしながら、私の姿を見るや否や、その顔を曇らせてしまった。
「夫人、顔色がよくないね、大丈夫?どこか悪いの?」
しっかりとお化粧をして、わからないようにしたつもりだった。
いつも私のことを心配してくださるお屋敷で働く皆さんだって、今日は笑顔で送り出してくださった。
だから、殿下に気づかれるだなんて、私は予想もしていなかった。
「とりあえず座って。必要なら、医者を呼ぼうか」
殿下はそう言って、私を座らせてくれる。
前回と同じ場所、そして前回と同様に様々なお菓子が並ぶ席に。
「いえ、大丈夫です。なんでもありませんから」
「そうは、見えないけど……」
殿下のお顔は心配そうな様子のまま。
こんな状態で、招待に応じてしまったのは失礼だったのかもしれない。
そう思う一方で、これほど心配して貰っていることを、嬉しいとも感じてしまっていた。
矛盾した自分の感情に、戸惑わずにはいられない。
「本当に、大丈夫なんです。その、ちょっと、最近食欲がなかっただけで……」
「そう?それなら、今日はこれは不要だったかな?もっと、食べやすい、別のものを用意させようか?」
せっかく用意してくださったのに、恐れ多すぎて、私はぶんぶんと首を振った。
慌てて、何か食べられそうなものを探すと、プリンが目に入った。
最近まともに食事ができていない私でも、これなら食べやすいだろう。
「これ、おいしそうです。いただいても、いいですか?」
「もちろん」
殿下がようやく、安心したように笑ってくださった。
そして、前回と同じように私の目の前の席に腰をおろした。
「最近、食欲がなかったのはどうして?体調が悪かったの?それとも……マチルダのせい?」
「えっ?」
まさかここで、マチルダ様の名前が飛び出すとは思わなかった。
突然のことに驚いてしまって、私はすぐに返答できなかった。
殿下はそれを、肯定だと勘違いしてしまったようである。
「一応、これでもマチルダの夫だからね。マチルダがいつも、どこへ行って何をしてるかは、把握してるよ」
言われてみれば、それはそうだろうと思う。
王太子殿下が、妃殿下が馬車でどこへ行ったか知らないはずがない。
ということは、私が旦那様とマチルダ様が仲睦まじい様子を見た回数だけ、殿下は王宮からマチルダ様が旦那様の元へ向かうのを容認、もしくは黙認したということになる。
さすがに、笑顔で見送ったりは、していないだろう。
「殿下は、それでよろしいんですか?」
「ん?まぁ、知ってると思うけど、僕らは政略結婚だしね。王太子妃としての役目さえ果たしてくれれば、あとは、好きにすればいい、と思っているよ」
「そういう、もの、ですか」
「僕らはね。夫人はどうなの?テオはともかく、夫人は実家のために結婚したんだろう?」
旦那様はともかく、とはどういう意味なのか。
気にはなったのだけれど、その後に続いた殿下の言葉のせいで、私はそのことを聞けなかった。
「この間の夜会の様子を見る限り、仲は良さそうに見えたけど」
殿下はやはり、ご存知ないのだ。
普段は私たちが、あんな風にダンスを踊ったりしないことを。
旦那様は、マチルダ様のエスコートしかしていないことを。
私の脳裏に浮かんだのは、最後に見た旦那様のお姿だった。
不機嫌なお顔で、私に背を向けて去ってしまった、旦那様。
きっと、その後も、王宮から訪れたマチルダ様には違うお顔を見せていらっしゃるのだろう。
私には決して向けられることのない、マチルダ様だけが見ることができる柔らかな表情を。
けれど、私はあれ以来、そんなお二人のお姿を遠くから眺めることすらできていない。
「ふ、夫人!?どうしたの?俺、なんか傷つけるようなこと言った!?」
珍しく殿下が、慌てていらっしゃる。
理由は、私の瞳から涙が零れ落ちてしまったから。
泣いてしまってはご迷惑がかかる、と私は慌てて涙を拭い必死に笑おうとした。
しかし、涙は止めようと思えば思うほど、どんどんと溢れてくるようだった。
「もしかして、食欲がなかった原因は、マチルダじゃなくて、テオだった?」
向かいに座っていたはずの殿下は、いつしか私の傍で膝をついていた。
下から見上げるように私の顔を覗き込みながら、ハンカチでそっと私の涙を拭ってくださる。
けれど、その手と表情がとても優しくて、私はますます泣いてしまった。




