第21話 あなたの名前を忘れた日
鉄扉の向こうで剣と剣がぶつかる音を聞きながら、アルヴィンを置いて、私たちは水路を走った。戻りたかったが、戻れば彼が一人で残った意味まで奪ってしまう。
「前へ!」
春人の声が水路へ響く。赤い布は、異界の鍵であり、私が自分から信じると書いた人の印だった。その名前も、まだ分かる。
神谷春人。私は記憶帳を胸へ押さえ、冷たい水を蹴った。
「中心への門まで、あとどれくらい?」
「二百歩です」
緑の布を結んだノアが先頭を進む。黄の布のミナは私のすぐ後ろ。水路の根が明滅するたび、頭の中から小さなものが落ちていく。
朝に何を食べたかも、カイルが最後にどんな顔で笑ったかも、アルヴィンへ渡した青い布を誰が結んだかも思い出せない。
「止まって」
私は壁へ手をついた。
「お嬢様?」
黄の人が近づいてくる。顔は知っているのに名前が出ないため、私は記憶帳の色一覧を開いた。黄はミナで、配膳通路と監視記録を担う。
許してはいない。けれど必要だと自分で選んだ。
「ミナ」
「はい」
彼女は泣きそうな顔をしたが、過去を説明し始めなかった。約束を守っている。
「現在地は?」
「旧融雪水路。千年桜の中心へ向かっています」
「残り時間は?」
「十四分」
「私は歩ける。名前と色も理解できた。続けます」
誰かの決意をなぞるのではない。今の私が、もう一度選んだ。水路は三つに分かれていた。
ノアが左を選ぶ。ところが根が急に盛り上がり、足元の石を割った。ミナが水へ倒れる。
私は反射的に腕をつかんだ。黄の布が濡れ、彼女の手首へ張りつく。
「怪我は?」
「足首を少し」
立とうとして、ミナが顔を歪めた。
「歩けないなら中止するわ」
「私は中止条件の対象ではありません」
「仲間を置いていく計画へ同意した覚えはない」
「お嬢様」
その呼び方に胸が揺れた。理由は思い出せない。ノアが膝をつき、根に手を当てる。
薄紅の光がミナの足首を包み、腫れが少し引いた。
「応急処置です。歩行可能。ただし走れません」
「なら、速度を落とす」
「残り十二分です」
「急いで転ぶよりましよ」
春人が自分の肩へミナの腕を回した。私から十歩の距離を保ったまま支える。
「大丈夫。皆で行ける」
知らないはずの声に、少し安心した。
◇
進むほど、根の囁きが大きくなる。ここで眠ればいい。もう選ばなくていい。
誰かの声が、頭の内側でそう繰り返す。私は何のために歩いているのだろう。王宮を抜け出した理由が、急に分からなくなった。
足を止める。
「リリア?」
赤い人が呼ぶ。記憶帳を開こうとして、どの頁を見ればいいのか分からない。
「白のカードを」
ノアが言う。私は手首の白い布を確認し、同じ色のカードを取り出した。
――リリア・セレフィリア。精霊姫制度を終わらせ、歴代の記憶を解放する。最後の花びらの日に、千年桜の中心へ入る。
――途中で帰りたくなったら、現在地と代償を聞き、改めて決める。
「現在地は?」
「旧融雪水路、第二分岐の先です」
ノアが答える。
「進めば、何を失う可能性がある?」
「精霊姫の力、残っている記憶、命」
「戻れば?」
「あなたは春の終わりに死ぬ可能性が高い。従来の逆咲きを使えば、赤の人が根になります」
厳しい答えだった。でも、甘い言葉で誘導されるより信じられる。
「進みます」
「確認しました」
ノアは先頭へ戻った。赤い人は何も言わない。私が自分で決めるまで待っていた。
「止めたくはならなかったの?」
「なったよ」
「なぜ言わなかったの?」
「俺が怖いからって、リリアの答えを変えたくない」
胸の奥が温かくなる。彼を知っていた頃の私が信じた理由を、一つだけ理解した気がした。
◇
