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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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第2話 異世界人は礼儀を知らない

千年桜が満開になった夜、私は見知らぬ男の手を握ったまま倒れた。精霊姫としての威厳に欠けるうえ、美しく気を失うこともできず、春人の肩へ額をぶつけて二人そろって雪の上に転がった。

「ちょっと、リリア!?」

すぐそばで叫ばれた私の名が、やけにはっきり聞こえた。遠くから鎧の音が迫る。ひとり先に駆けつけたアルヴィンが、剣を抜く音もした。


「姫から離れろ」

「いや、俺も離れたいんですけど、この人、手を――」

「アルヴィン」

声を絞り出すと、二人が同時に黙った。私は春人の上着をつかんでいた。離したつもりなのに、指が固まって動かない。

みっともなさをごまかすため、ゆっくり手を開いた。


「その人を傷つけないで。千年桜との関係を調べます」

「ですが」

「これは命令よ」

アルヴィンは奥歯を噛んだような顔をした。それでも剣を納め、部下たちに春人の保護を命じる。保護という言葉のわりに、春人の両脇には屈強な騎士がついた。

王宮では、腕を押さえて連れていくことを保護と呼ぶらしい。初耳だった。立ち上がろうとした私の膝が揺れる。


春人がこちらへ手を伸ばしかけたが、アルヴィンの視線を受けて止めた。

「……大丈夫?」

「大丈夫に見えるなら、あなたは目が悪いのね」

「見えないから聞いたんだけど」

妙にまともな返事だった。私は答えず、アルヴィンの腕を借りて歩き出した。背後で春人が騎士に名前を聞かれ、「神谷が名字で、春人が名前です」と何度も説明している。


満開の桜から落ちた雫が、首筋へ触れた。もう雪ではなかった。王国に、本当に春が来ていた。



翌朝、春人は王宮の審問室に座らされていた。窓の外では雪解け水が屋根から絶え間なく落ちている。昨日まで白一色だった中庭には黒い土がのぞき、冷たい空気の底に湿った草の匂いが混じり始めていた。

一晩で世界は変わる。人間の身体は、それほど便利ではない。私の胸には鈍い痛みが残り、指先は冷えていた。

ミナに頼んで頬へ薄く紅を差してもらったが、神官長には「開花の輝きが表れております」と褒められた。この人の目は、春人より悪いかもしれない。


「もう一度答えよ」

神官長が杖で床を叩いた。

「お前はどこの国から来た」

「日本です」

「そのような国は地図にない」

「俺のせいじゃないですよ」


春人は疲れた顔で答えた。借り物の白いシャツは肩が少し合っておらず、袖口から覗く手首には拘束の痕が赤く残っている。彼は、駅へ向かう途中で強い光に包まれたこと、気づけば千年桜の根元にいたことを話した。

