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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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11/24

第11話 恋人候補、たぶん

「あなた……誰?」

私がそう尋ねると、春人は泣きそうな顔で笑った。

「春人。君の恋人候補、たぶん」

「は?」


名前が戻ると、雪の夜や黒い服、蜂蜜ミルク、傷ついた肩、写真家になれないまま逃げていた人の姿がよみがえった。神谷春人にまつわる記憶が空白へ一気に流れ込み、膝から力が抜けた。

「待って」

私は額へ手を当て、戻った記憶を一つずつ確かめた。


「あなたと会った場所は、千年桜の根元。最初に王宮へ来た時、頭を根へぶつけた」

「そこまで覚えてる」

「市場では天幕を直して、蜂蜜ミルクを二杯もらった。味は忘れた。ヴェルグの男に襲われ、あなたは左肩を怪我した」

「うん」

「禁書庫で母の記録を見つけた。あなたは、分からないことを分からないと答えた」

ひとつ話すたび、春人の肩から力が抜けていく。

「質問をして」

「何を?」

「私がどこまで覚えているか、確かめるのよ」

「試験みたいで嫌だな」

「私が頼んでいるの」


春人は少し考えた。

「俺の仕事は?」

「写真スタジオの手伝い。まだ写真家ではない」

「俺が怖い時にすること」

「笑ってごまかす」

「リリアの好きなもの」

「蜂蜜ミルク、古い恋愛小説、裸足で歩くこと」

「よかった」

春人が息を吐く。私は腹を立てるべきなのに、その安堵が少し嬉しかった。春人が支えようとしたが、私はその手を払った。


「誰が恋人候補よ」

「今のは忘れてなかったんだ」

「忘れていても腹が立つわ」

「よかった」

春人の声が震えた。冗談で笑わせたかったのではない。自分が怖いから、笑える言葉を探したのだ。

気づいた途端、怒りきれなくなる。なんとも卑怯な人だ。


「座ろう」

春人が千年桜の根元を示した。

「命令しないで」

「お願い。俺の足も震えてるから」


見ると、本当に膝が揺れていた。私たちは太い根を背に、少し離れて腰を下ろした。頭上では花びらが静かに散り、夜の庭を薄紅に染めている。

「どれくらい、忘れてた?」

「ほんの数秒よ」

「俺には、もっと長く感じた」

「大げさね」

「目の前で、自分だけ消えたんだぞ」

春人は破れた頁を膝へ置いた。帰らないで、の文字が月明かりに浮かぶ。


「これ、返す」

「燃やして」

「嫌だ」

「私の紙よ」

「じゃあ、自分で燃やせばいい」

差し出された紙を受け取る。指先に力を入れれば、すぐに破ける薄さだった。それでも破れなかった。

「帰る方法を探すことは、やめない」


春人が言う。胸が痛んだが、今度は逃げずに聞いた。

「そう」

「でも、リリアを避ける取引は受けない。王妃にも、明日そう言う」

「帰れる日が来れば、いなくなるのに?」

「その日までは、いる」

「無責任ね」

「うん。ずっと先の約束はできない」

春人は膝を抱えた。


「約束するって言って、また逃げるほうが嫌だから」

「また?」

しばらく沈黙が続いた。春人は散った花びらを一枚拾い、指の上で回す。

「写真家になるのが夢だった。高校を出て、スタジオで働き始めた時は、二年で独立するって言ってた」


聞き慣れない言葉もあったが、黙って聞く。

「でも、自分の写真を人に見せるのが怖くなった。下手だって言われたら、夢がなくなる気がして。作品をまとめるよう言われても、忙しいふりして先延ばしにした」

「それで、お母様に叱られたのね」

「うん。正しいことを言われて、電話からも逃げた」

春人は花びらを握る。


「こっちに来た日も、作品を提出する約束の日だった。俺はデータを持ってたのに、スタジオへ行かず駅へ向かってた」

