第22話 散る春の中心で
千年桜の中心には床も天井もなく、無数の根と花びらが薄紅の闇を流れていた。春人の手を握っている感触だけが、私を現在へつなぎ止めている。この人を私は知らないが、今は自分で信じると決めた。
ミナとノアも中心への門を越えてくる。入口の根はすぐに閉じ、王妃の兵の音が遠ざかった。
「儀式の場所は?」
「最深部です」
ノアの身体から薄紅の光が伸び、一本の道を作る。私たちは記憶の中を進んだ。声が、次々と身体を通り抜ける。
初めて恋をした日の喜び。儀式前夜、逃げられなかった悔しさ。妹へ譲った菓子を、本当は自分で食べたかったという小さな未練。
死ぬ間際まで、国を憎んだ怒り。どの感情も清らかではない。だからこそ本物だった。
一人の記憶が、私の身体を通り抜ける。十六歳の精霊姫。儀式の朝、妹と喧嘩をした。
仲直りしないまま桜へ立ち、最後まで妹の怒った横顔だけを覚えていた。次は二十歳の女性。恋人へ別れを告げたふりをし、彼が自分を忘れて幸せになるよう祈った。
本心では、一生忘れないでほしかった。さらに幼い少女。春の菓子を食べる前に味覚を失い、甘いとはどんなものか何度も侍女へ尋ねた。
彼女たちの身体の痛みまで流れ込む。私は自分の名を忘れ、誰の足で立っているのか分からなくなった。
「蜂蜜は三匙だと甘すぎる!」
春人の声が響く。
「アルヴィンは叱る前に右の眉を上げる! リリアは裸足で庭を歩くのが好き!」
意味の分からない言葉だった。けれど、自分で選んだ合図だと記憶帳にある。
「私は、リリア・セレフィリア」
口にすると、他人の痛みと自分の身体の境目が戻った。
「もっとましな合言葉はなかったの?」
「戻ってきて最初に言うのがそれ?」
春人の安堵した声がした。私は何度も立ち止まりかけた。自分だけが苦しかったのではない。
そう思うと、痛みを訴えることが恥ずかしくなる。けれど、その考えも違う。過去に百人が耐えたから、百一人目も耐えるべきだという理由にはならない。
「私で終わらせる」
声にすると、記憶の花びらが道を開いた。
◇
最深部には、二つの祭壇があった。一つは黒い根に包まれた古い祭壇。春人を術者にする、従来の逆咲き。
もう一つは、歴代精霊姫の名前が円を描く新しい術式。母の記憶が示した分散型だ。円の外縁には、異界の鍵を現世へつなぎ止める桜石の柱――異界の錨が立っている。
ノアが円の中央へ手を置く。
「記憶層との接続を始めます」
その時、背後で根が裂けた。
「リリア!」
オルフェリア叔母様が、二人の騎士とともに現れる。礼装の裾は水と泥で汚れ、右手には抜いた剣があった。叔母様の指輪に刻まれた王家の桜紋が、裂けた根の奥でまだ光っていた。
王家だけが知る古い祈りで、閉じた入口をこじ開けたのだ。
「アルヴィンは?」
「生きています。部下に拘束させた」
少しだけ息ができた。
「儀式を止めなさい」
「止めないわ」
「何が起きるか分かっていない。精霊姫の力が失われれば、王国の温室は止まる。地方領主は王家の統制を離れ、食糧を奪い合う」
「帝国との共同備蓄を使う」
私は外套から、カイルと署名した書面を出した。
「春の種が定着するまで、両国で食料と火晶石を融通する。失敗も公開記録へ残す」
「紙一枚で飢饉を止められると思うのですか」
「止められない。だから王家も畑を耕すの」
叔母様の顔が歪む。
「国が崩れます」
「崩れるべきものなら、崩しましょう」
私は歴代の名が刻まれた祭壇へ立った。
「女の子の命で支えた春なんて、最初から春じゃない」
「言葉は美しい。しかし明日の朝、王都のパンをどう配るのです」
叔母様は剣を握ったまま続ける。
