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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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23/24

第23話 さようならを覚えていられない

「儀式を行えば、春人に関するすべての記憶が消えます」

ノアの言葉が薄紅の空間へ残り、私は隣の青年を見た。名前は分かると思っていたのに、春人、と心で呼んだ直後、その音だけが指の間から抜け落ちた。

「あなたの名前、もう一度」


青年の唇が震える。

「春人」

「春人」

「神谷春人」

「神谷、春人」

声に出しながら、十歩の距離と赤い布、異界の鍵であることを覚え直す。私が愛していたと、自分で書いた人だ。

「どれくらい待てる?」

ノアへ尋ねる。


「十二分。それを過ぎれば異界の錨との接続が切れ、儀式を続けられません」

「時間をください」

王妃が歴代の名を読むのを止めた。ミナは砂時計をひっくり返し、十二分を測る。私は春人と、記憶の流れから少し離れた根の陰へ移動した。



二人きりになって、何を話せばいいのか分からなかった。忘れる前に大切な言葉を残さなければならない。そう思うほど、どうでもいいことばかり浮かぶ。

「肩の傷は?」

「もう平気」

「本当に?」

「少し痛い」

「最初からそう言いなさい」

春人が笑う。


「その言い方、何回も聞いた気がする」

「私は覚えていないわ」

笑おうとしたが、うまくできなかった。

「あなたの名前は?」


また消えている。

「春人」

「何度も初対面をしているみたいね」

「最初の印象は?」

「泣きそうなのに笑う、変な人」

「だいたい合ってる」

春人は、私が忘れた話を少しずつしてくれた。千年桜の根元で頭をぶつけたこと。尋問のパンを半分、私へ分けようとしたこと。


市場で天幕を直し、蜂蜜ミルクを手に入れたこと。私が手当てのとき、消毒酒を少し楽しそうに傷へかけたこと。

「最後のは誤解ではなくて?」

「笑ってた」

「失礼ね」

知らない私の話なのに、胸が温かくなる。


「帰る方法は、見つかったの?」

「まだ」

「帰りたい?」

春人はすぐに答えなかった。

「帰って謝りたい人がいる。逃げた仕事もやり直したい」

「なら、帰らなければ」

「リリアと市場へ行く約束が先」

「約束したの?」

「昨日」


昨日の私を、少し羨ましいと思った。

「蜂蜜ミルクを飲むのでしょう」

「覚えてる?」

「手帳に書いてあるわ」

「そっか」

嬉しさと寂しさが、春人の声に混じる。


「私があなたを忘れたら、どうするつもり?」

「初めましてって言う」

「また恋人候補と名乗るの?」

「最初からそれは重いだろ」

「今さら気づいたのね」

「まず友達候補くらいから」

「候補が好きなの?」

春人が本当に笑った。

「では、約束して」

「何を?」

「明日の私に、今日の気持ちを返せと迫らないこと」


春人の笑顔が消えた。私は言葉を選びながら続ける。

「私があなたを愛していたことを、借金の証文みたいに使わないで。手帳を見せて、昔の私はこうだったのに、と責めるのも駄目。知らない人に戻った私が怖がったら、十歩離れて」

「分かった」

「返事が早すぎるわ」

「じゃあ、考えたふりをしてから言う」

「そういうことではないの」

けれど、春人は冗談のあとで真っ直ぐ私を見た。


「リリアが俺を選ばなくても、責めない。思い出させようとして無理に触れない。初めましてって名乗って、嫌だと言われたら離れる」

「帰ると言われたら?」

「帰る」

喉の奥が苦しくなる。

「私が別の人を好きになったら?」


春人は答えるまでに三つ数えた。

「泣くと思う。でも、その人がリリアを道具にしないかは確かめる」

「面倒な友達候補ね」

「そこは譲れない」

私は記憶帳を開き、震える手で新しい頁へ書いた。未来の私へ。この人を選べとは書かない。


ただ、彼が名乗ったら、一度だけ話を聞いてほしい。それから、自分で決めて。書き終えた頁を春人へ見せる。

「これなら借金ではないでしょう」

「うん」

「あなたが見せるのは、一度だけよ」

「うん」

春人は約束を重ねるたび、何かを手放すように頷いた。


「それで、もし友達になれたら、何をするの?」

「市場へ行く。蜂蜜ミルクを飲む。今度は天幕を壊さない」

「ほかには?」

「リリアが見たことのない春を探す」

「私はずっと、春を待つ国にいたわ」

「儀式の後の春は、今までと違うだろ。誰か一人の血で咲くんじゃない、普通の春だ」

普通の春とは、咲くことも散ることも、誰かに命じられない季節なのだろう。私はその景色の中を歩く自分を思い描いた。

隣に誰がいるのかは、もうぼやけている。それでも手には温かい杯があり、知らない笑い声が聞こえた。


「それなら、悪くないわね」

「俺もそう思う」

その笑顔を覚えていたいと思った瞬間、名前がまた消えた。

「あなたは」

「春人」

「春人」


覚えるたび、失う痛みが増える。

「怖いわ」

初めて、言葉にした。


「あなたを忘れることが。忘れた後、平気で生きるかもしれない自分が」

「平気でいい」

春人は言う。

「俺のことを思い出せなくても、リリアが笑えるなら、それでいい」

「私は嫌よ」

「うん」

「勝手にきれいに諦めないで」

「ごめん」


春人は目を伏せた。

「本当は忘れてほしくない。俺だけ覚えてるのは、たぶんすごく苦しい」

正直な答えに、少し安心した。私は一歩近づく。胸が痛み、花びらが散る。


「触れてもいい?」

春人が尋ねた。

「今は、私からお願いするわ」


十歩の距離を、私が一歩ずつ埋める。春人の前で止まり、頬へ手を伸ばした。知らないはずの輪郭が、指に馴染む。

「キスをして」

春人が息を呑む。


「後悔しない?」

「明日には、後悔したことも忘れるかもしれない」

「それはずるいな」

「ええ。今だけ許して」

春人は私の頬へ触れ、もう一度、目で確かめた。私が頷く。唇が重なった。

甘くはなかった。涙の塩味と、走ってきた冷たい水の匂い。震えた息。


きれいではないから、私たちらしいと思った。唇が離れる。

「名前は?」

「春人」

「今、私はあなたが好きよ」

「うん」

「忘れるから無意味なんじゃないわ。今、私があなたを好きなら、それはちゃんと本物よ」

春人は私を抱きしめた。今度は止めなかった。千年桜が激しく散る。


それでも、砂時計の砂が残りわずかになるまで手を離さなかった。



祭壇へ戻る。黒い根が、まだ春人を待っていた。

「俺は根にならない」

春人は自分へ言い聞かせるように告げた。


「リリアを救うために消えるんじゃなく、リリアが選ぶところを見届ける」

私は彼の手を取る。

「一緒に異界の錨をつないで」

「うん」


王妃が歴代の名を読み始める。ノアが根を解き、ミナが記録を空へ掲げた。私と春人は桜石の異界の錨へ同時に手を置く。

花びらが逆巻き、歴代精霊姫の記憶が光となって空へ昇る。私の記憶帳が開いた。神谷春人、と書いた文字が、一画ずつ薄れていく。

止めなかった。最後の一文字が消えた時、私は隣にいる人の名前をもう思い出せなかった。


あとがき


何度忘れても名乗る春人と、忘却の前でも「今の恋」を選ぶリリアの最後の時間でした。記憶が消えても、その瞬間の愛には意味があると思いますか?

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