表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/24

第21話 あなたの名前を忘れた日

鉄扉の向こうで剣と剣がぶつかる音を聞きながら、アルヴィンを置いて、私たちは水路を走った。戻りたかったが、戻れば彼が一人で残った意味まで奪ってしまう。

「前へ!」

春人の声が水路へ響く。赤い布は、異界の鍵であり、私が自分から信じると書いた人の印だった。その名前も、まだ分かる。


神谷春人。私は記憶帳を胸へ押さえ、冷たい水を蹴った。

「中心への門まで、あとどれくらい?」

「二百歩です」

緑の布を結んだノアが先頭を進む。黄の布のミナは私のすぐ後ろ。水路の根が明滅するたび、頭の中から小さなものが落ちていく。


朝に何を食べたかも、カイルが最後にどんな顔で笑ったかも、アルヴィンへ渡した青い布を誰が結んだかも思い出せない。

「止まって」

私は壁へ手をついた。


「お嬢様?」

黄の人が近づいてくる。顔は知っているのに名前が出ないため、私は記憶帳の色一覧を開いた。黄はミナで、配膳通路と監視記録を担う。


許してはいない。けれど必要だと自分で選んだ。

「ミナ」

「はい」

彼女は泣きそうな顔をしたが、過去を説明し始めなかった。約束を守っている。


「現在地は?」

「旧融雪水路。千年桜の中心へ向かっています」

「残り時間は?」

「十四分」

「私は歩ける。名前と色も理解できた。続けます」

誰かの決意をなぞるのではない。今の私が、もう一度選んだ。水路は三つに分かれていた。

ノアが左を選ぶ。ところが根が急に盛り上がり、足元の石を割った。ミナが水へ倒れる。


私は反射的に腕をつかんだ。黄の布が濡れ、彼女の手首へ張りつく。

「怪我は?」

「足首を少し」

立とうとして、ミナが顔を歪めた。


「歩けないなら中止するわ」

「私は中止条件の対象ではありません」

「仲間を置いていく計画へ同意した覚えはない」

「お嬢様」

その呼び方に胸が揺れた。理由は思い出せない。ノアが膝をつき、根に手を当てる。

薄紅の光がミナの足首を包み、腫れが少し引いた。


「応急処置です。歩行可能。ただし走れません」

「なら、速度を落とす」

「残り十二分です」

「急いで転ぶよりましよ」

春人が自分の肩へミナの腕を回した。私から十歩の距離を保ったまま支える。

「大丈夫。皆で行ける」


知らないはずの声に、少し安心した。



進むほど、根の囁きが大きくなる。ここで眠ればいい。もう選ばなくていい。

誰かの声が、頭の内側でそう繰り返す。私は何のために歩いているのだろう。王宮を抜け出した理由が、急に分からなくなった。

足を止める。


「リリア?」

赤い人が呼ぶ。記憶帳を開こうとして、どの頁を見ればいいのか分からない。

「白のカードを」


ノアが言う。私は手首の白い布を確認し、同じ色のカードを取り出した。

――リリア・セレフィリア。精霊姫制度を終わらせ、歴代の記憶を解放する。最後の花びらの日に、千年桜の中心へ入る。

――途中で帰りたくなったら、現在地と代償を聞き、改めて決める。

「現在地は?」

「旧融雪水路、第二分岐の先です」

ノアが答える。


「進めば、何を失う可能性がある?」

「精霊姫の力、残っている記憶、命」

「戻れば?」

「あなたは春の終わりに死ぬ可能性が高い。従来の逆咲きを使えば、赤の人が根になります」

厳しい答えだった。でも、甘い言葉で誘導されるより信じられる。

「進みます」

「確認しました」


ノアは先頭へ戻った。赤い人は何も言わない。私が自分で決めるまで待っていた。

「止めたくはならなかったの?」

「なったよ」

「なぜ言わなかったの?」

「俺が怖いからって、リリアの答えを変えたくない」

胸の奥が温かくなる。彼を知っていた頃の私が信じた理由を、一つだけ理解した気がした。



