第4話 春の市場と蜂蜜ミルク
春人に鍵を渡した翌朝、私は王宮を抜け出す計画を立てていたが、反省というものは、もう少し年を取ってから覚えればいいと思う。
「お嬢様。私の聞き間違いでなければ、西塔の囚人を洗濯物に隠すと仰いました?」
ミナが声をひそめる。
「囚人ではないわ。扱いの難しい賓客よ」
「鍵を渡した時点で、その言い訳は無理があります」
彼女は頭を抱えた。朝の光が差す衣装部屋には、地味な外套と侍女服、それから大きな籐籠が並んでいる。千年桜は窓の向こうで満開だった。
薄紅の花びらが風に乗り、白かった中庭へ新しい色を落としている。
「嫌なら断って」
私が言うと、ミナは顔を上げた。彼女には王宮で働く理由がある。故郷の家族へ給金を送り、幼い弟たちを食べさせているのだ。
私の気まぐれで職を失わせるわけにはいかない。
「私一人で別の方法を探すわ」
「別の方法って、窓からですか?」
「一度成功しているもの」
「成功した人は裸足で血を吐きません」
ミナは深く息を吐き、籐籠の蓋を開けた。
「西塔の洗濯物は、昼前に回収します。南厨房の搬入口なら、祭りの荷車に紛れられます」
「手伝ってくれるの?」
「見張らずにお嬢様を行かせるほうが怖いだけです」
言葉は冷たいのに、彼女は私へ歩きやすい革靴を差し出した。私は笑い、今度は聞こえなかったふりをしなかった。
「ありがとう、ミナ」
◇
西塔から運び出された籐籠は、ひどく重かった。南厨房の物置で蓋を開けると、丸まっていた春人が勢いよく顔を出した。
「空気っておいしいな」
「静かに。見つかったら、今度は籠では済まないわ」
「次は樽?」
「地下牢よ」
春人は口を閉じた。ミナが用意した下働きの服へ着替えさせる。焦げ茶の上着と帽子はよく似合うとは言えなかったが、王宮で借りた白い服より目立たない。
「これからどうする?」
「市場へ行きます」
「逃げるんじゃないの?」
「逃げても行く先がないでしょう。まず外を見なさい」
春人は帽子の下から私を見た。
「リリアが見たいんじゃなくて?」
図星を刺されると、人は腹が立つ。私は侍女服の襟を整え、先に物置を出た。
◇
春の市場は、人と匂いと音であふれていた。雪解け水が石畳を流れ、あちこちに泥の水溜まりを作っている。子どもたちは靴を汚すたび母親に叱られ、それでも笑いながら走っていた。
店先には冬の保存食に混じって、摘みたての若菜が少しだけ並ぶ。土のついた葉を、一人の老女が宝石のように撫でていた。
「本当に芽が出たねえ」
掠れた声を聞くと、胸の奥が痛んだ。あの若菜は私の命で育ったのだと思えば誇らしく、それでも逃げ出したくなり、二つの気持ちが喉でぶつかって言葉にならない。
その時、泥だらけの小さな靴が私の裾へぶつかった。五歳ほどの女の子が、籠からこぼれた豆を慌てて拾っている。私はしゃがみ、転がった一粒をつまんだ。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
「怪我はない?」
「うん。これ、お父さんが畑にまくの。春が来たから」
女の子は豆を籠へ戻し、胸を張った。その母親らしい女性が追いつき、何度も頭を下げる。
「今年は畑を起こせます。精霊姫様のおかげです」
私とは知らず、女性は千年桜の方角へ手を合わせた。女の子は道端に咲いたばかりの紫の小花を一本摘み、私へ差し出す。
「お姉ちゃん、顔が白いから。お花、あげる」
「……ありがとう」
花を受け取る指が、少し震えた。この子たちに春を与えられたことは嬉しい。私の命が使われたことは悔しい。
