episode 12
あの後、私たちはせっかく用意していただいた朝食も途中で放り出し、二人で侯爵邸へと戻ってきた。
部屋を出る時に私の手を引いた旦那様は、そのまま馬車へ向かうまでも、馬車に乗ってからも、そして馬車を降りて屋敷の中へ入っても、ずっと私の手を握ったままだった。
もちろん、私はそれが嬉しくて仕方がないので、振り払うようなことは決してしない。
旦那様が真っ先に向かわれたのは、ご自分の自室だった。
私はこの日、旦那様に手を引かれたまま、はじめて旦那様の自室へと足を踏み入れることになった。
「本当に、効果があるんだな……」
旦那様は飾られていたマチルダ様の写真を手に取り、ぽつりと呟くと、そのまま写真をゴミ箱へと捨ててしまった。
「え?す、捨ててしまって、よろしいんですか?」
「ああ。マチルダが勝手に飾ったものだ、俺には必要ない」
そう仰った旦那様のお顔は、どこかすっきりして見える。
「こんなものの所為で、今まで君を気遣うことができていなかった。本当にすまない」
「そ、そんな……どうか、お顔をあげてください」
深々と頭を下げられ、私は戸惑ってしまう。
それでも、今日は私を心配して、朝、それもびっくりするほど早い時間から、私を迎えに来てくださったのだから。
私は、そう伝えようとして、あれ、と思う。
「あの、マチルダ様のお写真、とてもよく見える場所に飾ってありましたよね?」
「ああ。自室にいれば、まず目に入る場所を、わざわざ選んだのだろう」
さすがはマチルダ様、良い場所を選んでいらっしゃる、と思わず称賛しそうになった。
でも、私が今気にしているのは、そこではない。
「つまり、今朝も、ご覧になられたのでは?」
そう、目に入らなかったはずはないのだ。
そして、目に入ったなら、マチルダ様のことしか考えられなくなるはずだ。
けれども、王宮を訪れた旦那様は、私の名前を呼んでいらした。
マチルダ様のことも考えていらしたかもしれないけれど、私のこともちゃんと考えてくださっていたように思えたのだ。
「ウィルが言っていただろう、激しい嫉妬は一時的だが、魅了魔法を解く、と」
「それは、お聞きしましたが……」
夜会の時や、今朝の王宮とは違い、ここには私は居なかったのである。
激しい嫉妬も何も、ないだろう。
「君が王宮でずっとウィルと一緒にいるのかと思うと、嫉妬のあまり眠ることすらできなかったよ」
「お眠りに、なられてないんですか!?」
あまりに衝撃的な事実に、その嫉妬が嬉しい、だなんて思うことはできなかった。
王宮で一人、ぐっすりと眠ってしまったことが、ただただ申し訳ない。
「すぐに、おやすみになられてください」
「いい。これくらい、たいしたことはない」
旦那様をベッドの方へ連れて行こうと思ったのに、やんわりと止められてしまう。
「それよりも、許されるなら、君が欲しい」
熱っぽい視線を向けられて、どきどきする。
気恥ずかしさもあったけれど、受け入れる、という意味を込めて私は静かに頷いた。
「いいのか?俺は君に、好いてもらえるような人間ではないぞ」
「そんなこと、ありません」
旦那様は本当に素敵な人だ。
だから、私は好きになったのだから。
「そんなこと、あるだろう。さっきも言ったが、金で君を手に入れたんだ。君の実家の金銭的事情を知った上で、誰よりも好条件な金銭的援助を申し出れば、絶対に断られるはずがないという浅ましい考えで」
それが、どれほど嬉しかったか、旦那様は知らないのだ。
実家のためなら、お相手がどんな方であっても、嫁ぐ覚悟をしていたというのに。
最も好条件を示してくださったのが、初恋の人だなんて、こんな幸せなことはないだろう。
「私は、感謝していますよ。もし、旦那様がそうしてくださらなかったら、今頃きっと他の方の元へ嫁いでいたでしょうから」
せっかく旦那様からの求婚があったとしても、一番いい条件でなかったら、旦那様を選ぶことはできなかったのだ。
そう考えると、本当に感謝しかない。
「後悔しない?」
「はい」
私が頷くと、今度は旦那様が私をベッドの方へと連れていく。
とても優しくベッドに横たえられたかと思えば、真上には旦那様のお顔がある。
心臓が煩くて仕方がなかったけれど、嫌だと思う気持ちなんて微塵もないのは間違いなかった。
「旦那様……」
「テオと、呼んでくれないか?」
それは、私がずっと、呼びたくとも口にできなかった呼び方だ。
王太子殿下やマチルダ様を、何度羨ましく思ったかわからない。
「テオ様」
「様は不要だ……」
「て、テオ……っ」
緊張して、少し声が裏返ってしまった。
くすりと笑う、旦那様のお声が耳にくすぐったかった。
「ん……っ」
幸せな温もりに包まれたまま、どうやら、私は眠ってしまっていたようだ。
あれからだいぶ日の高さが変わってしまっている。
すぐ傍には穏やかな旦那様の寝顔があって、それがまた私を幸せな気持ちにさせてくれた。
「コゼット……?」
ずっと飽きもせず旦那様を眺めてしまったからだろうか、旦那様も起きてしまった。
寝起きのぽやぽやした旦那様を見るのははじめてで、失礼ながらかわいらしく思えてしまう。
「お目覚めですか、旦那様」
「テオ、だろう?」
頬に旦那様の手が触れて、どきどきが止まらなくなる。
「す、すみません、まだ、慣れなくて……」
「さっきは、あれほど呼んでくれたのに?」
それが、行為の最中のことを指し示しているのは明白で。
