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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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第6話 忘却の一枚目

忘れたものには、思い出そうとしても触れられる形がなく、残るのは、そこに何かがあったと示す空白だけだ。私は朝から記憶帳と向き合い、市場の蜂蜜ミルクの味や屋台の場所、春人が怪我をした時に最初に叫んだ言葉をたどっていた。

出来事そのものは覚えているのに、細部へ手を伸ばすと、指の間を冷たい風が抜けていく。


「なくしたものを数えるなんて、悪趣味ですね」

ミナはそう言いながら、新しい紙束へ日付を書いた。

「数えなければ、失ったことにも気づけないわ」

「気づかないほうが楽なこともあります」

「それはあなたの答え?」


ペンを止めて尋ねると、ミナは唇を噛んだ。

「……私なら、怖くて数えられません」

「正直でよろしい」

私は紙束の一枚目に『散花記録』と書いた。王宮は私の食事も睡眠も脈拍も記録してきた。ならば、私が失うものくらい、私自身の言葉で残してやる。


最初の項目へ『蜂蜜ミルクの味』と記す。文字にした途端、喪失が本当のものになった。



昼前、春人が大きな盆を持って現れた。肩を包帯で吊っているのに、無事な手には湯気の立つ杯がある。背後のアルヴィンは、止めるのを諦めた顔をしていた。

「昨日の味、もう一回飲めば思い出すかもしれないだろ」

「宮廷医は歩き回っていいと言ったの?」

「安静にしろとは言った」

「言葉は通じているのに、意味だけ届かないのね」

春人は笑い、杯を卓上へ置いた。蜂蜜の匂いがする。表面には不格好な乳の泡が浮いていた。


「俺が作った」

「厨房は無事?」

「鍋を一個焦がしただけ」

アルヴィンの眉が上がる。

「二個です」

「騎士団長って、そういう報告もするんだな」


春人は明るく喋り続けた。厨房で砂糖と塩を間違えかけたこと。料理人に追い出されそうになったこと。

王宮の牛乳は元の世界より濃いこと。笑う回数が、やはり多すぎる。私は杯を一口飲んだ。

「甘いわ」

「思い出した?」


期待と恐怖が半分ずつ混じった目だった。

「いいえ」

春人の笑みが止まる。かわいそうなものを見る目に変わりかけた。


「その顔をやめて」

「どの顔?」

「私がもう消えてしまったような顔よ」

春人は言葉を失った。私は記憶帳を閉じる。

「味を一つ忘れただけ。私はまだ、ここにいる」


声が少し震えた。強がりだと、自分が一番よく知っている。けれど春人は否定しなかった。

「うん。ごめん」

彼は私の顔を見直した。同情ではなく、確かめるように。


「じゃあ、今いるリリアは何をしたい?」

質問されて、胸が静かになった。

「調べたい。なぜ記憶が散るのか、止める方法が本当にないのか」

「俺も行く」

「怪我人に本棚は持ち上げられないわ」

「本は読むものだろ」

「あなたの世界でもそうなのね。安心したわ」



王宮図書館は、千年桜の西側に建つ古い石造りの塔だ。扉を開けると、乾いた紙と革表紙の匂いがした。高窓から差す春の光の中で、埃が金色に舞っている。

私は幼い頃からこの場所が好きだった。本の中の令嬢たちは、頁を開けば好きな場所へ逃げられる。閉じれば帰ってくる。

なんとも都合のいい自由だ。受付にいた司書へ、歴代精霊姫の医療記録を求めた。


「閲覧には神官長の許可が必要です」

「私自身の身体に関する記録なのに?」

「王家機密に指定されておりますので」

「指定されたのは王暦六百十二年の冬至令ね。あの条文は、精霊姫本人からの閲覧請求を禁じていないわ」

司書は目を泳がせた。礼儀作法と古い法令ばかり教え込まれた十七年も、たまには役に立つ。

「それとも、私に関する記録を私から隠す根拠を、王妃の前で説明なさる?」

「……目録だけでしたら」


分厚い台帳が運ばれてきた。春人が感心したように口笛を吹く。

「強いな、リリア」

「姫様とお呼びなさい」

「今さら?」

「司書が倒れそうだから」

台帳には、診療録、儀式録、散花観察、精霊反応といった項目が並んでいる。肝心の本文は地下書庫にあるらしく、請求番号だけが細かな字で記されていた。私たちは手分けして、記憶に関する記録を拾い始めた。


「散花反応、第七期……これか?」

春人が指差す。

「違うわ。それは花弁の色の記録」

「字が細かすぎる」

「写真とやらで大きくできないの?」

「カメラがあればね」


春人は台帳を横から眺め、綴じ糸の近くへ顔を寄せた。

「この本、途中の紙を抜かれてない?」

「どうして分かるの?」

彼が示した箇所だけ、糸の間隔がわずかに広い。頁番号も四十三から四十七へ飛び、切断された紙の端が背表紙の奥に残っていた。


「スタジオで古い写真帳を複製する仕事があったんだ。写真を剥がした跡とか、後から頁を足したところはよく見た」

私は台帳を光へかざした。

「三枚、切り取られているわ」

「最初から記録がないんじゃなくて、あったものを誰かが隠したってこと?」


春人の声が低くなる。記憶を失うことは正常だと言いながら、王宮は何を記録から消したのだろう。私は散花記録へ、欠落した頁番号を書き足した。

失ったものだけでなく、隠されたものも数えておくために。そんなやり取りをしていると、頭上から平坦な声が落ちてきた。

「非効率です」


見上げる。移動梯子の上に、黒髪の少年が座っていた。十四歳くらいだろうか。

腕いっぱいに本を抱え、こちらを無表情に見下ろしている。

「ノア、いたのね」


図書館に住み着いている書記見習いだ。話しかけても返事をしない日があるので、家具の一種だと思うことにしていた。

「三日前からいます」

「家へ帰らないの?」

「ここが家です。前にも説明しました」

そうだっただろうか。胸がひやりとする。ノアは私の顔を見て、梯子から音もなく降りた。


「忘れましたか」

「細かいことよ」

「精霊姫の記憶消失は、正常な散花反応です。騒ぐほどのことではありません」

春人の表情が変わる。

「人が記憶をなくすのが、正常?」

「過去の精霊姫も同様です。例外は記録されていません」

「例外がないなら、おかしいことも正しいことになるのかよ」


ノアは瞬きもしなかった。

「正しいとは言っていません。正常だと言いました」

春人が一歩出る。私は彼の袖をつかんだ。肩の傷に響かない側を選ぶ余裕は、まだあった。


「喧嘩をしに来たのではないわ」

「でも」

「私が聞く」

記憶帳を握る指が震えていた。ノアに見られたくなくて、さらに強く握る。

「止める方法は、本当にないの?」


ノアは私の手元を見た。ほんの一瞬だけ、無表情が揺らいだ気がした。

「通常の記録にはありません」

彼は台帳を奪うように取り、頁をすばやくめくった。


「ただし、廃棄指定になった禁書目録に、一件だけ不自然な項目があります」

細い指が、古い文字の上で止まる。

「逆咲き」


ノアが読み上げた瞬間、窓の外で桜が一枚だけ散った。


あとがき


忘却を記録し始めたリリアが、ノアと「逆咲き」の存在へたどり着きました。ノアの言う「正常」と、春人の言う「おかしい」のどちらに共感しますか?


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