どちらか一つに決められたなら、ずっと楽だった。母子が去ったあと、春人は私の手元の花を見た。
「何も言わないのね」
「何を言えば正解か、まだ分からないから」
「逃げればいい、とは言わないの?」
春人は帽子のつばへ触れ、気まずそうに目を逸らした。
「それはもう言わない。分かるまでは、分かったふりもしない」
立派な慰めより、その不器用な沈黙のほうがありがたかった。私は小花を侍女服の胸元へ挿し、歩き出した。
「大丈夫?」
隣の春人が尋ねる。
「それ、あなたの口癖なの?」
「リリアが大丈夫じゃなさそうな顔ばっかりするから」
「今の私は、ただの侍女リリよ。名前を呼ばないで」
「分かった、リリ」
ためらいなく呼ばれ、妙に落ち着かない。ミナは少し離れた場所で乾燥豆を選ぶふりをしながら、こちらを見張っていた。完璧な侍女であり、共犯者である。
広場の中央では、春を祝う布飾りが張られている。ところが雪解けの風に煽られ、屋台の天幕が今にも外れそうだった。春人が駆け寄り、支柱へ飛びつく。
「そっちの縄、引いて!」
屋台の主人と二人で天幕を押さえ、緩んだ結び目を直した。剣も魔法も使えないけれど、重い照明を運んでいたという腕は役に立つらしい。
「助かったよ、兄ちゃん。これ持っていきな」
主人が、湯気の立つ土杯を二つ差し出した。温めたミルクに蜂蜜を落としたものだった。香ばしく炙った木の匙が添えられている。
春人は得意そうに片方を私へ渡した。
「俺のおごり」
「お金を払っていないでしょう」
「働いたから同じ」
安い土杯は縁が少し欠け、両手で包むとじんわり熱かった。一口飲む。蜂蜜の甘さが、冷えていた身体へゆっくり落ちていく。
王宮で飲むものより薄い。それなのに、不思議なくらいおいしかった。
「姫様って、もっと高そうなものしか好きじゃないのかと思ってた」
「失礼ね。高いものは好きよ。でも、温かいものも好き」
「否定しないんだ」
「高価なものに罪はないもの」
春人が笑った。私も少しだけ笑う。誰も私へ祈らない。
誰も命を差し出せと言わない。市場の片隅で、安い土杯を持つただの娘でいられる。その時間が終わるのを考えた途端、蜂蜜ミルクが苦くなった。
「リリア」
春人の声が低くなる。注意するより先に、彼が私の腕を引いた。耳元を何かが切り裂き、背後の木箱へ短剣が突き刺さる。
杯が石畳へ落ちた。
「見つけたぞ、桜の姫」
灰色の外套を着た男が二人、人混みを割って近づいてくる。片方の手首には、黒い狼をかたどった刺青があった。ヴェルグ帝国の隠密が使う印だ。
「殺すな。連れて帰れ」
男が手を伸ばす。春人が私の前へ出た。
「走って!」
「一人で格好をつけないで」
私は胸元の小さな桜石を握り、残っている力を流し込んだ。石畳に散っていた花びらが舞い上がる。薄紅の渦が男たちの視界を塞ぎ、悲鳴と悪態が混じった。
「ミナ、警邏を!」
「もう呼んでいます!」
春人の手をつかんで走る。けれど花びらの中から伸びた刃が、春人の肩を裂いた。彼の身体がよろめく。
それでも春人は私を庇う位置を崩さず、男の腕へ体当たりした。剣の心得などない、ひどく不格好な動きだった。警笛が鳴り、男たちは舌打ちして路地へ逃げ込む。
私は春人の肩を支えた。焦げ茶の上着が、見る間に赤黒く染まっていく。
「大丈夫?」
今度は私が尋ねた。春人は青い顔で笑おうとした。
「それ、リリアの口癖になりそうだな」
あとがき
初めての市場で得た温かな時間が、隣国の襲撃によって破られました。剣も魔法もない春人の行動を、無謀だと思いますか、それとも勇気だと思いますか?




