第19話 逃亡前夜
母の記憶に触れてから六日が過ぎた。春が終わる前夜、私たちは王宮の洗濯室で国家反逆の相談をしていたが、ほかに空いている部屋がなかったわけではない。夜中に湯気が出ても怪しまれず、王妃の侍従も好んでは近づかないから選んだのだ。
長机の上には王宮の見取り図、警備表、千年桜の根を写した図、それから洗いかけの靴下が一足あった。
「せめて靴下は片づけませんか」
ノアが言う。
「場所を借りている身で贅沢を言わないの」
私は図の中央を指した。
「明日の夕刻、最後の花びらが散る。中心への門が開くのは、その直後だけ」
「王妃陛下は、姫を南の祈祷室へ移す予定です」
アルヴィンが警備表を広げる。私が別の逆咲きを探していると知った叔母様は、療養という名目で外出を禁じた。明日は一日、騎士二十人が祈祷室を守る。
「正面から出るのは無理だな」
春人が言う。私から十歩離れ、洗濯籠へ腰掛けている。肩の傷は塞がったが、まだ重いものを持つなと宮廷医に言われていた。
本人は聞いていないふりをしている。
「北種子庫に、昔の融雪水路があります」
ノアが根の図へ細い線を引いた。
「借り春の儀で温めた水を、千年桜まで運んでいた水路です。今は閉鎖されていますが、半精霊の僕なら水路を塞ぐ根を開けられる」
「祈祷室から北種子庫までは?」
「侍女用の配膳通路を使います」
ミナが答えた。彼女は机の一番端に立ち、私と目を合わせない。あの日以来、必要な報告以外は話していなかった。
「監視記録を、明日の分まで書きました」
革表紙の帳面が置かれる。
――リリア様、散花による高熱。終日昏睡。面会および移動は不可能。
王妃へ五年報告してきたミナの字だ。疑う者は少ない。
「祈祷室の寝台には、毛布と湯袋を入れます。見張りが扉の外から確認しても、眠っているように見えます」
「発覚すれば、あなたの家族も処罰されるわ」
ミナの指が震えた。
「分かっています」
「今なら降りてもいい」
「降りません」
初めて、彼女が私を見る。
「私は、お嬢様を守るためだと言いながら、ずっと自分が困らない範囲でしか守らなかった。今度は自分で選びます」
謝罪を受け入れる準備は、まだできていない。けれど彼女の選択まで否定したくなかった。私は机越しに手を差し出す。
「許すのは後にするわ。今は、あなたが必要」
ミナは泣きそうな顔で、私の手を取った。
「はい」
握る時間は短くした。千年桜が散る気配はなかった。
◇
アルヴィンの役目は、祈祷室の警備交代を七分遅らせること。ミナは寝台へ替え玉を作り、配膳通路の扉を開ける。ノアは融雪水路を塞ぐ根を開く。
春人は異界から来た鍵として、私と中心への門をつなぐ。
「もう一つ決めることがあるわ」
私は五色の細い布を机へ並べた。
「移動中に、私が皆を忘れる可能性がある」
空気が重くなる。青は警護と時間管理を担うアルヴィン、黄は配膳通路と監視記録を扱うミナ、緑は融雪水路を塞ぐ根を開くノアだ。
赤は異界の鍵であり、私が自分から信じると書いた春人、白は私。同じ色の布を、それぞれの手首へ結ぶ。
私の記憶帳にも色と役割を記した。
「私が名前を忘れたら、色と役割だけを教えて。過去を一度に説明しないで」
「なぜです?」
ミナが尋ねる。
「知らない人たちに囲まれて、自分は皆を愛していたと言われても怖いだけでしょう」
春人の赤い布を見ないようにして続ける。
「私が帰りたいと言ったら、その時点の場所を教えて、もう一度選ばせて。以前の私の決意を盾に、無理に連れていかないで」
「それでは、中心への門に間に合わないかもしれません」
ノアの指摘は正しい。
「それでもよ。記憶を失った私は別人ではない。でも、以前の私が未来の私からすべての選択を奪っていいわけでもない」
アルヴィンが頷く。
「判断不能の場合は?」
「意識を失う、歩けない、名前と色の対応を三度続けて理解できない。そのどれかで計画を中止して」
「承知しました」
春人だけが黙っていた。
「不満?」
「止める役になるのが怖い」
「だから全員で決めるの。一人へ背負わせないために」
私は同じ内容を書いた小さなカードを四枚作り、全員へ渡した。逃げる計画だけではない。途中でやめる計画も、私たちには必要だった。
「あなたは触れずに中心への門を開けられるの?」
「最後だけ、手を取る必要があると思う」
春人が答える。
「その前に散花が進めば」
アルヴィンの声が硬くなる。
「俺が背負います」
「宮廷医の指示は?」
「忘れました」
「リリア様より先に忘却が始まったようだな」
「騎士団長、冗談言えるんですね」
「今のは事実確認だ」
二人の相性は、少しだけよくなったらしい。計画の最後に、アルヴィンは自分の剣を机へ置いた。
「中心への門が開くまで、追手は私が止めます」
「それでは、あなたが戻れない」
「姫を死ぬ場所へ届ける任務は、今日で終わりにします」
彼はまっすぐ私を見る。
「あなたが選んだ道を守ることを、最後の任務にさせてください」
母と交わした約束を、ようやく自分の言葉に変えたのだ。
「最後にはしないで。終わったら、報告書を書いてもらうわ」
「長いものになります」
「春より長くても読む」
アルヴィンは、ほんの少しだけ笑った。
◇
相談を終え、皆が役割の準備へ散った。洗濯室には私と春人だけが残る。正確には、十歩の距離も残っている。
「写真って、本当に記憶を残せるの?」
私が尋ねると、春人は頷いた。
「光を一瞬だけ閉じ込める。笑ってる顔も、怒ってる顔も、その時のまま」
「便利ね。私の記憶帳より正確そう」
「でも、写真に写らないものもある」
「たとえば?」
「声とか、匂いとか、その人が何を考えてたか」
春人は私を見る。
「カメラはないけど、言葉でなら残せるかもしれない」
「何を?」
「今のリリア」
彼は目を細めた。
「髪は、自分で結ぶと左側だけ少し緩む。怒ると顎が上がる。怖い時は右手で記憶帳の角を押す」
言われて、右手を離した。
「蜂蜜ミルクを飲む時は、最初の一口だけ目を閉じる。裸足で歩くくせに、泥が指につくと嫌そうな顔をする」
「それは写真ではなく、悪口ではなくて?」
「俺が覚えてるリリア」
春人の声が柔らかくなる。
「忘れたら、俺が言う。何度でも」
「あなたが忘れたら?」
「言葉にして残す。ノアにも預ける」
私は記憶帳を開き、新しい頁へ春人の言葉を書いた。事実かどうかより、彼がそう見ていたことを残したかった。
「明日、全部終わったら、私を市場に連れて行って」
「蜂蜜ミルク?」
「忘れているかもしれないから、もう一度教えて」
「約束する」
「帰る方法を見つけても?」
春人は少し黙った。
「帰るかどうか決める前に、一緒に市場へ行く」
完全ではない約束。だから信じられた。洗濯室の扉が開いた。
立っていたのはカイルだった。彼の手には、ミナが書き換えたはずの監視記録と、北種子庫への経路図がある。
「国家反逆の相談にしては、扉の見張りが甘いな」
あとがき
五人がそれぞれの技能で計画を作り、リリアとミナは許しを先送りしたまま手を取りました。皆さまは、春人の「言葉で写す写真」をどう感じましたか?




