第4話 湯水のごとく
北の坑道ダンジョン、入り口前の野営地で、依頼主の一行は待っていた。
「あんたが雑用の魔法使い? ずいぶん歳ね」
開口一番そう言ったのが、リーダーのエルフだった。フィエナと名乗った。銀の髪を高く結い、弓と細剣を背負っている。歳ね、と言うが、エルフの実年齢は外見からわからない。あちらが俺の祖父より年上という可能性も、種族的には十分ある。
「ガレル・オズワース。雑用は初めてだが、魔法は長い」
「期待してないわ。灯りと荷物と結界だけやって。戦闘には出ないで。邪魔だから」
「フィエナ、言い方!」
大剣を背負った女戦士が割って入った。ボルガと名乗った。よく日に焼けて、よく笑う。「ごめんねおじさん、うちのリーダー、口はこうだけど腕は本物だから」
「腕は、確かです」と僧侶服の娘が静かに言った。ミリエルと名乗った。「補足は以上です」
「口も補足しなさいよ!?」
そして最後の一人が、俺の前に立った。年の頃は十六、七。革鎧に片手剣の少年である。値踏みするような目で、俺を頭から爪先まで見た。
「……テオです」
それだけ言って、少年はフィエナの隣に戻った。ボルガが苦笑して、俺の背嚢に手を伸ばす。
「荷物、半分持つよ」
「ボルガさん、俺が持ちます」テオが割って入り、俺の背嚢を引ったくるように担いだ。「荷物持ちの荷物を持つって、変な話だけど」
一言多い若者である。悪くない。若い頃の俺の周りには、こういう突っかかる同期が何人かいて、たいてい先に出世していった。
一行の並びで坑道へ入る。先頭にフィエナ、ボルガ、中衛にテオとミリエル、最後尾に俺。
「灯り」フィエナが言った。
俺は詠唱を始めた。光球生成、第三階梯。詠唱二十秒、指の印形は十七。
「……遅い」フィエナが振り向いた。「精霊魔法なら一言よ」
「なら精霊を雇えばよかったな」
「精霊は坑道の深部じゃ寝ぼけるの。そんなことも知らないの?」
知っている。というより、今朝からその理屈をずっと考えている。だが客と口論する趣味はないので、俺は黙って詠唱を終えた。光球が四つ、隊列の頭上に等間隔で並んだ。
「……四つ?」テオが見上げた。「灯りって、普通、一個じゃ」
「一個だと、前衛の影が後衛の足元に落ちる。四点吊りなら影が消える。坑道の怪我の三割は、影を踏んでの転倒だ」
「ふうん」テオはつまらなそうに言って、前を向いた。「理屈っぽいんですね」
「行くわよ」フィエナが先頭で言った。声が少しだけ、硬かった。
言い忘れていたが、宮廷において、魔法を唱えるというのは一大事である。
魔法は神秘であり、王権の威光であり、同時に危険物であった。よって宮廷魔法使いが実際に術を行使する際は、事前に審問院へ申告簿を出す。いつ、どこで、何の術式を、何の目的で、想定される影響範囲はどこまでか。審問官の面談を受け、羊皮紙の許可状に署名を三つもらって、ようやく一発、唱えられる。
これでも俺の若い頃より簡素化されたのだ。俺が入った頃は署名が五つだった。俺は署名を三つに減らす改革案を通した男として、宮廷では知られている。二つぶんの署名を減らすのに、七年かかった。
しかも、その貴重な行使機会は「若手の研鑽の場」として下に譲るのが美風とされた。俺ほどの席次になると、術を唱えるのは年に数えるほど。あとは水晶越しの監修と、申告簿の添削である。俺は魔法使いとして宮廷の頂きに近づきながら、魔法を唱えない男になっていった。それを、地位と呼んでいた。
だから——坑道に入って半日の間に起きたことを、俺はうまく言えない。
「ガレル! 水よ! 左の壁!」
湧水が坑道に噴き出す。防水結界、詠唱八秒。
「灯り消えた! 早く!」
再点灯、詠唱四秒(短縮式)。
「この扉、鑑定できる?」
鑑定術、詠唱十五秒。「罠はない。ただの立て付けだ」
「野営する! 結界お願い、おじさん!」
守りの結界、第五階梯、詠唱九十秒、丁寧に。
唱えた。唱えて、唱えて、唱えた。半日で、俺はこの五年分の魔法を唱えた。申告簿は一枚もない。審問官はいない。署名は要らない。「水が出た」と言われて水を止め、「暗い」と言われて灯りを点ける。目的の申告は要らない。目的は目の前にある。
夕刻、野営の焚き火の前で、俺は自分の両手を眺めていた。
指先が、微かに痺れている。魔力の通し過ぎだ。この痺れには、覚えがあった。ずっと昔——駆け出しの頃、寮の自室で夜通し詠唱の練習をして、寮母に怒られていた頃の痺れだ。あの頃の俺は、水球ひとつ浮かべては笑っていた。浮くのが、嬉しかった。世界がお願いを聞いてくれることが、ただただ嬉しかった。
いつから魔法は、署名三つの向こう側へ行ってしまったのだったか。
「なあ、あんた」
テオが隣に座った。飯盒は一つしか持っていない。自分のぶんだけだ。
「手、震えてません? 明日へばられたら困るんですけど。あんたの結界で寝るんだから」
「へばってはおらん。……使い過ぎだ。楽しくてな、加減を忘れた」
「楽しい?」テオは露骨に眉を寄せた。「灯りとか水止めとか、雑用ですよ。俺だったら剣で敵を斬るほうが百倍楽しいけど」
「その剣、毎日振れるか」
「振りますよ。毎日」
「いいな」と俺は言った。「俺は俺の剣を、年に二、三度しか振らせてもらえん国から来た」
テオは、けっ、という顔をして自分の麦飯をかき込んだ。それでいい。わからないままでいい。若いうちは、毎日振れることの値打ちなど、わからないのが健全である。
焚き火の向こうでは、フィエナが地図を睨んでいた。
「明日は第三層まで下りる。予定より半日巻くわ」
「巻くの?」ボルガが顔を上げた。「第三層、他の隊は六人編成で行くとこだよ。うちは実質、前衛二枚だけど」
「あたしが二枚ぶん働く。いつもそうでしょ」
「フィエナの弓が二枚ぶんなのはそうだけどさあ……」
「決定よ。文句は成果で黙らせるのが流儀なの」
ミリエルが小さく息を吐き、テオは「三層!」と目を輝かせた。俺は口を挟まなかった。雑用係の申告範囲ではない。
ただ、職業柄、査定だけは頭の中で走る。フィエナの実力は本物だ。今日半日見ただけでわかる。弓の精度、索敵の速さ、判断の速度。一級品である。だが彼女の作戦は、常に「フィエナが一級品として完璧に働くこと」を前提に組まれている。自分という術式に、余白がない。ああいう式は、平時は美しく走る。想定外がひとつ混じった時に、どう濁るか。
……精霊も人も、自分の式の濁りだけは、自分で見えないのだ。
俺は焚き火に薪を一本足して、結界の維持詠唱を静かに唱え直した。第五階梯、丁寧に、二重に。客の作戦に口は出せないが、結界を厚くするのは、雑用係の裁量である。
署名は、要らなかった。
(第4話・了)




