第23話 さようならを覚えていられない
「儀式を行えば、春人に関するすべての記憶が消えます」
ノアの言葉が薄紅の空間へ残り、私は隣の青年を見た。名前は分かると思っていたのに、春人、と心で呼んだ直後、その音だけが指の間から抜け落ちた。
「あなたの名前、もう一度」
青年の唇が震える。
「春人」
「春人」
「神谷春人」
「神谷、春人」
声に出しながら、十歩の距離と赤い布、異界の鍵であることを覚え直す。私が愛していたと、自分で書いた人だ。
「どれくらい待てる?」
ノアへ尋ねる。
「十二分。それを過ぎれば異界の錨との接続が切れ、儀式を続けられません」
「時間をください」
王妃が歴代の名を読むのを止めた。ミナは砂時計をひっくり返し、十二分を測る。私は春人と、記憶の流れから少し離れた根の陰へ移動した。
◇
二人きりになって、何を話せばいいのか分からなかった。忘れる前に大切な言葉を残さなければならない。そう思うほど、どうでもいいことばかり浮かぶ。
「肩の傷は?」
「もう平気」
「本当に?」
「少し痛い」
「最初からそう言いなさい」
春人が笑う。
「その言い方、何回も聞いた気がする」
「私は覚えていないわ」
笑おうとしたが、うまくできなかった。
「あなたの名前は?」
また消えている。
「春人」
「何度も初対面をしているみたいね」
「最初の印象は?」
「泣きそうなのに笑う、変な人」
「だいたい合ってる」
春人は、私が忘れた話を少しずつしてくれた。千年桜の根元で頭をぶつけたこと。尋問のパンを半分、私へ分けようとしたこと。
市場で天幕を直し、蜂蜜ミルクを手に入れたこと。私が手当てのとき、消毒酒を少し楽しそうに傷へかけたこと。
「最後のは誤解ではなくて?」
「笑ってた」
「失礼ね」
知らない私の話なのに、胸が温かくなる。
「帰る方法は、見つかったの?」
「まだ」
「帰りたい?」
春人はすぐに答えなかった。
「帰って謝りたい人がいる。逃げた仕事もやり直したい」
「なら、帰らなければ」
「リリアと市場へ行く約束が先」
「約束したの?」
「昨日」
昨日の私を、少し羨ましいと思った。
「蜂蜜ミルクを飲むのでしょう」
「覚えてる?」
「手帳に書いてあるわ」
「そっか」
嬉しさと寂しさが、春人の声に混じる。
「私があなたを忘れたら、どうするつもり?」
「初めましてって言う」
「また恋人候補と名乗るの?」
「最初からそれは重いだろ」
「今さら気づいたのね」
「まず友達候補くらいから」
「候補が好きなの?」
春人が本当に笑った。
「では、約束して」
「何を?」
「明日の私に、今日の気持ちを返せと迫らないこと」
春人の笑顔が消えた。私は言葉を選びながら続ける。
「私があなたを愛していたことを、借金の証文みたいに使わないで。手帳を見せて、昔の私はこうだったのに、と責めるのも駄目。知らない人に戻った私が怖がったら、十歩離れて」
「分かった」
「返事が早すぎるわ」
「じゃあ、考えたふりをしてから言う」
「そういうことではないの」
けれど、春人は冗談のあとで真っ直ぐ私を見た。
「リリアが俺を選ばなくても、責めない。思い出させようとして無理に触れない。初めましてって名乗って、嫌だと言われたら離れる」
「帰ると言われたら?」
「帰る」
喉の奥が苦しくなる。
「私が別の人を好きになったら?」
春人は答えるまでに三つ数えた。
「泣くと思う。でも、その人がリリアを道具にしないかは確かめる」
「面倒な友達候補ね」
「そこは譲れない」
私は記憶帳を開き、震える手で新しい頁へ書いた。未来の私へ。この人を選べとは書かない。
ただ、彼が名乗ったら、一度だけ話を聞いてほしい。それから、自分で決めて。書き終えた頁を春人へ見せる。
「これなら借金ではないでしょう」
「うん」
「あなたが見せるのは、一度だけよ」
「うん」
春人は約束を重ねるたび、何かを手放すように頷いた。
「それで、もし友達になれたら、何をするの?」
「市場へ行く。蜂蜜ミルクを飲む。今度は天幕を壊さない」
「ほかには?」
「リリアが見たことのない春を探す」
「私はずっと、春を待つ国にいたわ」
「儀式の後の春は、今までと違うだろ。誰か一人の血で咲くんじゃない、普通の春だ」
普通の春とは、咲くことも散ることも、誰かに命じられない季節なのだろう。私はその景色の中を歩く自分を思い描いた。
隣に誰がいるのかは、もうぼやけている。それでも手には温かい杯があり、知らない笑い声が聞こえた。
「それなら、悪くないわね」
「俺もそう思う」
その笑顔を覚えていたいと思った瞬間、名前がまた消えた。
「あなたは」
「春人」
「春人」
覚えるたび、失う痛みが増える。
「怖いわ」
初めて、言葉にした。
「あなたを忘れることが。忘れた後、平気で生きるかもしれない自分が」
「平気でいい」
春人は言う。
「俺のことを思い出せなくても、リリアが笑えるなら、それでいい」
「私は嫌よ」
「うん」
「勝手にきれいに諦めないで」
「ごめん」
春人は目を伏せた。
「本当は忘れてほしくない。俺だけ覚えてるのは、たぶんすごく苦しい」
正直な答えに、少し安心した。私は一歩近づく。胸が痛み、花びらが散る。
「触れてもいい?」
春人が尋ねた。
「今は、私からお願いするわ」
十歩の距離を、私が一歩ずつ埋める。春人の前で止まり、頬へ手を伸ばした。知らないはずの輪郭が、指に馴染む。
「キスをして」
春人が息を呑む。
「後悔しない?」
「明日には、後悔したことも忘れるかもしれない」
「それはずるいな」
「ええ。今だけ許して」
春人は私の頬へ触れ、もう一度、目で確かめた。私が頷く。唇が重なった。
甘くはなかった。涙の塩味と、走ってきた冷たい水の匂い。震えた息。
きれいではないから、私たちらしいと思った。唇が離れる。
「名前は?」
「春人」
「今、私はあなたが好きよ」
「うん」
「忘れるから無意味なんじゃないわ。今、私があなたを好きなら、それはちゃんと本物よ」
春人は私を抱きしめた。今度は止めなかった。千年桜が激しく散る。
それでも、砂時計の砂が残りわずかになるまで手を離さなかった。
◇
祭壇へ戻る。黒い根が、まだ春人を待っていた。
「俺は根にならない」
春人は自分へ言い聞かせるように告げた。
「リリアを救うために消えるんじゃなく、リリアが選ぶところを見届ける」
私は彼の手を取る。
「一緒に異界の錨をつないで」
「うん」
王妃が歴代の名を読み始める。ノアが根を解き、ミナが記録を空へ掲げた。私と春人は桜石の異界の錨へ同時に手を置く。
花びらが逆巻き、歴代精霊姫の記憶が光となって空へ昇る。私の記憶帳が開いた。神谷春人、と書いた文字が、一画ずつ薄れていく。
止めなかった。最後の一文字が消えた時、私は隣にいる人の名前をもう思い出せなかった。
あとがき
何度忘れても名乗る春人と、忘却の前でも「今の恋」を選ぶリリアの最後の時間でした。記憶が消えても、その瞬間の愛には意味があると思いますか?




