第三話 貴女を削りながら救ってほしいとは思っていません
思わず目を瞬かせた。
休息が必要だ。
そんな言葉を向けられたのは、初めてだった。
ヴァルシアでは、常に次の任務があった。
次の魔物。
次の浄化。
次の祈り。
次の犠牲。
聖女なのだから。
選ばれたのだから。
力があるのだから。
だから、休むという選択肢は、いつも存在しなかった。
聖女は道具。
レイナルドの言葉が胸の奥で甦る。
けれどエリクの瞳には、道具を見る冷たさがなかった。
彼はアリアを、ひとりの人間として見ていた。
「……ありがとうございます、殿下」
「エリクと呼んでください。ここでは、階位よりも気持ちを大切にしたい」
「では、エリク。私のことも、アリアと」
「喜んで、アリア」
その夜、久しぶりに深く眠った。
夢も見ないほど。
戦場の叫びも、魔物の咆哮も、レイナルドの冷たい声も聞こえなかった。
ただ、静かだった。
ヴァルテに来て一週間が経った頃、彼女は北部の視察に出た。
魔の瘴気が残る荒地を歩きながら、そっと土に手を触れた。
黒ずんだ土。
枯れた草。
葉を落としたリンゴの木。
かつてここには村があったのだと、案内役の老神官が教えてくれた。
「この村は、三年前に人が去りました。井戸が濁り、子供たちが熱を出し、畑も実らなくなりましてな」
「住んでいた方々は」
「南の村へ移りました。けれど、いずれ戻りたいと皆が言っております。ここは、彼らの故郷ですから」
故郷。
その言葉を胸の中で繰り返す。
ヴァルシアは、アリアの故国。
けれど今、そこはもう、彼女の帰る場所ではない。
枯れたリンゴの木の根元に膝をつく。
「エリク」
「はい」
「少し、離れていてください」
エリクが息を呑む。
「アリア、まさか今すぐ浄化を?」
「ええ。まず、この村を戻します」
「体への負担は」
「大丈夫です」
そう言いかけて、一度口を閉じた。
大丈夫です。
慣れています。
平気です。
それは、これまで何度も口にしてきた言葉。
けれどエリクは、きっとその答えを望んでいない。
言い直した。
「無理はしません。危ないと思ったら、止めます」
「……分かりました。必ず、そうしてください」
その言葉に、小さく頷いた。
目を閉じる。
呼吸を整える。
両手を地面に当てる。
白金の光が、彼女の指先から大地へ染み込んでいった。
やがて光は根のように広がり、黒ずんだ土の奥へと潜る。
瘴気が呻くように揺らぎ、やがて薄い煙となって空へ消えていく。
枯れていた草が、ゆっくりと緑を取り戻す。
濁っていた井戸の水が澄み始める。
葉を落としていたリンゴの木の枝に、小さな芽が膨らむ。
老神官が杖を取り落とした。
「奇跡だ……」
目を開けた。
体は少し重い。
けれど、力は確かに残っている。
レイナルドは、聖女の力は使い果たされたと言った。
神殿長も、もう奇跡は起こせないと言った。
違う。
聖女の力は、心身の清廉さから来るものではない。
王家の承認によって与えられるものでもない。
神との契約から来る。
そしてその契約は、アリアが生きて祈る限り、決して消えない。
ヴァルシア王家も、神殿も、それを知っていた。
知っていながら、民に信じ込ませたのだ。
聖女の役目は終わった。
彼女の力は失われた。
だから、もう必要ない。
都合よく、手放すために。
「アリア」
エリクがそっと彼女のそばへ膝をついた。
「顔色が悪い。今日はここまでにしましょう」
「でも、まだ」
「今日はここまでです」
その声は穏やかだった。
けれど、譲らない強さがあった。
「この国を救ってほしいとは願っています。けれど、貴女を削りながら救ってほしいとは思っていません」
「……エリク」
「村は逃げません。人々も待てます。だから貴女も、自分を待ってください」
何も言えなかった。
胸の奥に、温かなものがゆっくりと広がっていく。
必要とされること。
大切にされること。
その二つは、似ているようで、まったく違うのだと初めて知った。
それから三ヶ月かけて、ヴァルテ北部の瘴気を祓った。
一度にすべてを浄化することはしなかった。
ヴァルテの神殿に所属する聖職者たちに補助の祈りを教え、土地ごとに少しずつ癒やしていった。
廃村だった集落に、人々が戻り始めた。
枯れ野に草が萌え、農地が甦る。
家畜が増え、市が立ち、子供たちの声が道に戻った。
あの枯れていたリンゴの木には、白い花が咲いた。
村の子供がアリアに言った。
「聖女様、これ、最初に実がなったら食べてね」
まだ実の影もない枝を指さして、真剣な顔で。
笑った。
自分が笑ったことに、自分で驚いた。
ヴァルテの人々は、アリアを心の底から愛した。
それは利用ではなく、崇拝というよりも、家族を大切にするような、穏やかで確かな愛情。
自分が使われているのではなく、共に生きているのだと初めて実感した。
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