第20話 皇子の選択
カイルが私たちの逃亡計画を最初から最後まで読む間、誰も動けず、洗濯室では竈にかけた湯の蓋だけが小さく鳴っていた。
「成功率は?」
読み終えたカイルが尋ねた。
「分からないわ」
「失敗した場合は?」
「私は精霊姫の力を失うか、死ぬ。春人も中心への門の反動を受ける可能性がある。歴代の記憶は消えるかもしれない」
「国は?」
「次の春を一人から得られなくなる」
「つまり、王国と帝国が頼る予定の力を、確証もなく壊すつもりか」
「そうよ」
カイルは経路図を畳んだ。
「止める」
アルヴィンが剣へ手を伸ばす。春人は立ち上がった。私は二人を手で制した。
「理由を聞きましょう」
「婚約条約が失効すれば、帝国は春を得られない。点火役を減らす計画も崩れる」
「私と結婚すれば、本当に解決する?」
「少なくとも死者は減る」
「私を奪っても、あなたの国はいつかまた誰かを犠牲にするわ」
カイルの目が細くなる。
「私が衰えれば、次の精霊姫を探す。春が足りなければ、点火役を増やす。一人の力で二つの国を支える仕組みは、私が死ぬまでしか持たない」
「その間に別の方法を探す」
「いつ?」
私は帝国の地図を指した。
「点火役の医療報告を毎月読んで、それでも三年間、署名を続けたのでしょう。期限のない『いつか』は、犠牲を続ける言い訳になる」
カイルの顔が強張る。
「私たちの方法なら、春の力を土へ分けられる。小さくても、毎年育てられる春になる」
「母親の記憶だけが根拠だ」
「歴代の記憶と、ノアの根の調査結果もある」
ノアが計算書を差し出した。根に蓄えられた魔力量。王国の耕作地へ分散した場合の推定温度上昇。
帝国北部へ春の種を移す可能性。
「成功は保証できません」
ノアが淡々と言う。
「しかし、一人の精霊姫を二国で消費する案も、三年以内に破綻する確率が高い」
「言い方」
春人が小声で注意した。
「事実です」
カイルは計算書を長く見つめた。
「帝国へ分けた場合、北部のどこまで届く」
「初年度は国境から三百里程度。既存の火晶石温室と併用すれば、点火役を四割減らせる推定です」
「全廃ではないのか」
「土へ定着するまで時間が必要です。二年目以降は、春の種を各地で増やせる可能性があります」
カイルは地図上の鉱山町を一つずつ指した。
「ここは?」
「二年」
「北端の孤児院は」
「火晶石を優先して残す必要があります」
「失敗時の備蓄は半年分しかない」
「セレフィリアから春作物を共同供給する」
私が答えた。
「成功した国が、失敗した国を見捨てない条項も加える。これは春の奪い合いではなく、二国の共同事業にするわ」
カイルは私を見る。
「あなたが精霊姫でなくなれば、その約束を履行する権限はない」
「だから今、王女として署名する。カイル殿下も皇子として署名して」
個人の善意では足りない。私たちが心変わりしても残る形にしなければ、また弱い者が燃料にされる。カイルは計算書の余白へ、共同備蓄と点火役削減の期限を書き込んだ。
「失敗すれば、帝国北部の民が死ぬ」
「成功しても、私一人が救うわけではない」
「民に土を耕し、種を育て、自分たちで春を作れと言うのか」
「ええ。王族も一緒に」
カイルは冷たい顔のままだった。けれど、紙を持つ指に力が入っている。
◇
春人が十歩先から口を開いた。
「俺は国を救う方法なんて知らない」
カイルが彼を見る。
「でしょうね。食料も、兵も、魔法も持っていない」
「でも、リリア一人が死ねば丸く収まる世界なら、丸くなくていい」
「青臭いな」
「そうかもしれない」
春人は逃げずに続けた。
「壊れた後に何を作るか、俺も考える。写真しか知らないけど、記録を残すことはできる。失敗したことも、誰が犠牲になったかも、次の人が隠せない形にする」
「記録で腹は満たせない」
「隠された記録のせいで、同じ犠牲を繰り返してた。役に立たないとは思わない」
カイルは春人を見つめた。それから、ごく小さく笑った。
「本当に青臭い」
初めて見る笑顔だった。嬉しそうではない。長く背負っていた荷物を、一瞬だけ地面へ置いた人の顔だった。
「道を開ける」
ミナが息を呑む。
「条件がある」
「聞くわ」
「成功したら、春の力を帝国にも分けること。術式、種、失敗の記録を独占しない」
「同意します」
「リリア」
アルヴィンが警告する。
「婚約の代わりよ。私自身を渡すのではなく、春を育てる方法を共有する」
私は紙へ条件を書いた。両国は分散型の春に関する知識を共有する。人間の生命を燃料にする儀式を、新たに制度化しない。
成果と失敗を公開記録へ残す。カイルも署名する。
「婚約は?」
「儀式が成功した時点で白紙に戻す」
「努力して愛するのではなかったの?」
「必要のない努力を続けるほど暇ではない」
少しだけ、私も笑った。
◇
翌日の夕刻。計画は予定どおり始まった。祈祷室の寝台には湯袋と毛布。
ミナが書いた昏睡記録。アルヴィンが警備交代を遅らせる。私は侍女の外套を被り、配膳通路を進んだ。
春人は赤、ミナは黄、ノアは緑、アルヴィンは青の布を手首へ巻いている。北種子庫の前には、帝国の黒い外套を着た騎士が二人立っていた。カイルが用意した護衛だ。
本人も、その中央にいた。
「婚約者候補が逃げるところを見送る皇子は、帝国でも珍しいでしょうね」
私が言うと、カイルは小さな黒狼の印章を差し出した。
「婚約者ではなく、共同事業の責任者を通すだけだ」
「どうして計画に気づいたの?」
「王妃から、あなたの健康記録を条約資料として渡された。昏睡中の人間が、前日より筆圧の強い署名をするのは不自然だ」
ミナが気まずそうに目を伏せる。
「それに、北種子庫の鍵を帝国騎士が借りた記録が残っていた。隠すなら、記録係から買収すべきだったな」
「次回の参考にします」
「次回があっては困る」
カイルは帝国騎士へ、南側の回廊でわざと騒ぎを起こすよう命じた。
「王妃の兵を五分は引きつける。私は会議室にいたと証言する」
「嘘をつくの?」
「必要な事実を選ぶ」
アルヴィンがわずかに眉を上げた。王宮で生きるこつが、帝国へも広がってしまったらしい。
「殿下の命により、ここから先は見ていません」
彼らは扉を開け、背を向けた。種子庫の床下から、古い融雪水路へ下りる。冷たい水が足首まで流れていた。
石壁には千年桜の根が這い、進むほど薄紅に光り始める。
「最後の花びらまで、あとどれくらい?」
「二十三分」
ノアが答える。後方で警笛が鳴った。計画の発覚が早すぎる。
「祈祷室の見張りが替え玉に気づいた」
アルヴィンが剣を抜く。水路の入口から、複数の足音が迫っていた。
「先へ行ってください」
「アルヴィン」
「ここは私が止めます」
「一人では」
「報告書を書く約束は守ります」
彼は鉄扉を閉め、内側から閂をかけた。青い布が、隙間の向こうへ消える。直後、王妃の兵が扉へぶつかる轟音が水路を揺らした。
あとがき
カイルは婚約による所有ではなく、春を育てる知識の共有を選びました。皆さまは、カイルの条件と決断をどう評価しますか?




