第9話 王妃の取引
春人が王妃の部屋へ入ってから砂時計が二度ひっくり返るまで、私は控えの間で待ち続けた。呼ばれてはいないが、だからといって帰る理由にもならない。
「姫、お部屋へお戻りください」
三度目の説得をするアルヴィンへ、私は笑みを向けた。
「王妃が春人と何を話すのか、気にならないの?」
「気になります」
「正直ね」
「しかし、命令は命令です」
「私は待つなとは命じられていないわ」
アルヴィンは黙った。王宮で生きるこつを、彼から教わったばかりだ。必要な事実だけを選べばいい。
扉の向こうの声は聞こえない。ただ一度、椅子を引く音が強く響いた。春人が立ち上がったのか、王妃がそうしたのかは分からなかった。
しばらくして扉が開く。春人は入った時より背筋を伸ばしていた。怖い時ほど平気な顔を作る癖は、もう見分けられる。
「何を言われたの?」
「リリア」
「王妃陛下が、続けてお会いになるそうです」
侍従が私の問いを遮った。春人は何か言いかけ、結局口を閉じる。すれ違う時、彼の右手がわずかに上がった。
私の袖へ触れる前に止まり、そのまま下ろされる。私は王妃の部屋へ入った。
◇
オルフェリア王妃は、春の庭を背に立っていた。窓の外では千年桜が咲き誇り、庭師たちが雪で傷んだ枝を整えている。室内の卓上には、古い魔法陣の写しと異界召喚の研究書が積まれていた。
「春人を元の世界へ帰すつもりなの?」
挨拶より先に尋ねると、叔母は眉一つ動かさなかった。
「可能性を調べると約束しました」
「条件は?」
「お前へ近づかないことです」
胸の奥へ、細い針が刺さる。
「私との関係を、勝手に取引材料へ使わないで」
「関係?」
王妃の声は静かだった。
「出会って数日の異邦人と、どのような関係があるのです」
答えに詰まった。友人、と呼ぶには近づきすぎている。特別、と認めるには怖すぎる。
「少なくとも、叔母様が売ってよいものではないわ」
「ならば、本人に断らせればよい」
王妃は異界召喚の写しを一枚、こちらへ滑らせた。百九十年前、湖の魔術師が異界から小動物を呼び出し、同じ星の並びの日に帰したという記録だった。術式の大半は失われているが、千年桜が春人を招いたのなら、逆の道も開けるかもしれない。
「確実ではないのね」
「確実でなくとも、彼にとっては唯一の手がかりです」
「それを餌にした」
「選択肢を与えました」
私が春人へ鍵を渡した時と同じ言葉だった。違う、と言い切れないことが腹立たしい。
「なぜ、そこまで春人を遠ざけたいの?」
叔母は窓の外へ目を向けた。
「あの者がお前に希望を与えるからです」
「希望が、そんなに悪いもの?」
「叶わない希望は、人を最も残酷に壊します」
王妃の指が、窓枠を強く押さえている。母を救おうとして儀式を遅らせ、その間に多くの民を失った過去。まだ私は詳しく知らない。
けれど叔母が希望という言葉を嫌う理由は、母の診療録に残る染みより深いのかもしれなかった。
「お前は春の終わりを受け入れなければならない」
「受け入れなければ、どうなるの?」
「苦しみが増えるだけです」
「それは私の苦しみでしょう」
王妃が私を見る。私は一歩も退かなかった。
「春人がいなくても、私は逆咲きを探す。母の死を知る前の、何も疑わない私には戻れないわ」
「禁書庫へ入ったのですね」
「アルヴィンを責めないで。私が選んだの」
「あの騎士は、必要な事実を選ぶのが下手です」
叔母の口元が、ほんのわずかに歪んだ。気づいていたらしい。
「春人を遠ざけても、私の意思は消えない」
「では、彼の意思は?」
その一言で、何も言えなくなる。春人には帰りたい理由がある。家族。
友人。写真家になるはずだった未来。私のためにそれを捨てろと願うのは、王妃の取引よりずっと身勝手だ。
「帰れるなら、帰るべきだと思うわ」
声にすると、胸の針が深くなった。
「それを本人へ言いなさい」
叔母は勝った顔をしなかった。それが少しだけ救いで、同時に腹立たしかった。
◇
東客棟へ行くと、春人は黒い上着を畳んでいた。千年桜の根元で着ていた、元の世界の服だ。市場で裂けた肩はミナが繕い、縫い目だけが新しい。
「荷造り?」
「まだ帰り道もないのに?」
「王妃から聞いたわ」
春人の手が止まる。私は窓辺の椅子へ座った。立っていれば、逃げたくなる気がした。
「元の世界へ帰す方法を探す代わりに、私へ近づくなと言われたのでしょう」
「うん」
「家族は?」
「母親と、姉が一人。心配してると思う」
「友人もいる?」
「少ないけどね。仕事だって、急に消えたままだ」
笑いながら言う声に、未練が滲む。
「仲のいい家族なの?」
春人は黒い上着の縫い目を指でなぞった。
「姉とは、まあまあ。母親とは最後に喧嘩した。写真家になりたいなら、いつまで手伝いでいるんだって言われて」
「正しいことを言われると腹が立つものね」
「そう。だから電話に出なくなった」
「でんわ?」
「遠くの人と話せる道具。母親から何度も連絡が来てたのに、忙しいふりして無視した」
彼は困ったように笑った。
「帰ったところで、歓迎されるだけじゃない。謝らなきゃいけないし、逃げてた仕事も決めなきゃいけない」
「それでも帰りたい?」
「帰りたい。たぶん、今度は逃げないために」
故郷は彼を無条件に包む場所ではない。それでも戻って、途中で投げたものを拾いたいのだ。その望みを否定する言葉を、私は持てなかった。
少なくとも今の私にはできない選び方だった。当然だ。この世界には、春人の積み重ねたものが何もない。
名前を知る人さえ、まだ数えるほどだ。
「帰れるなら帰りなさい。あなたには、そうする権利があるわ」
きれいに言えたと思う。春人は私を見た。
「それ、姫としての答え?」
「何?」
「前に言ってただろ。姫としてか、自分としてかって」
自分の言葉で追い詰められるとは思わなかった。
「どちらでも同じよ」
「同じ顔には見えないけど」
「顔色の話はもう飽きたわ」
春人はそれ以上追及しなかった。畳んだ上着へ手を置く。
「俺、帰る方法を探す」
胸の中で、何かが小さく折れた。
「そう」
「でも、王妃との取引を受けるかは決めてない」
「同じことでしょう。帰り道が見つかれば、あなたはいなくなる」
「見つかってから決める」
「随分と都合がいいのね」
「うん。今は、どっちも簡単に捨てたくない」
正直な言葉が、優しい嘘より痛かった。私は椅子から立つ。
「好きになさい」
扉へ向かう背中に、春人の声が届く。
「リリア」
振り返らなかった。帰らないで、と言えばよかったのかもしれない。けれどその一言で彼の世界を奪うほど、私は強くも、残酷にもなれなかった。
あとがき
帰る権利を認めたいリリアと、どちらも捨てきれない春人の選択がすれ違いました。春人が帰る方法を探す決断を、皆さまは責められますか?




