第2話 異世界人は礼儀を知らない
千年桜が満開になった夜、私は見知らぬ男の手を握ったまま倒れた。精霊姫としての威厳に欠けるうえ、美しく気を失うこともできず、春人の肩へ額をぶつけて二人そろって雪の上に転がった。
「ちょっと、リリア!?」
すぐそばで叫ばれた私の名が、やけにはっきり聞こえた。遠くから鎧の音が迫る。ひとり先に駆けつけたアルヴィンが、剣を抜く音もした。
「姫から離れろ」
「いや、俺も離れたいんですけど、この人、手を――」
「アルヴィン」
声を絞り出すと、二人が同時に黙った。私は春人の上着をつかんでいた。離したつもりなのに、指が固まって動かない。
みっともなさをごまかすため、ゆっくり手を開いた。
「その人を傷つけないで。千年桜との関係を調べます」
「ですが」
「これは命令よ」
アルヴィンは奥歯を噛んだような顔をした。それでも剣を納め、部下たちに春人の保護を命じる。保護という言葉のわりに、春人の両脇には屈強な騎士がついた。
王宮では、腕を押さえて連れていくことを保護と呼ぶらしい。初耳だった。立ち上がろうとした私の膝が揺れる。
春人がこちらへ手を伸ばしかけたが、アルヴィンの視線を受けて止めた。
「……大丈夫?」
「大丈夫に見えるなら、あなたは目が悪いのね」
「見えないから聞いたんだけど」
妙にまともな返事だった。私は答えず、アルヴィンの腕を借りて歩き出した。背後で春人が騎士に名前を聞かれ、「神谷が名字で、春人が名前です」と何度も説明している。
満開の桜から落ちた雫が、首筋へ触れた。もう雪ではなかった。王国に、本当に春が来ていた。
◇
翌朝、春人は王宮の審問室に座らされていた。窓の外では雪解け水が屋根から絶え間なく落ちている。昨日まで白一色だった中庭には黒い土がのぞき、冷たい空気の底に湿った草の匂いが混じり始めていた。
一晩で世界は変わる。人間の身体は、それほど便利ではない。私の胸には鈍い痛みが残り、指先は冷えていた。
ミナに頼んで頬へ薄く紅を差してもらったが、神官長には「開花の輝きが表れております」と褒められた。この人の目は、春人より悪いかもしれない。
「もう一度答えよ」
神官長が杖で床を叩いた。
「お前はどこの国から来た」
「日本です」
「そのような国は地図にない」
「俺のせいじゃないですよ」
春人は疲れた顔で答えた。借り物の白いシャツは肩が少し合っておらず、袖口から覗く手首には拘束の痕が赤く残っている。彼は、駅へ向かう途中で強い光に包まれたこと、気づけば千年桜の根元にいたことを話した。
馬を使わず走る鉄の箱。夜でも昼のように明るい街。写真という、景色を紙へ残す技術。
どれも奇妙で、嘘にしては出来が悪い。
「魔術師ではないと?」
「手品なら、コインを消すくらいはできます」
「こいんとは何だ」
「お金です。あ、今は持ってないです」
「では、消した証拠もない」
「そうなりますね」
神官長と春人は、そろって難しい顔をした。少しだけ笑いそうになり、私は口元を扇で隠した。審問を見守っていたオルフェリア王妃が、細く息を吐く。
「この者が千年桜を開花させた可能性は?」
「否定できません」
神官長の返答は早かった。
「異物との接触によって、精霊姫の力が乱れたものと考えられます。身体を調べ、魔力の流れを――」
「なにをするつもりです?」
春人の笑みが消えた。
「必要とあらば、血液と骨髄を採取する」
彼の指が、椅子の縁を強くつかむ。
「お断りします」
私が先に言った。神官長が眉を上げる。
「しかし、リリア様」
「彼が危険かどうか、まだ分かっていないのでしょう。貴重な手がかりを調べる前に壊すのは、賢いやり方ではないわ」
我ながら、優しさの欠片もない言い方だった。けれど春人は、少しだけ椅子から力を抜いた。
「では、誰がこの者を管理するのです」
王妃の問いが私へ向く。逃げ道を先回りして塞ぐところは、さすが叔母だ。
「私が監視します」
口にした途端、アルヴィンの眉間の皺が深くなった。
「姫、それは危険です」
「彼に触れて何が起きたのか、最も近くで見たのは私よ。それに、私の言葉なら通じる」
