第18話 千年桜の中の母
千年桜の根は人の記憶を食べていると、ノアは図書館の地下で説明した。
「散った花びらは土へ溶け、根へ戻ります。記憶は消滅せず、年輪の内側へ積み重なる」
彼の手には、淡く光る根の欠片がある。
「どうして分かったの?」
「呼ばれたからです」
「根に?」
「はい」
ノアは迷ったあと、手袋を外した。手首の内側に、人の血管とは違う薄紅の線が走っている。指先へ行くほど枝分かれし、木の根のようだった。
「僕は千年桜の根から生まれました。人間ではなく、完全な精霊でもない」
「だから、記録を全部覚えているの?」
「忘れることが苦手です」
彼は無表情だった。忘れられないことも、忘れることと同じくらい苦しいのかもしれない。
「記憶へ入る方法は?」
「僕が道を開きます。リリア様が根へ触れれば、最も強く残る記憶が応答する」
「危険は?」
「戻れなくなる可能性があります」
「他には?」
「過去と現在の区別を失う。別人の感情に呑まれる。身体の散花が進む」
春人が口を挟む。
「危険しかないじゃないか」
彼は十歩離れた階段に立っている。
「だから準備をするわ」
私は砂時計を卓へ置いた。記憶へ入るのは砂が半分落ちるまで。脈が一定値を超えればノアが接続を切る。
春人とアルヴィンは身体を見守るが、直接触れない。
「戻らなかったら?」
春人が尋ねる。
「記憶帳を読んで。そこに戻る理由を書いておく」
「俺が呼んでもいい?」
「十歩先からなら」
「聞こえないかもしれない」
「大声は得意でしょう」
春人は笑わなかった。
「必ず戻って」
「努力はするわ。国のためではなく、私のために」
春人は記憶帳を受け取り、最初の頁を開いた。
「呼び戻す時、何て言えばいい?」
「私の名前」
「それだけで足りる?」
考えて、三つ選んだ。
「蜂蜜は三匙だと甘すぎる。アルヴィンは叱る前に右の眉を上げる。私は裸足で庭を歩くのが好き」
春人は一度ずつ復唱した。
「最後のは、王宮中に聞こえるくらい叫んでもいい?」
「戻ったあと、あなたを西塔へ入れるわよ」
「じゃあ小声にする」
彼は手帳の『忘れたくない人』という頁で指を止めた。見せなかったはずの一行を読まれたと気づき、頬が熱くなる。
「これは言っても?」
「駄目」
「一番効きそうなのに」
「絶対に駄目」
春人は頁を閉じ、胸元で大切そうに持った。
「分かった。リリアが選んだ言葉で呼ぶ」
私は頷き、根へ向き直った。
◇
根へ触れた瞬間、世界が薄紅に染まった。足元も空もない。無数の声が、花びらのように私の周りを流れていく。
寒い。死にたくない。お腹が空いた。
あの人にもう一度会いたい。姫になんてなりたくなかった。歴代精霊姫たちの声だった。
清らかな祈りだけではない。怒り、嫉妬、眠気、甘い菓子への未練。儀式の朝に靴紐が切れて腹を立てた人もいる。
弟へ謝りたかった人。婚約者の鼻歌だけは最後まで忘れなかった人。春の宴で一度も食べられなかった苺菓子を惜しんだ人。
名前も年代も違うのに、どの声にも生活があった。皆、ただの少女だった。声に呑まれそうになり、私は記憶帳を胸へ押し当てる。
――私はリリア・セレフィリア。
自分で書いた最初の一行を思い出す。
「リリア」
誰かが私の名を呼んだ。振り向くと、花びらの中に一人の女性が立っている。淡い金髪。
細い肩。私と同じ灰桜色の瞳。母、エレノア。
「大きくなったわね」
言われた途端、腹が立った。
「それだけ?」
母が目を丸くする。
「もっと、こう……抱きしめるとか、泣くとか、ないの?」
「ごめんなさい。記憶だから、抱きしめ方がよく分からないの」
母は困ったように笑った。聖母のような笑顔ではない。少し気まずくなると、右の眉が下がる。
「私、あなたみたいにはなりたくなかった」
ずっと胸にあった言葉が出た。
「国のために力を使い、娘を残して死ぬ人になりたくなかった。皆があなたを優しい人だったと言うたび、腹が立った」
「そう」
母は怒らない。
「私も、私みたいになりたくなかったわ」
「どういう意味?」
「怖かった。毎晩逃げることを考えた。あなたを抱いて南門まで行ったこともあるのよ」
初めて聞く話だった。
「なぜ逃げなかったの?」
「門番に見つかったから。勇気を出して戻ったのではないわ」
母は肩をすくめる。
「儀式の前は、姉さまへ当たり散らした。あなたが泣いても耳を塞いだ夜があった。私は清らかな精霊姫ではなく、怖がりで、怒りっぽい母親だった」
母の像が少し揺らぐ。
「それでも、あなたを置いて死んだことを最後まで悔やんだ」
胸が苦しい。責めたかった。許したかった。
どちらも間に合わない。
「私も逃げたい」
「逃げなさいとは言わないわ。あなたには、あなたが選ぶものがあるでしょう」
母は私の記憶帳へ視線を落とす。
「でも、私と同じになる必要はない」
「私が逃げたら、国が」
「親の悲劇を、子どもが受け継ぐ必要なんてないもの」
その言葉に、涙が出た。
「逆咲きの別の方法を知っている?」
母の表情が変わる。
「私が試した時、最後まで届かなかった方法がある」
周囲の花びらが集まり、一つの術式を形作る。逆咲きは、命を押し戻すための錨を必要とする。一人の術者だけを錨にする必要はない。
千年桜に蓄えられた歴代精霊姫の記憶を解放し、それぞれを小さな錨として国中の土へ分ければ、春の力も分散できる。
「春人を根にしなくていいの?」
「彼は中心への門を開く鍵になる。でも、根になる必要はない」
「成功すれば、私は?」
「精霊姫ではなくなる。春は一人の命から生まれず、土と水と、人々が育てるものになる」
王国は、二度と私一人へ頼れない。来年の春を自分たちで作らなければならない。簡単ではない。
けれど、それこそ必要な変化だ。
「いつ、儀式を?」
「春の終わり。最後の花びらが散る日に、千年桜の中心へ入りなさい」
「中心はどこ?」
母は答えなかった。像が花びらへ崩れ始める。
「待って。もっと話したい」
「私もよ。でも私は、あなたの中に残った記憶でしかない」
母の指が、触れないまま私の頬の前で止まる。
「生きて、リリア」
世界が白く弾けた。
◇
目を開けると、図書館の床に倒れていた。春人が十歩先で、私の名を呼び続けている。
「戻ったわ」
声を出すと、彼は顔を覆った。ノアが私の脈を確認する。
「何を見ました?」
私は母の術式を、忘れる前に記憶帳へ書き始めた。
「春の終わりに、千年桜の中心へ入る。歴代精霊姫の記憶を解放して、春を国中へ分けるの」
「中心への門は、最後の散花日にだけ開きます」
ノアが答える。窓の外では、枝の半分以上がもう葉へ変わっていた。残された時間は、あと七日だった。
あとがき
母の記憶から、一人を犠牲にせず春の力を分散する逆咲きの別案が見つかりました。皆さまは、聖女ではなかった母エレノアをどう感じましたか?




