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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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第9話 王妃の取引

春人が王妃の部屋へ入ってから砂時計が二度ひっくり返るまで、私は控えの間で待ち続けた。呼ばれてはいないが、だからといって帰る理由にもならない。

「姫、お部屋へお戻りください」

三度目の説得をするアルヴィンへ、私は笑みを向けた。


「王妃が春人と何を話すのか、気にならないの?」

「気になります」

「正直ね」

「しかし、命令は命令です」

「私は待つなとは命じられていないわ」

アルヴィンは黙った。王宮で生きるこつを、彼から教わったばかりだ。必要な事実だけを選べばいい。

扉の向こうの声は聞こえない。ただ一度、椅子を引く音が強く響いた。春人が立ち上がったのか、王妃がそうしたのかは分からなかった。


しばらくして扉が開く。春人は入った時より背筋を伸ばしていた。怖い時ほど平気な顔を作る癖は、もう見分けられる。

「何を言われたの?」

「リリア」

「王妃陛下が、続けてお会いになるそうです」

侍従が私の問いを遮った。春人は何か言いかけ、結局口を閉じる。すれ違う時、彼の右手がわずかに上がった。


私の袖へ触れる前に止まり、そのまま下ろされる。私は王妃の部屋へ入った。



オルフェリア王妃は、春の庭を背に立っていた。窓の外では千年桜が咲き誇り、庭師たちが雪で傷んだ枝を整えている。室内の卓上には、古い魔法陣の写しと異界召喚の研究書が積まれていた。

「春人を元の世界へ帰すつもりなの?」

挨拶より先に尋ねると、叔母は眉一つ動かさなかった。


「可能性を調べると約束しました」

「条件は?」

「お前へ近づかないことです」

胸の奥へ、細い針が刺さる。

「私との関係を、勝手に取引材料へ使わないで」

「関係?」


王妃の声は静かだった。

「出会って数日の異邦人と、どのような関係があるのです」

答えに詰まった。友人、と呼ぶには近づきすぎている。特別、と認めるには怖すぎる。


「少なくとも、叔母様が売ってよいものではないわ」

「ならば、本人に断らせればよい」

王妃は異界召喚の写しを一枚、こちらへ滑らせた。百九十年前、湖の魔術師が異界から小動物を呼び出し、同じ星の並びの日に帰したという記録だった。術式の大半は失われているが、千年桜が春人を招いたのなら、逆の道も開けるかもしれない。

「確実ではないのね」

「確実でなくとも、彼にとっては唯一の手がかりです」

「それを餌にした」

「選択肢を与えました」


私が春人へ鍵を渡した時と同じ言葉だった。違う、と言い切れないことが腹立たしい。

「なぜ、そこまで春人を遠ざけたいの?」

叔母は窓の外へ目を向けた。


「あの者がお前に希望を与えるからです」

「希望が、そんなに悪いもの?」

「叶わない希望は、人を最も残酷に壊します」

王妃の指が、窓枠を強く押さえている。母を救おうとして儀式を遅らせ、その間に多くの民を失った過去。まだ私は詳しく知らない。

けれど叔母が希望という言葉を嫌う理由は、母の診療録に残る染みより深いのかもしれなかった。


「お前は春の終わりを受け入れなければならない」

「受け入れなければ、どうなるの?」

「苦しみが増えるだけです」

「それは私の苦しみでしょう」

王妃が私を見る。私は一歩も退かなかった。

「春人がいなくても、私は逆咲きを探す。母の死を知る前の、何も疑わない私には戻れないわ」

「禁書庫へ入ったのですね」

「アルヴィンを責めないで。私が選んだの」

「あの騎士は、必要な事実を選ぶのが下手です」


叔母の口元が、ほんのわずかに歪んだ。気づいていたらしい。

「春人を遠ざけても、私の意思は消えない」

「では、彼の意思は?」

その一言で、何も言えなくなる。春人には帰りたい理由がある。家族。


友人。写真家になるはずだった未来。私のためにそれを捨てろと願うのは、王妃の取引よりずっと身勝手だ。

「帰れるなら、帰るべきだと思うわ」

声にすると、胸の針が深くなった。


「それを本人へ言いなさい」

叔母は勝った顔をしなかった。それが少しだけ救いで、同時に腹立たしかった。



東客棟へ行くと、春人は黒い上着を畳んでいた。千年桜の根元で着ていた、元の世界の服だ。市場で裂けた肩はミナが繕い、縫い目だけが新しい。

「荷造り?」

「まだ帰り道もないのに?」

「王妃から聞いたわ」

春人の手が止まる。私は窓辺の椅子へ座った。立っていれば、逃げたくなる気がした。


「元の世界へ帰す方法を探す代わりに、私へ近づくなと言われたのでしょう」

「うん」

「家族は?」

「母親と、姉が一人。心配してると思う」

「友人もいる?」

「少ないけどね。仕事だって、急に消えたままだ」

笑いながら言う声に、未練が滲む。

「仲のいい家族なの?」


春人は黒い上着の縫い目を指でなぞった。

「姉とは、まあまあ。母親とは最後に喧嘩した。写真家になりたいなら、いつまで手伝いでいるんだって言われて」

「正しいことを言われると腹が立つものね」

「そう。だから電話に出なくなった」

「でんわ?」

「遠くの人と話せる道具。母親から何度も連絡が来てたのに、忙しいふりして無視した」

彼は困ったように笑った。


「帰ったところで、歓迎されるだけじゃない。謝らなきゃいけないし、逃げてた仕事も決めなきゃいけない」

「それでも帰りたい?」

「帰りたい。たぶん、今度は逃げないために」

故郷は彼を無条件に包む場所ではない。それでも戻って、途中で投げたものを拾いたいのだ。その望みを否定する言葉を、私は持てなかった。

少なくとも今の私にはできない選び方だった。当然だ。この世界には、春人の積み重ねたものが何もない。


名前を知る人さえ、まだ数えるほどだ。

「帰れるなら帰りなさい。あなたには、そうする権利があるわ」

きれいに言えたと思う。春人は私を見た。


「それ、姫としての答え?」

「何?」

「前に言ってただろ。姫としてか、自分としてかって」

自分の言葉で追い詰められるとは思わなかった。

「どちらでも同じよ」

「同じ顔には見えないけど」

「顔色の話はもう飽きたわ」


春人はそれ以上追及しなかった。畳んだ上着へ手を置く。

「俺、帰る方法を探す」

胸の中で、何かが小さく折れた。


「そう」

「でも、王妃との取引を受けるかは決めてない」

「同じことでしょう。帰り道が見つかれば、あなたはいなくなる」

「見つかってから決める」

「随分と都合がいいのね」

「うん。今は、どっちも簡単に捨てたくない」

正直な言葉が、優しい嘘より痛かった。私は椅子から立つ。

「好きになさい」


扉へ向かう背中に、春人の声が届く。

「リリア」

振り返らなかった。帰らないで、と言えばよかったのかもしれない。けれどその一言で彼の世界を奪うほど、私は強くも、残酷にもなれなかった。


あとがき


帰る権利を認めたいリリアと、どちらも捨てきれない春人の選択がすれ違いました。春人が帰る方法を探す決断を、皆さまは責められますか?

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