私は顔が赤くなるのを、止められなかった。
「真っ赤で、かわいいな」
追い打ちをかけるような旦那様の言葉に、ますます顔が熱くなっていく。
心臓の音も煩くて、旦那様に聞こえていないか心配だった。
「あ、あの、旦那様……」
「テオ」
「てっ、テオ……っ、その、聞いてもいいでしょうか?」
「なんだ?」
なぜか、旦那様は手を握ってきた。
それが嬉しくて握り返してみたものの、心臓の音はますます煩くなったので、手を通して旦那様に伝わってしまっているかもしれない。
「だ……テオは、いつから私のことを、その、好きになってくださったんでしょうか……?」
気を抜くと旦那様、と呼びかけてしまいそうになりながらも、必死でテオと呼んだ。
きっとそんなことにも、旦那様はお気づきなのだろう。
くすくすと笑う旦那様の声が、耳元でよく響いた。
「コゼットは覚えていないかもしれないが、俺たちは小さい頃に会っているんだ」
旦那様は求婚に来てくださる前から、私のことを好いてくださっているようだから、もしかしたら……とは思っていた。
私たちは他に接点らしい、接点なんてなかった。
きっと、私の初恋であるあの出来事を、旦那様も覚えてくださっているのだ。
「あれは、俺が7歳の時の……」
「ひょっとして、私が7つの時の……」
同時に話し始めてしまって、それからあれ?と顔を見合わせた。
私たちは決して、同い年ではない。
同じ話をしているようには、思えなかった。
「あ、あの、私が7歳の時、テオは7歳ではなかったと、思うのですが」
「ああ。俺が7歳の時、コゼットはもっと小さかったよ。今、コゼットが話そうとしたのは、おそらく俺にとっての2度目だろう」
「え、ええっ!?」
あの出来事の前に、私は旦那様にお会いしたことなんて、あっただろうか。
どなたかと、勘違いされているのでは、ないだろうか……
「誰かと間違えたりはしてないよ。それは自信を持って言える」
そう言うと旦那様は、私とはじめて出会った時のことを、教えてくださった。
「あれは、俺が7歳の時だから、コゼットはまだ3歳くらいの時かな」
私と旦那様の年齢差を考えれば、そんなものだろう。
「その日、俺はとある街に出かけたんだけど、裏路地が迷路みたいでおもしろそうに見えて、一人で勝手にそっちへ行ってしまったんだ」
なんとなく、気持ちはわからなくもなかった。
細く入り組んで、曲がり角も多い裏路地は、ちょっとした迷路のように見える。
弟たちもよく引き寄せられるようにそっちに行っては、迷子になって泣いていたものである。
「で、あちこち歩き回ってるうちに、来た道がわからなくなって、すっかり迷子になってしまってね」
ああ、旦那様でも駄目だったのか。
随分と立派な迷路、なのかもしれない、あの裏路地というものは。
「それでも、なんとか戻ろうと歩き回っていたら、転んでしまって」
「だ、大丈夫でしたか?」
「うん。しばらくは動けなくて、情けなくも泣いてたんだけど……」
それは無理もない。
旦那様といえど、当時7歳だ。
迷子でひとりぼっちな上に、転んで怪我まですれば、泣きたくもなるだろう。
「そしたら、小さな女の子が今のコゼットみたいに、声をかけてくれたんだ。『お兄ちゃん、大丈夫?』って」
脳裏に、ぼんやりとその光景が浮かんだような気がした。
「それからその子は、持っていたお気に入りのハンカチで俺の怪我の手当てをしてくれた。お気に入りのうさぎさんの刺繍が、汚れてしまうのも気にせずに」
なんだか、すごく覚えがあるような気がするのに、はっきりとは思い出せない。
「で、『痛いの痛いのとんでけー』って大きな声で叫んでね。そんなので痛くなくなるはずないのにね。でも、気づいたら涙はすっかり止まってたよ」
そう言った旦那様は、とても楽しそうに笑っていらっしゃる。
『痛いの痛いのとんでけー』、幼い頃、怪我をした私に、母がよく言ってくれた言葉。
そして、私も真似して、誰かが怪我していると、よく言っていた言葉でもある。
その対象は弟や妹であることが、圧倒的に多かったけれど。
「その後、女の子は俺と違って迷子にならず、大通りまで俺を連れてってくれたんだよ」
そう、私は裏路地に詳しかった。
何度も何度も裏路地で遊んだ結果、弟たちが迷子になっても簡単に見つけ出せるくらいには。
そんなに小さい頃から、道に詳しかったかどうかまでは、正直あまり記憶にはないけれど。
「大通りに出た瞬間、居なくなった俺を探してた使用人に出くわしてね。俺は無事に家に帰ることができたんだ」
それは何よりだ。
ハンカチだけではたいした手当てもできていないだろうし、『痛いの痛いのとんでけー』だけで痛みがなくなったはずもない。
ちゃんとした大人に連れて帰ってもらえたなら、安心である。
「『お兄ちゃん、よかったね。またね』って、使用人と帰る俺に一生懸命手を振ってくれてね。その時のその女の子は本当に輝いて見えて、今でも忘れられないんだ。俺の、初恋なんだ」
「それが、私、なんですか……?」
旦那様の初恋が私だなんて、夢のような話すぎて、信じがたい。
今日は、本当に、私にとって都合のいい話ばかりを、聞かされているような気がする。
「うん。間違いなく。今も、変わらず輝いて見えるからね」
旦那様の真っ直ぐな視線が、私の心をざわつかせる。
私にも、そんな旦那様が輝いて見えるような気がした。




