第二話 貴女には、まず休息が必要です
婚約破棄の報は、翌日には王都中に広まった。
「聖女が王太子に捨てられた」
「戦場で何か不祥事を起こしたらしい」
「王太子殿下は大人の判断をなさったのだ」
貴族たちは露骨にアリアを避け始めた。
かつて彼女を持ち上げていた廷臣たちは、まるで最初からそうであったかのように、カミラ・フォン・ロゼンベルクを称えた。
神殿は沈黙した。
神殿長に面会を求めると、「ただいま多忙にて」という返答が三日続いた。
三日前までは、神殿の廊下を歩くだけで、聖職者たちは皆、跪いていたというのに。
辺境伯家の父は、苦渋に満ちた顔で言った。
「しばらく実家に戻ってはどうだ、アリア」
優しい人だった。
けれど、優しいだけの人。
王家と神殿がそう決めた以上、辺境伯家にできることはほとんどない。
「お父様。少し、書斎をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ああ。好きに使いなさい」
父の書斎に籠り、この一月で届いていた手紙の束を眺めた。
ほとんどは慰問や挨拶の類ばかり。
聖女としてのアリアを称える言葉。
王太子妃となる未来を祝う言葉。
今となっては、どれも薄い紙切れでしかない。
その中に、ひときわ丁寧な封蝋が押された書簡が混じっていた。
差出人の紋章を見て、アリアは目を細める。
ヴァルテ王国。
ヴァルシア王国の東に隣接する、ひと回り小さな国。
決して貧しくはないが、魔の被害が深刻で、北部の領地はすでに廃村が相次いでいると聞いていた。
その国の第一王子、エリク・フォン・ヴァルテは、この五年間、繰り返しアリアへ書簡を寄越していた。
『聖女アリア・フォン・シルヴァン殿。
どうか、我が国もお救いいただけないだろうか』
毎回、同じ文句から始まる手紙だった。
ヴァルシア王国の宮廷では、その書簡は毎回却下された。
「魔王討伐を優先すべき時期ゆえ」
「聖女を隣国へ向かわせる余裕はない」
「ヴァルシアの安全が第一である」
アリアもまた、隣国の惨状を気にしながら、目の前の戦いに集中するほかなかった。
今、封を切った最新の書簡には、こう書かれていた。
『我が国の民は、今も苦しんでいます。
聖女様が魔王を討たれたとの報を聞き、我らの喜びは海のごとく広大でした。
しかしながら、ヴァルシアとの距離ゆえか、我が国への恩恵はまだ届いておりません。
もし聖女様にご都合があれば、ひとたびヴァルテへいらしていただけないでしょうか。
王城にて、精一杯のおもてなしをお約束します。
——エリク・フォン・ヴァルテ』
長い間、その手紙を眺めた。
五年間。
同じ人が、同じ民のために、何度も何度も助けを求めていた。
そしてアリアは、魔王を倒した。
ヴァルシアには、もう自分は必要ないと言われた。
ならば。
「私を必要としている場所へ行きましょう」
静かに立ち上がり、トランクを取り出した。
王都を発ったのは、婚約破棄から十日後の早朝。
馬車が石畳の上を進む。
窓の外には、まだ薄い朝霧が流れていた。
長い間生きた王都が、不思議なほど遠く感じられる。
荷物をほとんど持たずに。
聖女として与えられた宝飾品も、王太子妃になる予定だった女として仕立てられたドレスも置いてきた。
必要なのは、自分の体と、自分の祈りだけ。
馬車がヴァルシア東端の国境を越えた時、一度だけ振り返る。
遠く霞む王都は、何も言わない。
アリアもまた、何も言わず。
そして二度と、後ろを見なかった。
ヴァルテ王国は、国境を越えてすぐに、その深刻さをアリアへ見せつけた。
街道沿いの村々は疲弊していた。
畑の一部は枯れ野になり、井戸端に立つ人々の顔には生気がない。
北の空には、まだうっすらと魔の瘴気が漂っている。
住民たちは、馬車に気づくとおそるおそる視線を向けた。
やがて誰かが叫んだ。
「聖女様だ」
その声は、風のように広がった。
「聖女様がいらした!」
「本当に来てくださったんだ!」
「ヴァルシアの聖女様が!」
国境を越えて三日目。
馬車がヴァルテ王城へ近づく頃には、沿道に人々が集まっていた。
泥のついた手で花を差し出す農民。
涙を浮かべて頭を垂れる老人。
母親のスカートに隠れながら、見上げる子供。
アリアは窓を開け、柔らかく微笑んだ。
「来るのが遅くなって、ごめんなさい」
誰にともなく、そう呟いた。
その温もりは、ヴァルシア王都にはもうなかったもの。
王城の謁見の間でアリアを出迎えたのは、一人の青年だった。
エリク・フォン・ヴァルテ。
二十三歳。
落ち着いた青い瞳と、肩に届く黒髪を持つ王子。
レイナルドのような華やかさはない。
けれど彼が立ち上がり、深く頭を下げた時、その動作には一点の迷いもなかった。
「ようこそいらしてくださいました、アリア様。この国のすべてをかけて、お礼を申し上げます」
「頭をお上げください、殿下。私の方こそ、ずっとお応えできず申し訳ありませんでした」
「いいえ」
その瞳には、安堵と敬意だけ。
値踏みするような視線ではなく、期待を押しつける目でもなかった。
「貴女が来てくださった。それだけで、充分すぎるほどです」
その日の晩餐は、王城の小さな広間で行われた。
豪奢ではないけれど、心のこもった料理。
焼きたてのパン。
温かなスープ。
香草で焼いた肉。
季節の果物。
エリクは給仕の者に細かく指示を出しながら、アリアへ尋ねた。
「苦手なものはありませんか」
「ええ。大丈夫です」
「ヴァルシアでは、好きなものを食べていましたか」
「あまり……考えたことがありませんでした。常に次の戦いのことを考えていたので」
「そうでしたか」
エリクはほんの少し眉を下げた。
「では、ここではゆっくりしてください。貴女が戦うべき理由があるなら、私たちは共に戦います。けれど、今すぐでなくていい。貴女には、まず休息が必要です」
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