馬を使わず走る鉄の箱。夜でも昼のように明るい街。写真という、景色を紙へ残す技術。

どれも奇妙で、嘘にしては出来が悪い。


「魔術師ではないと?」

「手品なら、コインを消すくらいはできます」

「こいんとは何だ」

「お金です。あ、今は持ってないです」

「では、消した証拠もない」

「そうなりますね」

神官長と春人は、そろって難しい顔をした。少しだけ笑いそうになり、私は口元を扇で隠した。審問を見守っていたオルフェリア王妃が、細く息を吐く。

「この者が千年桜を開花させた可能性は?」

「否定できません」


神官長の返答は早かった。

「異物との接触によって、精霊姫の力が乱れたものと考えられます。身体を調べ、魔力の流れを――」

「なにをするつもりです?」

春人の笑みが消えた。


「必要とあらば、血液と骨髄を採取する」

彼の指が、椅子の縁を強くつかむ。

「お断りします」


私が先に言った。神官長が眉を上げる。

「しかし、リリア様」

「彼が危険かどうか、まだ分かっていないのでしょう。貴重な手がかりを調べる前に壊すのは、賢いやり方ではないわ」

我ながら、優しさの欠片もない言い方だった。けれど春人は、少しだけ椅子から力を抜いた。


「では、誰がこの者を管理するのです」

王妃の問いが私へ向く。逃げ道を先回りして塞ぐところは、さすが叔母だ。

「私が監視します」


口にした途端、アルヴィンの眉間の皺が深くなった。

「姫、それは危険です」

「彼に触れて何が起きたのか、最も近くで見たのは私よ。それに、私の言葉なら通じる」

「通訳の加護は接触後も続いております。姫である必要はありません」

神官長は本当に余計なことを言う。私は扇を閉じた。


「ならば私が引き受ける理由は、私が知りたいから。それでは足りませんか?」

王妃と視線がぶつかる。昨夜、春人に触れた時、胸の空洞へ熱が戻った。命を奪われる痛みと同時に、確かに何かが流れ込んだのだ。

それを他人の報告だけで済ませたくなかった。


「三日です」

王妃が告げる。

「三日間、東客棟に置きなさい。リリア、お前が監督し、言動を記録すること。異常があれば即座に拘束します」

「承知しました」

「ちょっと待ってください」


春人がおそるおそる手を上げた。

「俺の意見は?」

「安心なさい。王宮では身分の低い者の意見ほど、よく後回しになるの」

「安心できる要素が一つもないな」

また笑いそうになった。



東客棟へ移された春人には、王宮での最低限の作法が教え込まれた。教官役の老侍従は、背筋が定規のようにまっすぐな人だった。

「精霊姫様には、必ず『姫様』と敬称をつけること」

「精霊姫様に姫様って、姫が重なってません?」

「口答えをしない」

「はい」

「返事は『承知いたしました』」

「……承知いたしました」

春人は見る間に弱っていった。昨夜、雪の中に倒れていた時よりつらそうなのは、気の毒というより少し面白い。やがて私の前で挨拶を実演することになった。


春人はぎこちなく片膝をつく。

「お初にお目にかかります、精霊姫様。神谷春人と申します」

「昨夜、もう会ったでしょう」

「そういうところは見逃してください」

老侍従が咳払いをする。春人は観念したように頭を下げた。けれど立ち上がる時、私の顔を見て動きを止める。


「リリア、顔色悪くない?」

部屋の空気が凍った。老侍従は口を開けたまま固まり、アルヴィンの手は剣の柄へ伸びる。私は腹を立てるべきだった。

けれど胸の奥で、ほんの小さな音がした。昨夜と同じように、姫でも精霊姫でもない私の名が呼ばれた。


「……異世界では、王族を呼び捨てにするの?」

「しません。たぶん」

「では、あなた個人の礼儀の問題ね」

「すみません。でも、本当に白い」

春人が近づいてくる。

「止まれ」


アルヴィンが間へ入った。

「大げさよ。少し疲れただけ――」

言い終える前に、一度、二度と咳が出た。


口元を押さえた白い手袋に、赤い染みが広がる。老侍従が素早く扉を閉めた。神官長は私の手を取り、春人から隠すように身体を寄せる。

「儀式後には、よくある反応です」

「これが?」

春人の声から、冗談が消えた。


「精霊姫様の尊いお役目には必要な負担だ」

「必要って、誰にとってですか」

神官長が顔をしかめる。春人はアルヴィンの肩越しに、私を見た。手袋の血も、震える膝も、見ないふりをしてくれなかった。

「この人、倒れそうじゃないですか。奇跡だなんだって喜ぶ前に、休ませるのが先でしょう」

「口を慎め、異邦人」


アルヴィンが低く警告する。

「慎んでる場合ですか」

春人は怖がっていた。剣へ伸びた手を見て、喉が動いた。それでも笑ってごまかさず、退かなかった。


私の身体を、役目より先に見た。たったそれだけのことが、どうしてこんなに苦しいのだろう。

「神谷春人」

王妃の冷えた声が、開いた扉の向こうから響いた。いつから見ていたのか、叔母は護衛を従えて立っていた。


「王宮の秩序を乱し、精霊姫へ不当に接近した。監視下に置くには危険が大きすぎます」

春人の腕を、騎士たちが左右からつかむ。

「待って。彼はただ――」

「西塔へ。許可があるまで誰にも会わせてはなりません」


私の言葉は、王妃の命令に切り捨てられた。連れていかれる直前、春人が振り返る。怖いはずなのに、彼が確かめたのは自分の行き先ではなかった。

「リリア、本当に大丈夫?」

扉が閉まり、その声だけが部屋に残った。


あとがき


礼儀知らずな春人が、王宮で誰も言えなかったことを口にした回でした。自分の危険よりリリアを気にした春人を、皆さまはどう思われましたか?

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