「通訳の加護は接触後も続いております。姫である必要はありません」
神官長は本当に余計なことを言う。私は扇を閉じた。
「ならば私が引き受ける理由は、私が知りたいから。それでは足りませんか?」
王妃と視線がぶつかる。昨夜、春人に触れた時、胸の空洞へ熱が戻った。命を奪われる痛みと同時に、確かに何かが流れ込んだのだ。
それを他人の報告だけで済ませたくなかった。
「三日です」
王妃が告げる。
「三日間、東客棟に置きなさい。リリア、お前が監督し、言動を記録すること。異常があれば即座に拘束します」
「承知しました」
「ちょっと待ってください」
春人がおそるおそる手を上げた。
「俺の意見は?」
「安心なさい。王宮では身分の低い者の意見ほど、よく後回しになるの」
「安心できる要素が一つもないな」
また笑いそうになった。
◇
東客棟へ移された春人には、王宮での最低限の作法が教え込まれた。教官役の老侍従は、背筋が定規のようにまっすぐな人だった。
「精霊姫様には、必ず『姫様』と敬称をつけること」
「精霊姫様に姫様って、姫が重なってません?」
「口答えをしない」
「はい」
「返事は『承知いたしました』」
「……承知いたしました」
春人は見る間に弱っていった。昨夜、雪の中に倒れていた時よりつらそうなのは、気の毒というより少し面白い。やがて私の前で挨拶を実演することになった。
春人はぎこちなく片膝をつく。
「お初にお目にかかります、精霊姫様。神谷春人と申します」
「昨夜、もう会ったでしょう」
「そういうところは見逃してください」
老侍従が咳払いをする。春人は観念したように頭を下げた。けれど立ち上がる時、私の顔を見て動きを止める。
「リリア、顔色悪くない?」
部屋の空気が凍った。老侍従は口を開けたまま固まり、アルヴィンの手は剣の柄へ伸びる。私は腹を立てるべきだった。
けれど胸の奥で、ほんの小さな音がした。昨夜と同じように、姫でも精霊姫でもない私の名が呼ばれた。
「……異世界では、王族を呼び捨てにするの?」
「しません。たぶん」
「では、あなた個人の礼儀の問題ね」
「すみません。でも、本当に白い」
春人が近づいてくる。
「止まれ」
アルヴィンが間へ入った。
「大げさよ。少し疲れただけ――」
言い終える前に、一度、二度と咳が出た。
口元を押さえた白い手袋に、赤い染みが広がる。老侍従が素早く扉を閉めた。神官長は私の手を取り、春人から隠すように身体を寄せる。
「儀式後には、よくある反応です」
「これが?」
春人の声から、冗談が消えた。
「精霊姫様の尊いお役目には必要な負担だ」
「必要って、誰にとってですか」
神官長が顔をしかめる。春人はアルヴィンの肩越しに、私を見た。手袋の血も、震える膝も、見ないふりをしてくれなかった。
「この人、倒れそうじゃないですか。奇跡だなんだって喜ぶ前に、休ませるのが先でしょう」
「口を慎め、異邦人」
アルヴィンが低く警告する。
「慎んでる場合ですか」
春人は怖がっていた。剣へ伸びた手を見て、喉が動いた。それでも笑ってごまかさず、退かなかった。
私の身体を、役目より先に見た。たったそれだけのことが、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「神谷春人」
王妃の冷えた声が、開いた扉の向こうから響いた。いつから見ていたのか、叔母は護衛を従えて立っていた。
「王宮の秩序を乱し、精霊姫へ不当に接近した。監視下に置くには危険が大きすぎます」
春人の腕を、騎士たちが左右からつかむ。
「待って。彼はただ――」
「西塔へ。許可があるまで誰にも会わせてはなりません」
私の言葉は、王妃の命令に切り捨てられた。連れていかれる直前、春人が振り返る。怖いはずなのに、彼が確かめたのは自分の行き先ではなかった。
「リリア、本当に大丈夫?」
扉が閉まり、その声だけが部屋に残った。
あとがき
礼儀知らずな春人が、王宮で誰も言えなかったことを口にした回でした。自分の危険よりリリアを気にした春人を、皆さまはどう思われましたか?