水路の終点には、巨大な根の壁があった。太い根が絡み合い、扉のように道を塞いでいる。その向こうから、数えきれない人の囁きが聞こえた。

ノアが両手を根へ当てる。薄紅の線が彼の腕を上り、壁全体へ広がっていく。

「最後の花びらが散るまで、あと九分」

「中心への門は?」

「まだ開きません。リリア様と異界の鍵の接触が必要です」

「接触後は、散花を止められません」


ノアは私たちへ告げる。

「中心への門が開くまで手を離せば失敗。開いたあとも、中心へ入るまで接続を保つ必要があります」

「私が中止を求めたら?」

「中心への門が開く前なら離します。開いた後は、離せば二人へ反動が出る。それでも中止を望むなら実行します」

危険を隠さず、決定権も残す。私は頷いた。赤い布の人を見る。


胸が痛む。近づけば、また何かを失う。それでも中心への門を開くには手を取らなければならない。

「触れても?」

彼が尋ねた。


「待って」

記憶帳を開く。出発前、私は赤い布の頁へ一文を足していた。

――この人を忘れても、信じて。私は、この人を愛していました。


愛していました。過去形なのが腹立たしい。書いた時の私は、未来の私が同じ気持ちを選べないと決めつけている。

私は、黒い髪と濡れた上着、左肩を庇う立ち方を順に見た。怖い時ほど笑うと書いてあるのに、今は笑っていない。


「あなたの名前は?」

尋ねた瞬間、頭上の根が大きく震えた。薄紅の光が降り注ぐ。答えを聞く前に、目の前の人に関する記憶がほどけた。

雪の夜と市場が消え、十歩の距離も、雨の温室も、言葉で写した私の姿もほどけていく。


気づけば、知らない青年が立っていた。

「あなた……誰?」

青年の顔から血の気が引く。それでも、口元を持ち上げた。


「春人。恋人候補、たぶん」

「候補なの?」

自分の声なのに、少し呆れていた。青年――春人は笑おうとして失敗した。

「できれば本採用がよかった」

「ずいぶん曖昧な関係だったのね」

「俺がちゃんと言えなかったから」


彼の声が震えている。知らない人が、私を失った顔をしている。なぜか胸が苦しく、涙が出た。

「泣かないで」

春人は手を伸ばしかけ、止めた。


「ごめん。今の君は、触られたくないよな」

勝手に触れない。記憶帳に書かれた人物像と同じだった。私は自分の字を指でなぞる。

この人を忘れても、信じて。私は、この人を愛していました。


「私はあなたを知らない。でも、私の字はあなたを知っているみたい」

「うん」

「今の私が信じる理由としては、少し弱いわね」

春人は傷ついた顔をした。私は続ける。

「だから質問する。私が帰りたいと言ったら、どうする?」

「現在地と目的を説明して、もう一度選んでもらう」

「私が歩けなくなったら?」

「計画を中止する。俺が背負えると言っても、皆で決める」

「一人で逆咲きを使う?」

「使わない。約束した」


すべて、カードに書いた答えと一致する。

「合格よ」

春人が息を呑んだ。私は右手を差し出す。


「中心への門を開けて。春人」

名前を呼んでも、記憶は戻らない。けれど初めて呼ぶ名として、嫌いではなかった。春人が私の手を取る。

理由は分からないのに、離したくない。手の温度を失うのが怖くて、指へ力を込めた。


「痛くない?」

「痛いわ」

「離す?」

「離さない」

根の壁に亀裂が走った。最後の花びらが、水路の流れに乗って私たちの足元へ届く。根が左右へ開き、薄紅の光に満ちた中心への門が現れた。

私は春人の手を握ったまま、その中心へ足を踏み入れた。


あとがき


春人を完全に忘れたリリアは、過去の感情ではなく、自筆の記録と現在の応答から改めて信頼を選びました。皆さまなら、記憶のない状態で春人の手を取れますか?


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