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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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12/24

第12話 好きになるほど、散っていく

春人と手をつないだ夜、千年桜が散らした花びらをノアが数えると、百二十七枚もあった。普段は一晩に十枚前後だから、私たちが触れたあの瞬間だけで、十日分以上の記憶が失われたことになる。

「数え間違いではなくて?」

図書館の机で尋ねると、ノアは不機嫌そうに眉を寄せた。


「僕は数字を間違えません」

「人間なら間違えるわ」

「では、僕は人間ではないのかもしれません」

冗談に聞こえない言い方だった。問い返す前に、彼は散花記録を私へ押し出す。開花量。

脈拍。体温。胸痛の強さ。


春人との距離。細かな数字が並んでいる。

「強い感情が桜魔法へ影響する記述は、歴代の記録にもあります。喜び、恐怖、怒り、執着。感情が大きく動くほど、精霊姫の力が花へ流れる」

「昨夜は、どれだったと思う?」

「複数です。分類する意味はありません」

「そう」

少しだけ安心し、同じくらい失望した。恋ではないと証明してほしかったのか、恋だと言ってほしかったのか。自分でも分からない。


扉の外には春人がいる。私が入室を断った。

「確かめたいわ」

「何をです」

「春人との距離が、どれほど影響するか」

ノアは無表情のまま私を見た。


「危険です」

「危険だから、知らないままにはできないの」

自分の感情を恐れて逃げるだけでは、王妃の思うつぼだ。何が私を削るのか、数字にして自分で決めたかった。

「僕は止めました」

「記録にもそう書いておいて」

「当然です」



実験は、図書館の長い回廊で行った。春人を二十歩先に立たせ、ノアが私の手首で脈を測る。千年桜が見える窓辺には、落ちた花びらを受ける黒い布を敷いた。

「俺、実験動物みたいだな」

「動物のほうが指示を守るわ」

「昨日のこと、まだ怒ってる?」

「恋人候補の件なら、一生許さないかもしれない」

ノアが春人へ一歩近づくよう指示する。十五歩。脈拍に変化なし。


十歩。胸の奥が少し温かくなる。脈が速くなったが、花は散らない。

五歩。春人の顔がはっきり見える。肩の包帯。

笑わないように結ばれた唇。私を心配している目。薄紅の花びらが、一枚落ちた。


「止める?」

春人が尋ねる。

「続けて」


三歩。市場で差し出された蜂蜜ミルク。禁書庫で触れかけて止まった手。

名前を忘れた時の、色を失った顔。胸が痛む。花びらが三枚、五枚と落ちる。

「リリア、もういい」

「あと一歩」

「よくない」

「私が決めるわ」


春人は歯を食いしばり、一歩近づいた。触れてはいない。それなのに心臓をつかまれたような痛みが走り、窓の外で枝が大きく揺れた。

黒い布へ、花びらが雨のように落ちる。膝が崩れた。春人が反射的に手を伸ばす。

「触らないで!」


彼の手が空中で止まった。代わりにノアが私の身体を支える。細い腕なのに、不思議なほど力があった。

「実験終了です」

春人は一歩下がった。その顔を見て、さらに花びらが一枚散った。ノアは黒い布の四隅を持ち上げ、落ちた花びらを中央へ集めた。


「四十三枚です」

「近づいただけで?」

春人の声が掠れる。

「正確には、近づくことを意識して感情が変化した結果です。距離だけを原因とは断定できません」


ノアは私へ記憶帳を渡した。

「欠落の確認を」

私は事前に作った質問表を開く。今朝の朝食。覚えている。


ミナが結んだ髪紐の色。青。アルヴィンが昨日提出した警備報告。

南門の交代を一人増やした。幼い頃に母が歌った子守歌。最初の二節は思い出せた。

最後の一節だけがない。何度も口ずさんだはずなのに、旋律が途中で切れ、続きが真っ白になっている。


「一件、欠落」

自分の声が、他人のように冷静だった。春人が顔を伏せる。

「俺が来なければ」

「実験を決めたのは私よ」

「でも、俺が近づいたから」

「私の選択まで、あなたの責任にしないで」


強く言うと、春人は口を閉じた。私は散花記録へ、四十三枚と子守歌の欠落を書き込む。痛みを数字にしても軽くはならない。

それでも、誰かに勝手な物語へ変えられるよりましだった。ノアは黒い布ごと花びらを木箱へ納める。

「今後は同じ実験を推奨しません」

「私もよ」


紙の上の四十三という数字が、春人との間に新しい距離を作っていた。



結果は明らかだった。春人が近いほど、私の感情は揺れ、千年桜へ流れる力が増える。触れれば、もっと早い。

好きになるほど、私は散っていく。

「実験には問題があります」


ノアが記録を見ながら言った。

「春人個人への反応か、恋愛感情全般への反応かは分かりません。他の対象でも試しますか」

「嫌よ」

即答した。


「そう答えた時点で、十分だと思うけれど」

「非科学的です」

「恋まで数字にされてたまるものですか」

自分で実験しておいて、我ながら勝手だ。春人は回廊の端に立ったまま、こちらへ来ない。私は記録を閉じた。

「少し、二人にして」


ノアは私と春人を交互に見てから退出した。

「距離を置きましょう」

私が言うと、春人の眉が寄る。


「嫌だ」

「子どもみたいな返事ね」

「俺が近くにいると、リリアが死ぬって言われて、はいそうですかって離れられるわけないだろ」

「今、証明したでしょう」

「リリアが無理やり近づけさせたんだ」

「そうしなければ分からなかった」

「分かって、どうするんだよ」

「あなたを遠ざける」

言葉にすると、胸が痛んだ。また花びらが落ちる気配がする。

「私はあなたを忘れるのよ!」


声が回廊へ響いた。

「好きになったことも、手をつないだことも、あなたが泣きそうな顔で笑うことも。全部なくなるのに、私の命まで早く削るつもり?」

春人は黙った。


「あなたは帰るかもしれない。私は死ぬかもしれない。それなら今、離れたほうがましよ」

「ましって、誰にとって?」

「少なくとも、あなたは私が死ぬところを見なくて済む」

春人の顔が歪んだ。一歩近づきかけ、止まる。以前なら、腕を伸ばしていたかもしれない。

けれど彼は両手を身体の横で握り、触れなかった。


「分かった」

声が掠れている。

「納得はしてない。でも、リリアが触るなって言うなら触らない」

「春人」

「どこまで離れればいい?」


そんな聞き方は、ずるい。

「……十歩」

「分かった」

彼は一歩ずつ後ろへ下がった。十歩目で止まり、私を見る。近づかないことが、こんなに優しいとは知らなかった。


扉が開き、アルヴィンが入ってくる。

「姫、王妃陛下より急ぎの知らせです」

「何?」

「ヴェルグ帝国の第三皇子、カイル殿下が王都へ到着しました」

市場で見た黒い狼の印が脳裏に浮かぶ。アルヴィンは続けた。


「リリア様へ、正式な婚約を申し込むためとのことです」


あとがき


リリアは恋心と散花の関係を確かめ、自分の意思で春人との距離を選びました。触れずに十歩下がった春人の行動を、皆さまはどう受け止めましたか?

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