第5話 濁った式の直し方
第三層は、水の層だった。
坑道の壁を地下水が伝い、足元のそこかしこに黒い水たまりが口を開けている。天井は低く、音がよく響く。ボルガの言った通り、六人編成で来るべき場所だというのは、素人目にもわかった。
それでも午前のうちは、フィエナの式は美しく走った。
索敵、先制、各個撃破。彼女の矢は暗がりの奥の水蜥蜴を、鳴く前に射抜いた。ボルガが漏れを潰し、テオが追撃し、ミリエルが傷を塞ぐ。俺は灯りを四点で吊り、荷を防水し、湧水を止めて回った。完璧な半日だった。完璧、というのが俺は昔から少し怖い。
「ね。巻けるでしょ」
昼の小休止で、フィエナは涼しい顔をした。誰も反論しなかった。成果は出ている。文句は成果で黙らせる、彼女の流儀の通りに。
式が濁ったのは、午後だった。
濁りの一滴目は、些細なことである。テオが浅い水たまりで足を滑らせ、灯りの精油瓶をひとつ割った。予備はある。誰も気に留めなかった。
二滴目。近道のはずの連絡坑が、崩落で塞がっていた。フィエナは地図を十秒睨み、迂回路を選んだ。「東回廊から抜ける。半刻の遅れで済むわ」。判断は速かった。速すぎた、と言うべきか。彼女は遅れを取り戻す計算はしたが、遅れを受け入れる計算はしなかった。
三滴目で、式は音を立てて濁った。
東回廊は、水没しかけていた。
膝下の冷たい水が、回廊いっぱいに広がっている。そして水面のあちこちに、細かな波紋が立っていた。水蜥蜴だ。それも、群れ。壁の巣穴に、点々と光る目があった。二十や三十ではきかない。
「……戻る?」ボルガが低く言った。
「戻れば半日の損よ」フィエナは弓に手をかけた。「巣は右壁に集中してる。あたしが右を制圧しながら抜ける。ボルガは左、テオは中央、ミリエルは支援。一気に走り抜けるわよ」
「フィエナ、それ、あんたが二枚ぶん働く前提の式でしょ」
「いつもそうしてる」
「いつもは水の中じゃない」
ボルガの言う通りだった。水は足を取る。弓手の腰を揺らす。エルフの精度は、乾いた床の上の精度だ。だがフィエナは首を振った。
「あたしの腕なら補正できる。行くわよ」
自分という術式に、余白がない。式は、術者の想定通りに世界が動くと信じ込んだぶんだけ、濁る。俺は口を開きかけて——やめた。代わりに、雑用係の申告範囲で、できることを全部やることにした。
「待ってくれ。三十秒だけ」
俺は詠唱を始めた。まず靴底に乾床術。四人ぶん。水の上に、見えない乾いた床が一足ぶんずつ張り付く。次に音消しの帳を薄く一枚。それから——昨夜のうちに仕込んでおいた二重結界の外側を、俺は静かに剥がして、持ち歩ける形に編み直した。移動結界。第五階梯の応用で、宮廷の祭祀で王族の歩く道に張る、あれである。国王の行列が使う術式を水蜥蜴の回廊で使うと知ったら、審問院は卒倒するだろう。
「行っていいぞ。足は濡れん。音も出ん」
フィエナが振り向いた。初めて、俺をまともに見た気がした。
「……あんた、そんなの頼んでないわよ」
「雑用だ」と俺は言った。「灯りと、荷物と、結界。契約の範囲内である」
一行は東回廊を駆けた。
乾いた足音のない疾走に、水蜥蜴の群れは反応が半拍遅れた。フィエナの矢が右壁の巣穴を順に塞ぎ、ボルガの大剣が左の水面を割り、テオが中央で二匹落とした。完璧に近かった。
完璧に、近かっただけだった。
出口まで残り二十歩の地点で、天井が落ちた。
正確には、天井裏に溜まっていた地下水が、崩落痕の亀裂を破って落ちた。何百桶ぶんの水塊が、殿のフィエナの頭上に。索敵にも矢にも映らない敵だった。水は生き物ではないから、彼女の式のどこにも書かれていない。
俺は詠唱しなかった。間に合わないからだ。第五階梯の防護は詠唱九十秒。水塊の落下は一秒。
代わりに、俺は移動結界の「錨」を引いた。
結界とは張るものだと皆思っているが、正しくは「置いて、繋いでおくもの」である。俺は回廊に入る前から、結界の錨を自分の左手に握り込んでいた。錨ごと、結界の重心をフィエナの頭上へ投げる。詠唱は要らない。すでに唱えてある術を、ずらしただけだ。
水塊が、見えない天蓋の上で砕けた。
滝の中に、濡れない銀髪が立っていた。フィエナは自分の頭上で割れていく水を、呆然と見上げていた。
全員が回廊を抜け、乾いた広間に転がり込んだ。しばらく、誰も喋らなかった。最初に口を開いたのはテオで、「すっげえ」と言った。言ってから、しまった、という顔をして口を閉じた。
フィエナは、濡れていない自分の肩を見て、それから俺を見た。
「……なんで」
「なんで、とは」
「なんで、張っておけたのよ。水が落ちるなんて、誰にも読めない」
「読めん」俺は頷いた。「俺にも読めん。だから張る」
「意味がわからないわ」
「あんたの索敵は一級品だ。矢も、判断も。半日見ればわかる」俺は水筒の水を飲んだ。「だがな。一級品の式ほど、自分の読めんものを式に入れ忘れる。読める危険に備えるのは、才能の仕事だ。読めん危険に備えるのは、年寄りの仕事でな。……宮廷では、それを結界術と呼ぶ」
フィエナは何か言い返そうと口を開け、閉じ、もう一度開けた。
「…………助かったわ。礼を言う」
「雑用係に礼はいらん。日当ぶんだ」
テオが、フィエナと俺を、順番に見た。何か言いたげな顔だったが、何も言わなかった。
「日当」フィエナは眉を寄せた。「あんたの日当、いくらなの」
俺が金額を言うと、四人が同時に変な顔をした。ミリエルが初めて、自分から俺に話しかけた。
「ガレルさん。それは、査定がおかしいと思います」
「奇遇だな」と俺は言った。「俺もこのところ、査定というものについて、毎日考えている」
その夜の野営で、フィエナは地図を睨みながら、ぼそりと言った。
「……明日は、予定通りの行程に戻す。巻かない」
ボルガが目を丸くして、それから何も言わずに、にやりと笑った。式の濁りは、自分では見えない。だが、濁りを認めて式を組み直せる術者は、必ず伸びる。宮廷で若手を二十年見てきた俺の、これは確かな査定である。
焚き火の薪が爆ぜた。テオが、飯盒を二つ持って俺の前に立った。一つを、無言で突き出してくる。
「……なんだ」
「別に」テオは俺の隣にどかりと座った。しばらく火を睨んでから、ぼそりと言った。「結界の錨ってやつ。あれ、俺にもできるんですか」
「剣士に結界は要らん」
「できるかできないかを聞いてるんです」
「が、まあ」俺は飯盒を受け取った。「原理だけなら、飯を食いながらでも教えられる」
湯水のように唱え、飯を食いながら教える。申告簿は、今日も一枚も書いていない。
宮廷魔法使いガレル・オズワースを追放した男は、つくづく、いい仕事をしたものである。
(第5話・了)




