第11話 恋人候補、たぶん
「あなた……誰?」
私がそう尋ねると、春人は泣きそうな顔で笑った。
「春人。君の恋人候補、たぶん」
「は?」
名前が戻ると、雪の夜や黒い服、蜂蜜ミルク、傷ついた肩、写真家になれないまま逃げていた人の姿がよみがえった。神谷春人にまつわる記憶が空白へ一気に流れ込み、膝から力が抜けた。
「待って」
私は額へ手を当て、戻った記憶を一つずつ確かめた。
「あなたと会った場所は、千年桜の根元。最初に王宮へ来た時、頭を根へぶつけた」
「そこまで覚えてる」
「市場では天幕を直して、蜂蜜ミルクを二杯もらった。味は忘れた。ヴェルグの男に襲われ、あなたは左肩を怪我した」
「うん」
「禁書庫で母の記録を見つけた。あなたは、分からないことを分からないと答えた」
ひとつ話すたび、春人の肩から力が抜けていく。
「質問をして」
「何を?」
「私がどこまで覚えているか、確かめるのよ」
「試験みたいで嫌だな」
「私が頼んでいるの」
春人は少し考えた。
「俺の仕事は?」
「写真スタジオの手伝い。まだ写真家ではない」
「俺が怖い時にすること」
「笑ってごまかす」
「リリアの好きなもの」
「蜂蜜ミルク、古い恋愛小説、裸足で歩くこと」
「よかった」
春人が息を吐く。私は腹を立てるべきなのに、その安堵が少し嬉しかった。春人が支えようとしたが、私はその手を払った。
「誰が恋人候補よ」
「今のは忘れてなかったんだ」
「忘れていても腹が立つわ」
「よかった」
春人の声が震えた。冗談で笑わせたかったのではない。自分が怖いから、笑える言葉を探したのだ。
気づいた途端、怒りきれなくなる。なんとも卑怯な人だ。
「座ろう」
春人が千年桜の根元を示した。
「命令しないで」
「お願い。俺の足も震えてるから」
見ると、本当に膝が揺れていた。私たちは太い根を背に、少し離れて腰を下ろした。頭上では花びらが静かに散り、夜の庭を薄紅に染めている。
「どれくらい、忘れてた?」
「ほんの数秒よ」
「俺には、もっと長く感じた」
「大げさね」
「目の前で、自分だけ消えたんだぞ」
春人は破れた頁を膝へ置いた。帰らないで、の文字が月明かりに浮かぶ。
「これ、返す」
「燃やして」
「嫌だ」
「私の紙よ」
「じゃあ、自分で燃やせばいい」
差し出された紙を受け取る。指先に力を入れれば、すぐに破ける薄さだった。それでも破れなかった。
「帰る方法を探すことは、やめない」
春人が言う。胸が痛んだが、今度は逃げずに聞いた。
「そう」
「でも、リリアを避ける取引は受けない。王妃にも、明日そう言う」
「帰れる日が来れば、いなくなるのに?」
「その日までは、いる」
「無責任ね」
「うん。ずっと先の約束はできない」
春人は膝を抱えた。
「約束するって言って、また逃げるほうが嫌だから」
「また?」
しばらく沈黙が続いた。春人は散った花びらを一枚拾い、指の上で回す。
「写真家になるのが夢だった。高校を出て、スタジオで働き始めた時は、二年で独立するって言ってた」
聞き慣れない言葉もあったが、黙って聞く。
「でも、自分の写真を人に見せるのが怖くなった。下手だって言われたら、夢がなくなる気がして。作品をまとめるよう言われても、忙しいふりして先延ばしにした」
「それで、お母様に叱られたのね」
「うん。正しいことを言われて、電話からも逃げた」
春人は花びらを握る。
「こっちに来た日も、作品を提出する約束の日だった。俺はデータを持ってたのに、スタジオへ行かず駅へ向かってた」
「どこへ行くつもりだったの?」
「決めてなかった。ただ反対方向の電車に乗ろうとしてた」
