第12話 好きになるほど、散っていく
春人と手をつないだ夜、千年桜が散らした花びらをノアが数えると、百二十七枚もあった。普段は一晩に十枚前後だから、私たちが触れたあの瞬間だけで、十日分以上の記憶が失われたことになる。
「数え間違いではなくて?」
図書館の机で尋ねると、ノアは不機嫌そうに眉を寄せた。
「僕は数字を間違えません」
「人間なら間違えるわ」
「では、僕は人間ではないのかもしれません」
冗談に聞こえない言い方だった。問い返す前に、彼は散花記録を私へ押し出す。開花量。
脈拍。体温。胸痛の強さ。
春人との距離。細かな数字が並んでいる。
「強い感情が桜魔法へ影響する記述は、歴代の記録にもあります。喜び、恐怖、怒り、執着。感情が大きく動くほど、精霊姫の力が花へ流れる」
「昨夜は、どれだったと思う?」
「複数です。分類する意味はありません」
「そう」
少しだけ安心し、同じくらい失望した。恋ではないと証明してほしかったのか、恋だと言ってほしかったのか。自分でも分からない。
扉の外には春人がいる。私が入室を断った。
「確かめたいわ」
「何をです」
「春人との距離が、どれほど影響するか」
ノアは無表情のまま私を見た。
「危険です」
「危険だから、知らないままにはできないの」
自分の感情を恐れて逃げるだけでは、王妃の思うつぼだ。何が私を削るのか、数字にして自分で決めたかった。
「僕は止めました」
「記録にもそう書いておいて」
「当然です」
◇
実験は、図書館の長い回廊で行った。春人を二十歩先に立たせ、ノアが私の手首で脈を測る。千年桜が見える窓辺には、落ちた花びらを受ける黒い布を敷いた。
「俺、実験動物みたいだな」
「動物のほうが指示を守るわ」
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
「恋人候補の件なら、一生許さないかもしれない」
ノアが春人へ一歩近づくよう指示する。十五歩。脈拍に変化なし。
十歩。胸の奥が少し温かくなる。脈が速くなったが、花は散らない。
五歩。春人の顔がはっきり見える。肩の包帯。
笑わないように結ばれた唇。私を心配している目。薄紅の花びらが、一枚落ちた。
「止める?」
春人が尋ねる。
「続けて」
三歩。市場で差し出された蜂蜜ミルク。禁書庫で触れかけて止まった手。
名前を忘れた時の、色を失った顔。胸が痛む。花びらが三枚、五枚と落ちる。
「リリア、もういい」
「あと一歩」
「よくない」
「私が決めるわ」
春人は歯を食いしばり、一歩近づいた。触れてはいない。それなのに心臓をつかまれたような痛みが走り、窓の外で枝が大きく揺れた。
黒い布へ、花びらが雨のように落ちる。膝が崩れた。春人が反射的に手を伸ばす。
「触らないで!」
彼の手が空中で止まった。代わりにノアが私の身体を支える。細い腕なのに、不思議なほど力があった。
「実験終了です」
春人は一歩下がった。その顔を見て、さらに花びらが一枚散った。ノアは黒い布の四隅を持ち上げ、落ちた花びらを中央へ集めた。
「四十三枚です」
「近づいただけで?」
春人の声が掠れる。
「正確には、近づくことを意識して感情が変化した結果です。距離だけを原因とは断定できません」
ノアは私へ記憶帳を渡した。
「欠落の確認を」
私は事前に作った質問表を開く。今朝の朝食。覚えている。
ミナが結んだ髪紐の色。青。アルヴィンが昨日提出した警備報告。
南門の交代を一人増やした。幼い頃に母が歌った子守歌。最初の二節は思い出せた。
最後の一節だけがない。何度も口ずさんだはずなのに、旋律が途中で切れ、続きが真っ白になっている。
「一件、欠落」
自分の声が、他人のように冷静だった。春人が顔を伏せる。
「俺が来なければ」
「実験を決めたのは私よ」
「でも、俺が近づいたから」
「私の選択まで、あなたの責任にしないで」
強く言うと、春人は口を閉じた。私は散花記録へ、四十三枚と子守歌の欠落を書き込む。痛みを数字にしても軽くはならない。
それでも、誰かに勝手な物語へ変えられるよりましだった。ノアは黒い布ごと花びらを木箱へ納める。
「今後は同じ実験を推奨しません」
「私もよ」
紙の上の四十三という数字が、春人との間に新しい距離を作っていた。
◇
結果は明らかだった。春人が近いほど、私の感情は揺れ、千年桜へ流れる力が増える。触れれば、もっと早い。
好きになるほど、私は散っていく。
「実験には問題があります」
ノアが記録を見ながら言った。
「春人個人への反応か、恋愛感情全般への反応かは分かりません。他の対象でも試しますか」
「嫌よ」
即答した。
「そう答えた時点で、十分だと思うけれど」
「非科学的です」
「恋まで数字にされてたまるものですか」
自分で実験しておいて、我ながら勝手だ。春人は回廊の端に立ったまま、こちらへ来ない。私は記録を閉じた。
「少し、二人にして」
ノアは私と春人を交互に見てから退出した。
「距離を置きましょう」
私が言うと、春人の眉が寄る。
「嫌だ」
「子どもみたいな返事ね」
「俺が近くにいると、リリアが死ぬって言われて、はいそうですかって離れられるわけないだろ」
「今、証明したでしょう」
「リリアが無理やり近づけさせたんだ」
「そうしなければ分からなかった」
「分かって、どうするんだよ」
「あなたを遠ざける」
言葉にすると、胸が痛んだ。また花びらが落ちる気配がする。
「私はあなたを忘れるのよ!」
声が回廊へ響いた。
「好きになったことも、手をつないだことも、あなたが泣きそうな顔で笑うことも。全部なくなるのに、私の命まで早く削るつもり?」
春人は黙った。
「あなたは帰るかもしれない。私は死ぬかもしれない。それなら今、離れたほうがましよ」
「ましって、誰にとって?」
「少なくとも、あなたは私が死ぬところを見なくて済む」
春人の顔が歪んだ。一歩近づきかけ、止まる。以前なら、腕を伸ばしていたかもしれない。
けれど彼は両手を身体の横で握り、触れなかった。
「分かった」
声が掠れている。
「納得はしてない。でも、リリアが触るなって言うなら触らない」
「春人」
「どこまで離れればいい?」
そんな聞き方は、ずるい。
「……十歩」
「分かった」
彼は一歩ずつ後ろへ下がった。十歩目で止まり、私を見る。近づかないことが、こんなに優しいとは知らなかった。
扉が開き、アルヴィンが入ってくる。
「姫、王妃陛下より急ぎの知らせです」
「何?」
「ヴェルグ帝国の第三皇子、カイル殿下が王都へ到着しました」
市場で見た黒い狼の印が脳裏に浮かぶ。アルヴィンは続けた。
「リリア様へ、正式な婚約を申し込むためとのことです」
あとがき
リリアは恋心と散花の関係を確かめ、自分の意思で春人との距離を選びました。触れずに十歩下がった春人の行動を、皆さまはどう受け止めましたか?




