第5話 傷の手当ては苦手
春人の肩から流れる血は、押さえても押さえても布へ滲んだ。
「笑っていないで、じっとして」
「笑ってるんじゃなくて、痛すぎると顔がこうなるんだよ」
「ずいぶん紛らわしい顔ね」
私は春人の身体を支えて近くの薬屋へ入り、店主へ指輪の桜紋を見せて、奥の調合室を空けてもらった。表では警邏の笛と人々のざわめきが続いている。逃げた男たちはまだ捕まっていない。
ミナが扉に閂をかけ、清潔な布と水を卓上へ並べた。
「お嬢様、宮廷医を呼びます」
「待って。追っ手がどこにいるか分からない。王宮の迎えが来るまで、ここを動かないほうがいいわ」
「でも、血が」
「私が止める」
言い切ったものの、自信はなかった。桜の精霊姫なら、傷を癒やせて当然だと思われている。花を咲かせ、病を払い、触れるだけで命を救う。
祭壇画の中の精霊姫なら、きっとそうする。残念ながら、現実の私は切り傷一つ満足に治せない。上着を脱がせると、春人が小さく息を呑んだ。
刃は左肩を斜めに裂いている。深くはないが、傷口は赤く開いていた。
「少し熱くなるわ」
「少しって、昨日吐血してた人の『少し』?」
「嫌なら、このまま縫います」
「熱いのでお願いします」
返事だけは素直だった。私は傷の上へ両手をかざす。胸元の桜石が淡く光り、薄紅色の粒が指先からこぼれた。
傷口がわずかに寄る。それだけだった。春人の額には汗が浮かんでいるのに、血は完全には止まらない。
「ごめんなさい」
思わず口から出た。
「何が?」
「私は治癒が苦手なの。精霊姫なのに」
「精霊姫って、何でもできなきゃ駄目なの?」
「皆はそう思っているわ」
春人は痛みに顔をしかめながら、右手で傷を押さえた。
「写真スタジオで働いてた俺も、壊れたカメラは直せないよ」
「それと同じにしないで」
「何でもできないって話は同じだろ」
腹が立つほど簡単に言う。けれど、慰めるための嘘よりはましだった。私は薬屋から借りた消毒酒を傷へ注いだ。
春人の肩が跳ねる。
「痛い!」
「じっとして」
「さっきの魔法より痛い!」
「こちらのほうが効いている証拠ね」
「絶対楽しんでるだろ」
少しだけ。口には出さず、布をきつく巻いた。
◇
アルヴィンが薬屋へ駆け込んできた時、彼は春人より青い顔をしていた。
「姫」
一言に、怒りと安堵と疲労が詰まっていた。
「無事よ」
「無事の意味を辞書でお調べください」
珍しく皮肉を言われた。アルヴィンは春人の傷を確認し、すぐに担架を呼ぶ。続いて私へ向き直った。
「西塔の鍵を持ち出し、侍女を巻き込み、護衛なしで王宮外へ出た件は、後ほど伺います」
「春人は私を庇って負傷したわ。尋問するなら、まず治療を」
「当然です」
「西塔へ戻すことは許しません」
アルヴィンの目が細くなる。
「それをお決めになるのは王妃陛下です」
「なら、ヴェルグの隠密を誘い出した功績と、精霊姫を守った事実も一緒に報告して。彼だけを罪人にするなら、脱出を計画した私の名を最初に書きなさい」
しばらく沈黙が落ちた。アルヴィンは額へ手を当てる。
「……東客棟を警護させます。陛下の裁可が下りるまでです」
「十分よ」
「まったく十分ではありません」
彼はそう言いながら、私へ自分の外套をかけた。
◇
夜、東客棟の部屋は薬草の匂いで満ちていた。宮廷医によって傷は縫われ、春人は寝台へ座っている。私は包帯を替えるという名目で残った。
宮廷医の仕事を信用していないわけではない。ただ、自分で確かめたかっただけだ。
「痛む?」
「じっとしてれば平気」
「では、じっとしていなさい」
「命令が多いなあ」
口では文句を言いながら、春人は素直に腕を下ろした。新しい包帯を巻く。布越しにも体温が伝わり、妙に指先が落ち着かなかった。
「どうして私を庇ったの?」
「考える前に身体が動いた」
「次は考えて。あなたに死なれると、千年桜のことが分からなくなるわ」
「心配したって言えばいいのに」
包帯を少し強く引くと、春人が痛そうな声を上げた。
「それで、リリアはいつまで弱っていくの?」
私は手を止めた。窓の外では、満開の桜が夜風に揺れている。まだ花びらはほとんど散っていない。
話したくない。けれど、傷を負ってまで私を守った人へ何も知らせないのは、もっと卑怯に思えた。
「春が終わるまで」
「終わったら、元に戻る?」
「戻らないわ」
私は膝の上で指を組んだ。
「花が咲くたび命が削られる。花びらが散るたび、私の記憶も失われていくの」
春人から言葉が消えた。
「私は春が終わることより、その前に私が私でなくなることが怖い」
同情されたくなくて、笑おうとした。うまく口角が上がらない。
「昨日まで好きだった味を忘れる。ミナと交わした約束を忘れる。何を忘れたかさえ、いずれ分からなくなる」
春人は軽い慰めを言わなかった。ただ、縫われていないほうの手を握りしめていた。私は腰の小袋から、淡い桃色の手帳を取り出した。
「だから、書いておくの」
頁には細かな文字が並んでいる。蜂蜜は三匙だと甘すぎること。ミナが悲しい時ほど、よく喋ること。
アルヴィンは叱る前に右の眉を上げること。誰にも見つからず裸足で庭を歩くと、少しだけ自由になれること。春人は一頁ずつ、壊れ物に触れるようにめくった。
卓上のペンを取り、最後の空白へ先端を近づける。
「何を書くつもり?」
「俺の名前。会ったことを忘れないように」
私は手帳を引き寄せた。
「やめて」
「どうして?」
「書いたら、大切になってしまうでしょう」
春人の手が止まる。笑われると思った。けれど彼はペンを置き、手帳を私へ返した。
「じゃあ、リリアが書きたいと思うまで待つ」
その言葉のほうが、名前を書かれるより深く残りそうで困った。
◇
翌朝、ミナが蜂蜜ミルクを運んできた。
「昨日、市場で召し上がったものと同じくらい、少し薄めにしました」
湯気の向こうで、彼女が笑う。私は杯を口へ運んだ。甘くて、温かい。
好きな味のはずだった。けれど昨日、欠けた土杯で飲んだ蜂蜜ミルクがどんな味だったのか、どうしても思い出せなかった。
「お味はいかがです?」
ミナが尋ねる。
「おいしいわ」
嘘ではない。ただ、昨日と同じかが分からない。私は記憶帳を開いた。
昨夜、自分で書いた一行がある。
――市場の蜂蜜ミルク。薄くて、土杯の縁が欠けていた。春人が働いて手に入れた。今までで一番おいしかった。
文字は確かに私のものだった。けれど読んでも、舌に残るはずの味も、胸を温めたはずの嬉しさも戻ってこない。知らない誰かの日記を読んでいるようだった。
私は震える手で、その下へ日付を記す。
――今朝、味を忘れた。
最初の忘却を、自分の目ではっきりと見届けた。
あとがき
リリアが初めて、忘れていく恐怖を春人へ打ち明けた回でした。皆さまなら、記憶帳へ春人の名前を書きますか?




