第6話 忘却の一枚目
忘れたものには、思い出そうとしても触れられる形がなく、残るのは、そこに何かがあったと示す空白だけだ。私は朝から記憶帳と向き合い、市場の蜂蜜ミルクの味や屋台の場所、春人が怪我をした時に最初に叫んだ言葉をたどっていた。
出来事そのものは覚えているのに、細部へ手を伸ばすと、指の間を冷たい風が抜けていく。
「なくしたものを数えるなんて、悪趣味ですね」
ミナはそう言いながら、新しい紙束へ日付を書いた。
「数えなければ、失ったことにも気づけないわ」
「気づかないほうが楽なこともあります」
「それはあなたの答え?」
ペンを止めて尋ねると、ミナは唇を噛んだ。
「……私なら、怖くて数えられません」
「正直でよろしい」
私は紙束の一枚目に『散花記録』と書いた。王宮は私の食事も睡眠も脈拍も記録してきた。ならば、私が失うものくらい、私自身の言葉で残してやる。
最初の項目へ『蜂蜜ミルクの味』と記す。文字にした途端、喪失が本当のものになった。
◇
昼前、春人が大きな盆を持って現れた。肩を包帯で吊っているのに、無事な手には湯気の立つ杯がある。背後のアルヴィンは、止めるのを諦めた顔をしていた。
「昨日の味、もう一回飲めば思い出すかもしれないだろ」
「宮廷医は歩き回っていいと言ったの?」
「安静にしろとは言った」
「言葉は通じているのに、意味だけ届かないのね」
春人は笑い、杯を卓上へ置いた。蜂蜜の匂いがする。表面には不格好な乳の泡が浮いていた。
「俺が作った」
「厨房は無事?」
「鍋を一個焦がしただけ」
アルヴィンの眉が上がる。
「二個です」
「騎士団長って、そういう報告もするんだな」
春人は明るく喋り続けた。厨房で砂糖と塩を間違えかけたこと。料理人に追い出されそうになったこと。
王宮の牛乳は元の世界より濃いこと。笑う回数が、やはり多すぎる。私は杯を一口飲んだ。
「甘いわ」
「思い出した?」
期待と恐怖が半分ずつ混じった目だった。
「いいえ」
春人の笑みが止まる。かわいそうなものを見る目に変わりかけた。
「その顔をやめて」
「どの顔?」
「私がもう消えてしまったような顔よ」
春人は言葉を失った。私は記憶帳を閉じる。
「味を一つ忘れただけ。私はまだ、ここにいる」
声が少し震えた。強がりだと、自分が一番よく知っている。けれど春人は否定しなかった。
「うん。ごめん」
彼は私の顔を見直した。同情ではなく、確かめるように。
「じゃあ、今いるリリアは何をしたい?」
質問されて、胸が静かになった。
「調べたい。なぜ記憶が散るのか、止める方法が本当にないのか」
「俺も行く」
「怪我人に本棚は持ち上げられないわ」
「本は読むものだろ」
「あなたの世界でもそうなのね。安心したわ」
◇
王宮図書館は、千年桜の西側に建つ古い石造りの塔だ。扉を開けると、乾いた紙と革表紙の匂いがした。高窓から差す春の光の中で、埃が金色に舞っている。
私は幼い頃からこの場所が好きだった。本の中の令嬢たちは、頁を開けば好きな場所へ逃げられる。閉じれば帰ってくる。
なんとも都合のいい自由だ。受付にいた司書へ、歴代精霊姫の医療記録を求めた。
「閲覧には神官長の許可が必要です」
「私自身の身体に関する記録なのに?」
「王家機密に指定されておりますので」
「指定されたのは王暦六百十二年の冬至令ね。あの条文は、精霊姫本人からの閲覧請求を禁じていないわ」
司書は目を泳がせた。礼儀作法と古い法令ばかり教え込まれた十七年も、たまには役に立つ。
「それとも、私に関する記録を私から隠す根拠を、王妃の前で説明なさる?」
「……目録だけでしたら」
分厚い台帳が運ばれてきた。春人が感心したように口笛を吹く。
「強いな、リリア」
「姫様とお呼びなさい」
「今さら?」
「司書が倒れそうだから」
台帳には、診療録、儀式録、散花観察、精霊反応といった項目が並んでいる。肝心の本文は地下書庫にあるらしく、請求番号だけが細かな字で記されていた。私たちは手分けして、記憶に関する記録を拾い始めた。
「散花反応、第七期……これか?」
春人が指差す。
「違うわ。それは花弁の色の記録」
「字が細かすぎる」
「写真とやらで大きくできないの?」
「カメラがあればね」
春人は台帳を横から眺め、綴じ糸の近くへ顔を寄せた。
「この本、途中の紙を抜かれてない?」
「どうして分かるの?」
彼が示した箇所だけ、糸の間隔がわずかに広い。頁番号も四十三から四十七へ飛び、切断された紙の端が背表紙の奥に残っていた。
「スタジオで古い写真帳を複製する仕事があったんだ。写真を剥がした跡とか、後から頁を足したところはよく見た」
私は台帳を光へかざした。
「三枚、切り取られているわ」
「最初から記録がないんじゃなくて、あったものを誰かが隠したってこと?」
春人の声が低くなる。記憶を失うことは正常だと言いながら、王宮は何を記録から消したのだろう。私は散花記録へ、欠落した頁番号を書き足した。
失ったものだけでなく、隠されたものも数えておくために。そんなやり取りをしていると、頭上から平坦な声が落ちてきた。
「非効率です」
見上げる。移動梯子の上に、黒髪の少年が座っていた。十四歳くらいだろうか。
腕いっぱいに本を抱え、こちらを無表情に見下ろしている。
「ノア、いたのね」
図書館に住み着いている書記見習いだ。話しかけても返事をしない日があるので、家具の一種だと思うことにしていた。
「三日前からいます」
「家へ帰らないの?」
「ここが家です。前にも説明しました」
そうだっただろうか。胸がひやりとする。ノアは私の顔を見て、梯子から音もなく降りた。
「忘れましたか」
「細かいことよ」
「精霊姫の記憶消失は、正常な散花反応です。騒ぐほどのことではありません」
春人の表情が変わる。
「人が記憶をなくすのが、正常?」
「過去の精霊姫も同様です。例外は記録されていません」
「例外がないなら、おかしいことも正しいことになるのかよ」
ノアは瞬きもしなかった。
「正しいとは言っていません。正常だと言いました」
春人が一歩出る。私は彼の袖をつかんだ。肩の傷に響かない側を選ぶ余裕は、まだあった。
「喧嘩をしに来たのではないわ」
「でも」
「私が聞く」
記憶帳を握る指が震えていた。ノアに見られたくなくて、さらに強く握る。
「止める方法は、本当にないの?」
ノアは私の手元を見た。ほんの一瞬だけ、無表情が揺らいだ気がした。
「通常の記録にはありません」
彼は台帳を奪うように取り、頁をすばやくめくった。
「ただし、廃棄指定になった禁書目録に、一件だけ不自然な項目があります」
細い指が、古い文字の上で止まる。
「逆咲き」
ノアが読み上げた瞬間、窓の外で桜が一枚だけ散った。
あとがき
忘却を記録し始めたリリアが、ノアと「逆咲き」の存在へたどり着きました。ノアの言う「正常」と、春人の言う「おかしい」のどちらに共感しますか?




