第24話 私は春に咲き、あなたを忘れていく
目を開けると、赤い布を腕に巻いた、知らない青年の手を握っていた。彼は泣きそうな顔をしながら、それでも笑っている。
「あなたは?」
私が尋ねると、青年は一度だけ目を閉じた。答える代わりに、絡めていた指をゆっくり解く。
「ごめん。今は休んで」
彼は約束を守る人の顔で、十歩離れた。なぜ約束だと思ったのかは分からない。確かなのは、胸の痛みが消えていたことだけだ。
千年桜の内側を埋めていた薄紅の光は、幾千もの細い流れに分かれていた。光は王都の石畳へ、融雪の川へ、遠い畑へ潜っていく。一本の木と一人の少女に集められていた春が、土の中へ返っていく。
私は自分の胸へ手を当てた。花びらは出なかった。息を吸っても、命を削る甘い香りはしない。
「成功です」
ノアが言った。いつもと同じ無表情なのに、声だけがひどく掠れている。
「千年桜は春の所有者ではなく、最初の分岐点になりました。今後は各地の土と水が少しずつ力を受け渡します。もう精霊姫は必要ありません」
必要ありません。その言葉は、これまで与えられたどんな祝福より温かかった。
「私は、普通になったの?」
「普通の定義は理解不能ですが、少なくとも祭具ではありません」
「そこは、はい、と言えばいいのよ」
ノアは小さく息を吐いた。
「はい。リリアは生きます」
ミナが私へ抱きついた。侍女が姫にしてよい振る舞いではない。だから私も、姫が侍女にしてよい以上の力で抱き返した。
◇
奇跡の後始末は、奇跡ほど美しくなかった。春の力が分かれたからといって、翌朝すべての畑に麦が実ったわけではない。凍った水路を掘り直し、種を数え、食糧庫の鍵を二つに増やした。
王都と村と帝国の代表が一つずつ持ち、誰か一人では開けられないようにした。最初の週、東の村だけ芽が出なかった。村人の一人が、やはり精霊姫に祈ってもらうべきだと言った。
私も一瞬、胸の奥に残った力を探そうとした。けれど何もなかった。怖いほど空っぽで、同時に嬉しいほど、ただの体だった。
ノアが土を調べ、アルヴィンが上流を歩いた。原因は古い水門に詰まった氷と泥だった。三日かけて皆で掘り出すと、四日目の朝に小さな芽が出た。
誰も死ななかった。祈りより時間がかかり、爪の間には泥が残った。それでも私は、その不格好な芽を千年桜より美しいと思った。
歴代精霊姫の記録は公開された。母の名も、儀式で亡くなった少女たちの名も、「桜に還った」という美しい嘘から取り戻された。オルフェリア王妃は退位した。
彼女が作った配給路まで壊せば、最初に飢えるのは権力者ではなく子どもたちだ。だから使える制度は残し、命を燃料にする法と、王家だけが春を管理する権利を廃した。叔母は公開評議会で、自ら署名した儀式命令を一つずつ読み上げた。
許しを求める言葉はなかった。私も許すとは言わなかった。ただ最後に、彼女は冠を机へ置いて言った。
「次の春を、恐怖で選ばせてはならない」
それは謝罪ではない。けれど、逃げずに責任を引き受ける最初の一歩ではあった。カイルは婚約証書を私の前で破った。
「振られた記録まで公開されるとは、皇子も楽ではない」
「あなたが自分で署名したのでしょう」
「国を背負う男は、時々ひどく愚かになる」
彼は春の力を宿した種と、水路の設計図を持って帝国へ帰った。代わりに北方の穀物を共同備蓄へ送る。どちらかが恵むのではなく、どちらかが奪うのでもない。
約束を破れば記録に残り、次の評議会で責められる。たぶん世界を救うのは、立派な宣言より、そのくらい面倒な仕組みなのだ。アルヴィンは騎士団長を辞めた。
傷が治ると、春の通り道を調べる巡回隊の先頭に立った。任務ではないと言い張るくせに、報告書は以前より細かい。
「もう私の護衛ではないのよ」
「承知しています」
「では、後ろを三歩ついてくるのをやめて」
「偶然、進行方向が同じです」
正しさにしがみつく代わりに、今度は仕事へしがみついているらしい。回復には時間がかかる。それでも彼は、自分で選んだ道を歩いている。
ノアは公開記録院の初代管理人になった。年齢を理由に反対されると、百年以上生きた根の記憶を並べて全員を黙らせた。子どもなのか老人なのか、本人にもまだ決められないらしい。
そしてミナは、私の侍女を辞めた。
「これから何とお呼びすれば?」
「リリア」
「勤務中は無理です」
「もう勤務ではないでしょう」
「では、リリア」
呼び捨てにした本人が真っ赤になり、私は笑った。私たちは主従ではなくなった。だから意見が違えば喧嘩をし、翌日に謝り、時々は謝らないまま一緒に食事をした。
◇
儀式から三か月後、私は公開記録院の手伝いを始めた。王女という肩書は残ったが、冠は戸棚にしまった。精霊姫ではない私に豪華な部屋は不要だと言ったら、財務官が感動して泣いた。
そこで空いた部屋を記録庫にすると告げたら、今度は別の意味で泣いた。私の記憶は、儀式より前ほど欠けなくなった。ただ、一人分だけ、きれいに抜け落ちている。
記憶帳には名前を失った頁があり、その次に、私の字でこう残されていた。この人を選べとは書かない。ただ、彼が名乗ったら、一度だけ話を聞いてほしい。
それから、自分で決めて。彼が誰なのか、私は知らない。赤い布の青年は、儀式の翌週に王都を離れたと聞いた。
春の種を運ぶ一行へ加わり、各地の変化を記録しているらしい。帰還門も探し続けているという。胸の奥が少し寂しくなったが、知らない人の不在を惜しむのは妙なので、仕事へ戻った。
◇
王都の市場には、雪解け水の匂いが満ちていた。春はもう、千年桜から一斉に命じられる季節ではない。日当たりのよい軒下から芽吹き、遅い畑には遅れて届く。
不揃いで、効率が悪くて、それでも誰の血も求めない。私は靴を脱ぎたくなるのを我慢しながら、屋台を歩いた。ミナとの待ち合わせには早い。
温かい蜂蜜ミルクを一杯買う。安い土の器から湯気が昇り、甘い匂いが鼻をくすぐった。口をつけようとした時、後ろから声がした。
「それ、熱いから気をつけて」
振り向く。赤い布を腕に巻いた青年が立っていた。知らない人だ。
なのに、その声を聞いた瞬間、胸の奥に空いていた場所へ、春の風が入り込んだ。青年は十歩ほど先で立ち止まる。近づいてよいか迷っている顔だった。
「一度だけ、名乗ってもいい?」
私は記憶帳の言葉を思い出した。けれど頷いたのは、過去の私に命じられたからではない。今の私が、この人の話を聞きたいと思ったからだ。
青年は泣きそうに笑った。
「初めまして。神谷春人です」
名前の意味など知らないのに、涙が出そうになった。私は土の器を両手で包み、答える。
「初めまして、春人」
「うん。初めまして、リリア」
私は春が嫌いだった。けれど今は少しだけ、春に似たその人の声を、好きになれる気がした。
あとがき
誰かの犠牲ではない春と、記憶に頼らずもう一度選び始める二人の結末でした。あなたなら、忘れてしまった恋にもう一度出会った時、その人の話を聞いてみたいですか?