「精霊姫の力が消えたと知れば、領主は備蓄を隠す。神官はお前を異端として糾弾する。民は不安から帝国の荷車を襲うかもしれない」
「だから、儀式と同時に記録を公開する」
私はカイルの黒狼印がある書面を開いた。
「王都の三日分の配給を先に確保し、帝国の荷車は両国の兵で守る。領主の備蓄は、叔母様が作った月次報告と照合する」
「反発する領主は?」
「緊急評議会へ呼ぶ。隠した食料は買い上げではなく徴発し、公開台帳へ名を残す」
「王家への反逆が起きれば」
「精霊姫を失った王家が、それでも統治する価値を行動で示すしかないわ」
準備した案でも、すべてを防げるわけではない。
「叔母様が一番よく知っているでしょう。一人の命を使えば、政治をしなくて済むわけではない」
王妃の剣先が、わずかに下がった。周囲の記憶が、強く脈打つ。誰かの泣き声。
そうだ、と囁く声。怖い、と訴える声。過去の少女たちは一つの意見ではない。
それでも、次の誰かに同じ死を渡したくないという願いだけが重なった。王妃の剣先が下がる。
「私が間違っていたと、そう言いたいのですか」
「間違っていたわ」
叔母様が息を呑む。
「でも、正しかったこともある。種子庫を分け、備蓄路を作り、死者の名を記録した。その仕組みは残せる」
私は手を差し出した。
「叔母様まで全部捨てなくていい。犠牲を当然にする部分だけ、一緒に終わらせて」
王妃は動かなかった。
◇
ノアが術式を起動する。名前の円が輝き、私の身体から力が引き出された。胸を裂く痛みに膝をつく。
春人が手を離し、私を支えようとした。その瞬間、黒い祭壇の根が彼の足へ絡みつく。
「春人!」
名前は記憶になくても、口が覚えていた。黒い根が、彼の身体を祭壇へ引く。根が、彼の恐怖だけを選んで囁いているようだった。
「こっちなら、すぐリリアを助けられる」
春人は根を振り払わなかった。
「約束したでしょう!」
「時間がない。分散の術式は、まだ動いてない」
「だからって」
「君が死ぬのを見たくない」
彼は黒い祭壇へ手を置こうとする。私は痛む身体で立ち上がり、春人の手首をつかんだ。花びらが激しく散る。
「私を救うために、あなたを失う物語なんて嫌」
「でも」
「私が忘れていても、約束は消えない。あなた一人で決めないで」
春人の手が止まる。私は黒い根を桜石で断ち切った。
「分散型を使います」
ノアへ告げる。
「了解しました」
春人は私の隣へ戻った。今度は私を抱えず、倒れた時に届く距離で待つ。王妃が、ゆっくり剣を床へ置いた。
「何をすればいい」
「歴代の名前を読んで。全員分」
叔母様は最初の名を口にした。最初は王妃の声だった。十人目で掠れ、三十人目で一度止まる。
「この方を知っているの?」
「幼い頃、肖像画へ花を供えました。名は教えられなかった」
叔母様は記憶の少女へ、初めて名前で呼びかけた。周囲の花びらが一枚、光へ変わる。名前を読むことは儀式の一部であり、王家が隠した死者を公へ戻す最初の作業でもあった。
ノアが根を開き、ミナが記録を読み、春人が異界の錨へ手を置く。私は円の中央で、蓄えられた記憶を解放する言葉を唱えた。術式が完成しかけた時、私と春人の間に赤い文字が浮かぶ。
ノアの顔が初めて青ざめた。
「代償条項です」
「何が必要なの?」
「異界の鍵を肉体のまま返すには、代わりの外来錨が要る」
赤い文字が、私の記憶帳へ絡みつく。春人の名が書かれた頁だけが光った。
「錨になるのは、リリア様の中にある春人の記憶です」
声も、顔も、触れた手の温度も。儀式を行えば、私の中から春人に関するすべてが消える。
あとがき
リリアは王妃へ過去の全否定ではなく、残す制度と終わらせる犠牲を示しました。春人の命と、リリアの中の恋の記憶。皆さまならどちらを選びますか?