笑っていた。いつものように口元だけで。
「最低でしょう」
「ええ、少し」
「そこは否定してくれてもよくない?」
「分かったふりをしないのでしょう」
春人が目を丸くしたあと、本当に笑った。
「リリアには負けるな」
少し胸が軽くなる。
「でも、逃げたくなる気持ちは分かるわ」
私は千年桜を見上げた。
「毎朝、窓の外で祈る人たちを見る。皆、春を待っている。私が死ななければ笑えない人たちなんて嫌いだと思う夜があるの」
口にした瞬間、喉が焼けるようだった。これは記憶帳にも書かなかった。
「十二歳の冬、北の村から救援を求める使者が来たの。凍った道で息子を亡くした人だった」
春人は黙って聞いている。
「その人は泣きながら、精霊姫へもっと力を使わせてくれと頼んだ。私を見ても、子どもだとは思わなかった。ただ、春を出す器だと思っていた」
あの夜の鐘を覚えている。祈りの声も、叔母が救援を断った時の使者の顔も。
「私は部屋へ戻って、春を祝う薄紅の飾りを全部切った。あの人の息子が死んだことより、自分が怖かった。そんな自分が嫌で、次の日は誰よりきれいに笑ったわ」
春人は慰めなかった。
「それは、憎くなるよ」
静かに言った。
「許してほしいと頼まれてもいないのに、全部許せるほうが変だ」
「市場の女の子が豆を持っていたでしょう。あの子に罪はない。分かっているのに、あの子の幸せまで憎らしくなることがある」
「うん」
春人は否定しなかった。
「軽蔑しないの?」
「しない。俺だって、自分が逃げた責任を電車や仕事のせいにしてた」
「同じにしないで」
「同じじゃない。でも、きれいじゃない気持ちがあるから、悪い人間ってことにはならないだろ」
春人は私を見る。
「それでも毎朝ちゃんと姫をやってるなら、君は十分すごいよ」
慈悲深く、清らかで、王国の誇りだと、姫として褒められたことは何度もある。けれど、民を嫌う私まで含めて十分だと言われたのは初めてで、涙が出そうになった。
「また泣いてる?」
「桜の花粉よ」
「桜の花粉症ってあるのかな」
「あることにしなさい」
春人は素直に頷いた。私は記憶帳を開いた。破れた頁の次に、新しい空白がある。
ペンを取り出し、ゆっくり書いた。
――神谷春人。異世界から来た、礼儀知らず。怖い時ほど笑う。写真家になりたい。帰る方法を探している。
最後に一行、迷ってから書き足す。
――忘れたくない人。
「見てもいい?」
「駄目」
手帳を閉じる。春人は少し残念そうにしながら、無理に取ろうとはしなかった。
「書いたら大切になるんじゃなかった?」
「もう大切になってしまったものは、仕方がないでしょう」
声が小さくなった。
「また名前を忘れたら、どうする?」
春人が尋ねる。
「勝手に恋人を名乗るのは禁止よ」
「候補も?」
「なおさら駄目」
「じゃあ、何て言えばいい?」
私は手帳を抱えた。
「名前を教えて。それから、私が何を知りたいか聞いて」
「かわいそうな顔は?」
「禁止」
「難しいな」
「守りなさい」
春人は真面目な顔で頷いた。
「分かった。何度でも、最初から話す」
春人の右手が、根の上へ置かれている。私は自分の手を、その隣へ置いた。指一本分の隙間。
春人は動かない。私が選ぶのを待っている。私はその隙間を埋め、彼の手を握った。
温かい。そう思った瞬間、胸を鋭い痛みが貫いた。千年桜が大きく震える。
一陣の風が吹き、数えきれない花びらが私たちの上へ降り注いだ。
あとがき
二人が弱さを認め合い、リリアが初めて春人を「忘れたくない人」と記しました。
「恋人候補、たぶん」という春人の名乗りを、皆さまは何点つけますか?