「どこへ行くつもりだったの?」

「決めてなかった。ただ反対方向の電車に乗ろうとしてた」

笑っていた。いつものように口元だけで。

「最低でしょう」

「ええ、少し」

「そこは否定してくれてもよくない?」

「分かったふりをしないのでしょう」


春人が目を丸くしたあと、本当に笑った。

「リリアには負けるな」

少し胸が軽くなる。


「でも、逃げたくなる気持ちは分かるわ」

私は千年桜を見上げた。

「毎朝、窓の外で祈る人たちを見る。皆、春を待っている。私が死ななければ笑えない人たちなんて嫌いだと思う夜があるの」


口にした瞬間、喉が焼けるようだった。これは記憶帳にも書かなかった。

「十二歳の冬、北の村から救援を求める使者が来たの。凍った道で息子を亡くした人だった」

春人は黙って聞いている。


「その人は泣きながら、精霊姫へもっと力を使わせてくれと頼んだ。私を見ても、子どもだとは思わなかった。ただ、春を出す器だと思っていた」

あの夜の鐘を覚えている。祈りの声も、叔母が救援を断った時の使者の顔も。

「私は部屋へ戻って、春を祝う薄紅の飾りを全部切った。あの人の息子が死んだことより、自分が怖かった。そんな自分が嫌で、次の日は誰よりきれいに笑ったわ」


春人は慰めなかった。

「それは、憎くなるよ」

静かに言った。


「許してほしいと頼まれてもいないのに、全部許せるほうが変だ」

「市場の女の子が豆を持っていたでしょう。あの子に罪はない。分かっているのに、あの子の幸せまで憎らしくなることがある」

「うん」

春人は否定しなかった。

「軽蔑しないの?」

「しない。俺だって、自分が逃げた責任を電車や仕事のせいにしてた」

「同じにしないで」

「同じじゃない。でも、きれいじゃない気持ちがあるから、悪い人間ってことにはならないだろ」


春人は私を見る。

「それでも毎朝ちゃんと姫をやってるなら、君は十分すごいよ」

慈悲深く、清らかで、王国の誇りだと、姫として褒められたことは何度もある。けれど、民を嫌う私まで含めて十分だと言われたのは初めてで、涙が出そうになった。

「また泣いてる?」

「桜の花粉よ」

「桜の花粉症ってあるのかな」

「あることにしなさい」

春人は素直に頷いた。私は記憶帳を開いた。破れた頁の次に、新しい空白がある。


ペンを取り出し、ゆっくり書いた。

――神谷春人。異世界から来た、礼儀知らず。怖い時ほど笑う。写真家になりたい。帰る方法を探している。

最後に一行、迷ってから書き足す。


――忘れたくない人。

「見てもいい?」

「駄目」

手帳を閉じる。春人は少し残念そうにしながら、無理に取ろうとはしなかった。

「書いたら大切になるんじゃなかった?」

「もう大切になってしまったものは、仕方がないでしょう」


声が小さくなった。

「また名前を忘れたら、どうする?」

春人が尋ねる。


「勝手に恋人を名乗るのは禁止よ」

「候補も?」

「なおさら駄目」

「じゃあ、何て言えばいい?」

私は手帳を抱えた。

「名前を教えて。それから、私が何を知りたいか聞いて」

「かわいそうな顔は?」

「禁止」

「難しいな」

「守りなさい」


春人は真面目な顔で頷いた。

「分かった。何度でも、最初から話す」

春人の右手が、根の上へ置かれている。私は自分の手を、その隣へ置いた。指一本分の隙間。


春人は動かない。私が選ぶのを待っている。私はその隙間を埋め、彼の手を握った。

温かい。そう思った瞬間、胸を鋭い痛みが貫いた。千年桜が大きく震える。

一陣の風が吹き、数えきれない花びらが私たちの上へ降り注いだ。


あとがき


二人が弱さを認め合い、リリアが初めて春人を「忘れたくない人」と記しました。

「恋人候補、たぶん」という春人の名乗りを、皆さまは何点つけますか?

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