第2話 十九年で、何回
王都を出て三日、俺は最初の城下町アルデバに着いた。
正直に言えば、心に余裕があった。追放されたとはいえ(した側も俺だが)、こちらは宮廷魔法使いを十九年務めた身である。市井に下りれば引く手あまた、選り好みさえしなければ食うに困る道理がない。放浪とは言ったが、当面は腕一本で稼ぎながらの、優雅な旅になるはずだった。
その見立てが崩れ始めたのは、町の井戸端を通りかかったときである。
女房連中が、洗い物をしていた。桶の上に水球が浮いていた。
詠唱なし。魔法陣なし。女房のひとりが片手をかざすと、水球はくるりと回って、洗い物の灰汁だけを吐き出した。
「……精霊魔法」
俺は思わず足を止めた。宮廷の大広間であれを見てから、まだひと月と経っていない。長官は水芸と笑った。貴族たちは余興と呼んだ。その水芸が、王都から徒歩三日の町で、もう洗濯をしている。
「あら、旅の魔法使い様かい」女房のひとりが俺の杖を見て言った。「悪いけど、水汲みの仕事ならないよ。半年前まではあったんだけどねえ」
「……差し支えなければ、誰に習った? その魔法」
「習うも何も」女房は不思議そうな顔をした。「孫が学び屋で覚えてきてね。あたしらは見様見真似さ。コツさえ掴めば、誰でもできるよ」
誰でもできる。
俺は礼を言って、井戸端を離れた。歩きながら、頭の中で査定表を一枚めくった。宮廷の連中が精霊魔法の意味に気づくまで三年、と俺は見積もっていた。訂正する。城下はもう気づいているどころか、暮らしに組み込み終えている。時差があったのは宮廷と俺の間ではなく、宮廷と世界の間だった。
まあいい。水汲みで食うつもりは、もとよりない。
俺には十九年の実績がある。
冒険者ギルド・アルデバ支所は、町の大通りに面した、酒場を兼ねた建物だった。
昼間から賑わっている。壁一面の依頼書。武装した男女。奥の窓口に、腕の太い中年の職員が座っていた。
俺は窓口に立ち、身分証を出した。
「仕事を斡旋願いたい。ガレル・オズワース。先日まで、王宮で宮廷魔法使いを務めていた」
効果は覿面だった。職員の眉が上がり、近くの席の冒険者が二、三人、こちらを見た。宮廷魔法使い。市井でその肩書きは、まだ光っている。
「そりゃまた、大物だ」職員は身分証を検めながら言った。「で、宮廷の魔法使い様が、なんでまたうちに」
「一身上の都合だ」まさか自分で自分を追放したとも言えず、俺は言葉を濁した。「魔法の腕には覚えがある。古典体系全般、それから儀式魔法、結界術、鑑定——」
「おう、上等だ」職員は依頼書の束を繰り始めた。「ちょうど魔法使いが足りてなくてな。北の坑道ダンジョンで護衛付き調査、報酬は前金で——」
「ああ、待ってくれ」俺は片手を上げた。「現地に赴く仕事は、少々都合が悪い。遠見の水晶で受けられる依頼を頼む」
職員の手が、止まった。
「……何で受けるって?」
「遠見の水晶だ」俺は繰り返した。「水晶越しに現地と繋ぎ、指示と術式支援を行う。結界の遠隔構築、儀式の監修、鑑定の立ち会い。宮廷での実務は、九割方この形でこなしてきた。効率がいい」
職員は俺の顔をしばらく見た。それから、隣の職員に声をかけた。
「おい。遠見の水晶って、あれか。王宮の宝物庫にあるってやつか」
「対の水晶だろ。大商会が一組持ってるって聞いたな。東方から取り寄せて、家が建つ値段だったとか」
家が建つ。
俺は、自分の顔から表情が抜けていくのがわかった。
「客人よ」職員は俺に向き直った。意地の悪い顔ではなかった。それがかえって応えた。「あんたの言ってる水晶ってのは、うちの支所の建物より高いんだ。しかも話を聞く限り、あんたの側とこっちの側と、二つ要るんだろう」
「……対で一組だ。片方では、機能しない」
「だろうな」職員は頷いた。「で、あんたのその水晶は、いまどこにある」
「返納した。支給品だったのでな」
言いながら、俺は官舎の返納台帳を思い出していた。遠見の水晶・一式、状態良好、返納済み。俺はあの日、何のためらいもなく判を捺した。道具など、必要になればまた調達すればよいと思っていた。十九年、値札を一度も見ずに使っていた。
「そうかい」職員は依頼書の束を、静かに窓口の内側へ戻した。「なら話は簡単だ。うちが紹介できるのは、現場に潜れる奴だけだ。ダンジョンの中じゃ、どのみち水晶なんぞ使えん。落盤ひとつで家一軒が砕けるんじゃ、どこの隊も持ち込まん」
「理屈は、わかる。だが俺の術式支援があれば、現場の危険自体を減らせる。後方からの——」
「客人」
職員は俺を遮った。そして、本当に何気なく、在庫でも確認するような調子で言った。
「あんた、十九年で何回、現場に出た?」
酒場の喧騒が、遠くなった。
俺は口を開いた。数字はすぐそこまで出かかっていた。出かかって、俺はその数字を口に出すことが、どういう査定を意味するかに気づいた。
俺が黙っている間に、職員は次の客を呼んだ。順番待ちの若い剣士が、俺に軽く会釈して窓口に進んだ。悪意はどこにもなかった。ギルドは俺を追い返しもしなかった。ただ、紹介できる依頼が一枚もなかった。それだけのことだった。
その晩、俺は安宿の寝台で、天井の染みを眺めていた。
二回だ。
十九年で、二回。国王陛下臨席の祭祀が一回、先代の国葬が一回。どちらも王都の大聖堂で、俺は式次第どおりに結界を張り、式次第どおりに解いた。あれを現場と呼ぶなら、俺は現場を二回知っている。呼ばないなら、零回だ。
笑えるのは、宮廷ではそれが誇りだったことである。現場に出ずとも水晶一つで王国全土の儀式を監修する男。若手にもそう教えた。移動に費やす時間は無駄だ、術者の価値は術式で示せ、と。あの教えは宮廷の中では正しかった。宮廷が回線の両端に水晶を置いてくれている限りは。
俺は寝台の上で、手のひらを見た。
詠唱短縮の指癖が、染みついた手だ。この手の腕前は本物である。それは疑っていない。だが今日わかったのは、俺が「腕」だと思っていたものの中に、宮廷の設備と、宮廷の回線と、宮廷の看板が、分かちがたく練り込まれていたということだった。純粋な俺の腕がどこからどこまでなのか、切り分けた明細を、俺は一度も見たことがない。
十九年、値札を見ずに使っていたのは、水晶だけではなかったらしい。
「……追放の理由が、また一つ増えたな」
俺を追放した男は、まったく大した査定眼である。当の本人より、俺のことをよくわかっていたわけだ。
明日、もう一度ギルドに行こう、と俺は思った。
現場に潜れる奴だけだと、あの職員は言った。ならば話は早い。
潜れるようになればいい。四十手前の型落ち魔法使いの、はじめての現場である。膝が笑う前に、慣れておくとしよう。
(第2話・了)