水路の終点には、巨大な根の壁があった。太い根が絡み合い、扉のように道を塞いでいる。その向こうから、数えきれない人の囁きが聞こえた。
ノアが両手を根へ当てる。薄紅の線が彼の腕を上り、壁全体へ広がっていく。
「最後の花びらが散るまで、あと九分」
「中心への門は?」
「まだ開きません。リリア様と異界の鍵の接触が必要です」
「接触後は、散花を止められません」
ノアは私たちへ告げる。
「中心への門が開くまで手を離せば失敗。開いたあとも、中心へ入るまで接続を保つ必要があります」
「私が中止を求めたら?」
「中心への門が開く前なら離します。開いた後は、離せば二人へ反動が出る。それでも中止を望むなら実行します」
危険を隠さず、決定権も残す。私は頷いた。赤い布の人を見る。
胸が痛む。近づけば、また何かを失う。それでも中心への門を開くには手を取らなければならない。
「触れても?」
彼が尋ねた。
「待って」
記憶帳を開く。出発前、私は赤い布の頁へ一文を足していた。
――この人を忘れても、信じて。私は、この人を愛していました。
愛していました。過去形なのが腹立たしい。書いた時の私は、未来の私が同じ気持ちを選べないと決めつけている。
私は、黒い髪と濡れた上着、左肩を庇う立ち方を順に見た。怖い時ほど笑うと書いてあるのに、今は笑っていない。
「あなたの名前は?」
尋ねた瞬間、頭上の根が大きく震えた。薄紅の光が降り注ぐ。答えを聞く前に、目の前の人に関する記憶がほどけた。
雪の夜と市場が消え、十歩の距離も、雨の温室も、言葉で写した私の姿もほどけていく。
気づけば、知らない青年が立っていた。
「あなた……誰?」
青年の顔から血の気が引く。それでも、口元を持ち上げた。
「春人。恋人候補、たぶん」
「候補なの?」
自分の声なのに、少し呆れていた。青年――春人は笑おうとして失敗した。
「できれば本採用がよかった」
「ずいぶん曖昧な関係だったのね」
「俺がちゃんと言えなかったから」
彼の声が震えている。知らない人が、私を失った顔をしている。なぜか胸が苦しく、涙が出た。
「泣かないで」
春人は手を伸ばしかけ、止めた。
「ごめん。今の君は、触られたくないよな」
勝手に触れない。記憶帳に書かれた人物像と同じだった。私は自分の字を指でなぞる。
この人を忘れても、信じて。私は、この人を愛していました。
「私はあなたを知らない。でも、私の字はあなたを知っているみたい」
「うん」
「今の私が信じる理由としては、少し弱いわね」
春人は傷ついた顔をした。私は続ける。
「だから質問する。私が帰りたいと言ったら、どうする?」
「現在地と目的を説明して、もう一度選んでもらう」
「私が歩けなくなったら?」
「計画を中止する。俺が背負えると言っても、皆で決める」
「一人で逆咲きを使う?」
「使わない。約束した」
すべて、カードに書いた答えと一致する。
「合格よ」
春人が息を呑んだ。私は右手を差し出す。
「中心への門を開けて。春人」
名前を呼んでも、記憶は戻らない。けれど初めて呼ぶ名として、嫌いではなかった。春人が私の手を取る。
理由は分からないのに、離したくない。手の温度を失うのが怖くて、指へ力を込めた。
「痛くない?」
「痛いわ」
「離す?」
「離さない」
根の壁に亀裂が走った。最後の花びらが、水路の流れに乗って私たちの足元へ届く。根が左右へ開き、薄紅の光に満ちた中心への門が現れた。
私は春人の手を握ったまま、その中心へ足を踏み入れた。
あとがき
春人を完全に忘れたリリアは、過去の感情ではなく、自筆の記録と現在の応答から改めて信頼を選びました。皆さまなら、記憶のない状態で春人の手を取れますか?




