第7話 禁書庫の少年
「逆咲きについて知りたいなら、禁書庫へ入る必要があります」
ノアはそう言って私たちに背を向けたものの、案内するとも、ついて来いとも言わない。相変わらず説明を省くことにかけては天才的だ。
「入れるの?」
私が尋ねると、彼は足を止めた。
「許可があれば入れます」
「許可はないわ」
「では、見つからなければ問題ありません」
「意外と悪い子ね、君」
春人が感心する。ノアは振り返りもせず答えた。
「十四歳です。子ども扱いは不快です」
「そこじゃないんだけど」
図書館の最奥には、誰も読まない王家の系譜が並んでいた。ノアは一冊を引き抜き、奥の金具へ指をかける。鈍い音がして、本棚がゆっくり横へ動いた。
冷たい空気が足元を撫でる。隠し階段は地下へ続いていた。
「先に言います」
ノアが小さな魔石灯へ火を入れる。
「中で何を見ても、大声を出さないでください。管理人に聞かれます」
「管理人がいるの?」
「鼠です」
春人が真顔になった。
「それは確かに怖いな」
私は先に階段を下りた。笑いそうになったからではない。たぶん。
◇
禁書庫には、春が届いていなかった。石壁は湿り、棚からは古い紙と黴の匂いがする。天井が低く、春人は何度も頭をぶつけそうになっていた。
「肩は平気?」
「平気。頭のほうが危ない」
「元からなら治しようがないわね」
「心配して損したみたいに言うなよ」
ノアがこちらを見る。
「静かに」
二人で黙った。彼は迷いなく棚の間を進み、灰色の箱を引き出した。蓋には『散花終末記録・閲覧永久禁止』と赤い文字で記されている。
永久禁止のわりに、箱は少年一人で持てる場所へ置かれていた。
「禁じた人間は、誰にも読まれたくなかったのでしょう」
私の考えを読んだように、ノアが言う。
「でも捨てることもできなかった。記録を捨てれば、同じことを繰り返していると認める証拠まで消えますから」
箱の中には、薄い冊子が年代順に並んでいた。私は最も古い一冊を開く。最初の頁には、若い女性の肖像と名前があった。
満開の桜を背に、祭壇画のように穏やかに笑っている。次の頁から、文字が変わった。開花十六日目。
幼少期の記憶を消失。二十三日目。自分の侍女を認識できず、夜間に混乱。
三十一日目。水も飲めず、母の名を呼び続ける。最終頁には、たった一行。
――春の終わりとともに心拍停止。遺体は千年桜の根へ納めた。
公式の年代記には、こう書かれている。精霊姫は使命を果たし、安らかに桜へ還った、と。
「安らかになんて、どこにも書いていないわ」
声が掠れた。次の冊子も、その次も同じだった。忘れる順番だけが違う。
歌を失った人。歩き方を失った人。自分の名を何度も紙へ書き、最後にはその文字を読めなくなった人。
全員が春の終わりに死んでいる。
「眠るように亡くなった、と教えられていた」
「眠るように見えれば、苦しくないことになるの?」
春人の問いに、答えられなかった。私は記憶帳を開き、歴代の名前を写した。忘れたくないからではない。
忘れられたままにしたくなかった。春人も無事な右手で別の頁を書き写し始める。字は少し歪んでいたが、何も言わず続けた。
「これを」
ノアが最奥の一冊を差し出した。表紙に書かれた名を見て、呼吸が止まる。エレノア・セレフィリア。
私の母の名前だった。
「母は肺の病で亡くなったと聞いているわ」
「王宮の公式記録では、そうなっています」
冊子を開く。母は精霊姫候補だった。正式な継承前から、温室の凍結を防ぐため何度も力を使わされていた。
発熱。喀血。記憶の混濁。
それでも儀式は続けられた。最後の年には、自分に娘がいることを半日だけ忘れたと記されている。その娘は、私だ。
母について覚えていることは少ない。髪を梳く細い指。夜着に残った白い花の香り。
眠れない夜、私の名を何度も呼んでくれた声。あの声が本当に私のものだったのか、急に分からなくなった。母は私を見て、誰だろうと思った日があったのだ。
それでも抱きしめたのか。怖がらせないよう、知っているふりをしたのか。それとも、私のほうが何も気づかず笑っていたのか。
記録には書かれていない。
「母が私を忘れた日は、いつ?」
ノアは日付を答えた。迷いもせず、王暦と月と日まで。
「どうして覚えているの?」
「ここにある記録は、すべて読みました」
「すべて?」
「歴代精霊姫の名前と、亡くなった日も記憶しています」
ノアは古い冊子へ手を置いた。
「誰も読まなくなれば、記録がないのと同じですから」
平坦な声だった。けれど彼は、最初の冊子に描かれた女性の名をそっと口にした。次の一人も、その次も。
祈りではなく、出席を取るように淡々と。忘れられることを恐れているのは、私だけではないのかもしれない。
「ノア。今度から、私にも教えて」
「何をです」
「ここにいる人たちの名前を。私が忘れたら、また最初から」
少年はしばらく黙った。
「非効率です」
「そうね」
「ですが、拒否はしません」
紙の文字が滲んだ。泣いてはいない。指先から力が抜け、冊子が震えているだけだ。
「病気では、なかったの」
誰に尋ねたのか、自分でも分からない。ノアは無表情のまま答えた。
「病気でもありました。力を使わなければ、もっと長く生きた可能性があります」
可能性。人の母親を奪っておいて、なんて薄い言葉だろう。春人が手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れていいか迷っている。私は自分から、その手をつかんだ。温かかった。
それがかえって苦しい。
「あなたの世界には」
声を出すと、喉が痛んだ。
「こんなふうに死ぬ役目の人間がいるの?」
春人はすぐに答えなかった。
「いない」と言ってほしかったのかもしれない。そんな世界がどこかにあると信じたかった。
けれど春人は目を伏せた。
「分からない」
「分からないの?」
「誰かの犠牲で便利に暮らしてても、俺が見てなかっただけかもしれない。いないって言い切る資格がない」
正直で、役に立たない答えだった。だからこそ、信じられた。
「逆咲きの記録は?」
私はノアへ向き直る。彼は箱の底から、焼け焦げた紙片を取り出した。
『散りし命を根へ戻し、花を逆に咲かせる』
読めたのは、その一文だけだった。続きは黒く焼け、術の方法も代償も分からない。
「残りは別の禁書へ分けられた可能性があります」
「探すわ」
「危険です」
「今さらね」
私は母の冊子も持ち帰ろうとした。その時、隠し階段の上で重い音がした。本棚が動く。
足音が、一段ずつ地下へ近づいてくる。魔石灯の光の中へ、剣を下げたアルヴィンが姿を現した。彼の右眉は、今まで見たことがないほど高く上がっていた。
あとがき
美化された「桜への帰還」の裏で、歴代精霊姫とリリアの母が受けた現実が明らかになりました。春人の「分からない」という答えを、誠実だと思いますか?




