第10話 あなたなんて、どうせ帰る人でしょう
春人が帰る方法を探すと決めた日から、私は彼と会わないよう予定を組んだ。朝は神官の診察、昼は散花記録の整理、午後はノアとの文献調査にあて、春人が図書館へ来る時間には自室へ戻る。
人を避けるためだけなら、我ながら驚くほど勤勉になれるらしく、その熱心さを別のことへ使いたかった。完璧な予定のはずが、我ながら子どもじみている。
一日目には、回廊の角で春人と鉢合わせた。彼は何か言おうとしたが、私はアルヴィンへ南部の警備状況を尋ね、そのまま通り過ぎた。アルヴィンは答えながら、私と春人を交互に見ていた。
二日目、図書館のいつもの席に、蜂蜜ミルクが置かれていた。冷めていた。春人がどれほど待ったのか考えたくなくて、私は一口も飲まず返した。
夜になってから後悔し、厨房で同じものを頼んだ。蜂蜜を三匙入れられ、甘すぎて飲めなかった。三日目、ノアが無言で紙を一枚渡してきた。
『会いたくないならそう言って。予定をずらすの、アルヴィンさんが大変そうだから』
春人の字だった。最後の一行だけ、ノアが書き足している。
『実際、非効率です』
私は紙を四つ折りにして記憶帳へ挟んだ。捨てるほど大切ではなく、返事を書くほどでもない。そういうことにした。
「お嬢様、春人様から本をお預かりしました」
ミナが机へ三冊置いた。異界召喚の研究書には、細い紙片が何枚も挟まっている。春人が読めない古語をノアに聞き、要点を現代の言葉で書き直したものだ。
『帰還門は、来訪時と同じ場所に開く可能性が高い』
『星の位置を合わせる必要あり』
『千年桜の開花が、召喚の力になった?』
字は少し歪んでいる。右手しか使えないせいだ。
「熱心ね」
「お会いにならないのですか?」
「必要な情報は紙で足りるわ」
「春人様は、人間ですけれど」
「知っているわ」
人間だから困っている。本のように閉じて、決まった棚へ戻せない。こちらが開かなくても、向こうから声をかけてくる。
「昨日、廊下でお嬢様を待っていましたよ」
「たまたまでしょう」
「一時間も?」
「随分と暇なのね」
ミナは私の顔を見つめた。
「いいの。最初から、いなくなる人だったもの」
口にすると、いなくなる未来が形を持った。ミナは何も言わなかった。悲しい時ほどよく喋る人が黙ると、部屋がひどく静かになる。
「何か言いたそうね」
「言えば、怒ります」
「言わなくても少し腹が立っているわ」
ミナは諦めたように息を吐いた。
「どうでもいい人なら、そんなに上手に避ける必要はありません」
「何度も勝手に名前を呼ぶ、礼儀知らずだからよ」
「呼ばれるのを待っているように見えます」
「今日の髪結いは、少し強く引きすぎではなくて?」
話を変えると、ミナは私の髪へ櫛を通した。
「お嬢様ほどではありません」
侍女は時々、主人より容赦がない。
◇
距離を置いても、調査はやめなかった。母の診療録を写し、抜き取られた目録の頁を復元し、異界召喚が行われた日の星の位置を計算する。私は自分を救う方法を探している。
春人が帰る道を見つけることとは別の話だ。そう言い聞かせながら、彼の書き込みばかり目で追っていた。
『リリアの消耗が増える方法は除外』
『本人の同意なしに試さない』
余白に何度も同じ注意がある。優しくしないでほしい。帰る人の優しさは、あとに残る人間には毒だ。
夜、私は記憶帳を開いた。最後の空白頁へ、ペンを置く。神谷春人。
一度書く。忘れないように、もう一度。神谷春人。
春人。春人。文字が頁を埋めていく。
書いたら大切になってしまうでしょう。以前、私は彼にそう言った。もう遅かったらしい。
帰らないで。最後に書いた四文字を見て、息が止まる。こんな言葉を見つけた未来の私は、春人を引き止めるかもしれない。
何も知らず、彼の家族も夢も奪うかもしれない。私は頁を破った。細かく裂こうとして、手が止まる。
捨てることもできず、二つ折りにして机の端へ置いた。弱くて、狡くて、どうしようもない。その夜は眠れなかった。
◇
翌朝、私はミナへ調査資料をまとめて渡した。
「春人へ。星図の計算が一箇所違うと伝えて」
「お嬢様ご自身で――」
「お願い」
ミナは諦め、紙束を抱えた。破った頁が一番下に貼りついていたことへ、私は気づかなかった。夕暮れ前、春人が私の部屋へ来た。
私は窓辺で神官長の報告を聞いている最中だった。廊下の向こうに春人の姿が見え、反射的に顔を逸らす。彼の手には、二つ折りの紙があった。
気づいた時には遅い。
「お嬢様?」
ミナが呼ぶ。私は神官長の話を遮った。
「少し外すわ。続きは日没後に」
「しかし、散花量の報告が」
「私の花でしょう。待たせて」
返事を聞かず、反対側の扉から庭へ出た。逃げている。春人に「逃げればいい」と言われて怒った私が、たった紙一枚から逃げている。
それでも、足を止めることはできなかった。笑えなかった。足は自然と千年桜へ向かった。
花びらが、もう少しずつ散り始めている。肩や髪へ触れるたび、何かを奪われた気がした。
「リリア!」
背後から春人の声がする。私は幹へ手をついたまま振り返らなかった。
「その紙を返して」
「返す。でも、話してから」
「話すことなんてないわ」
「帰らないでって書いてあった」
胸の奥を直接つかまれたようだった。
「読み間違いよ」
「何度見ても同じだった」
「異世界の文字と間違えたのではなくて?」
「リリア」
春人の声が近づく。
「俺が帰る方法を探すって言ったから、避けてる?」
「自意識が過ぎるわ」
「じゃあ、顔を見て言って」
振り返る。春人は息を切らし、まだ治りきらない肩を押さえていた。そこまでして追ってくることが、また腹立たしい。
「あなたなんて、どうせ帰る人でしょう」
声が震えた。
「家族がいて、仕事があって、帰ったら拾い直したい夢がある。だったら優しくしないで」
「優しくしてるつもりじゃ――」
「私を心配しないで。名前を呼ばないで。帰ったあとも思い出してしまうようなことを、これ以上増やさないで」
涙が落ちた。泣くつもりはなかった。どうやら感情まで予定どおりには動かないらしい。
春人は手を伸ばしかけた。けれど触れずに下ろす。
「帰りたいのは本当だよ」
「知っているわ」
「リリアのそばにいたいのも、本当なんだ」
「そんな都合のいいこと――」
彼の名を呼ぼうとした。風が吹き、薄紅の花びらが二人の間を横切った。甘い香りだけが、急にはっきりと鼻に残る。
けれど、口の中で音が消えた。目の前の人を知っている。雪の中で拾った。
蜂蜜ミルクをくれた。私を庇って怪我をした。なのに名前だけが、白い空白になった。
「あなた……誰?」
春人の顔から、すべての色が消えた。
あとがき
隠していた「帰らないで」が届いた直後、リリアの中から春人の名が一瞬欠けました。帰りたい気持ちと、そばにいたい気持ちは両立できると思いますか?




