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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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第1話 私は春が嫌いだった

春を待ちわびる声ほど、私には残酷なものはない。

「精霊姫様に祝福を!」

白い息を弾ませ、人々が王宮前の広場で叫んでいる。窓硝子一枚隔てたこちらまで、その声はよく届いた。誰も彼も笑っていた。


雪しか知らない子どもたちは、石畳の隙間に芽吹くはずの草を見ようと、まだ凍った地面へ頬がつきそうなほど身を屈めている。セレフィリアにも暦の上の季節はある。けれど借り春の術で温室だけは保てても、国じゅうの土を目覚めさせる本当の春は百年来なかった。

その姿を愛しいと思う一方で、同じくらい腹立たしくもあった。彼らが待っている春は、私の命で咲く。

「リリア様、窓辺は冷えます。こちらへ」


侍女のミナが、薄紅色のヴェールを抱えて立っていた。十八歳の彼女は、私よりひとつ年上というだけで、時々ひどく姉らしい顔をする。

「今さら冷えを気にしても仕方ないでしょう。これから春になるのよ」

「春になる前に風邪をひいたら、神官長様が私のせいにします」

「それは困るわね。あの方のお説教は、春より長いもの」

ミナが吹き出しかけ、慌てて口を結んだ。ほんの少し、胸が軽くなる。私は窓から離れ、鏡台の前に座った。


ヴェールを留める銀の針が髪を引っ張る。続いて頭へ載せられた儀式の冠は、小ぶりな氷塊ほども重かった。鏡の中には、清らかで従順そうな姫がいる。

よくできた偽物だ。今すぐ冠を窓から投げ捨てたい女には、少しも見えない。

「痛くありませんか?」

「冠が?」

「……全部です」


ミナの指が、髪に触れたまま止まった。答えを探しているうちに祈りの鐘が一つ、二つと鳴り、冷たい空気を押し潰すように王都へ広がっていく。嫌いな音だ。

これを聞くたび、皆が私のためではなく、私から生まれるもののために祈っていると分かる。私は立ち上がった。


「行きましょう。待たせれば、春が機嫌を損ねたと思われるわ」

「リリア様は、機嫌を損ねてもいいんですよ」

小さな声だった。聞こえなかったふりをして、私は微笑んだ。本当にそうしてしまったら、きっとミナまで困らせる。

そう考えてしまう程度には、私は臆病だった。



千年桜は、王宮の中庭にそびえている。葉も花もない黒い枝が、曇天を引っかくように伸びていた。幹は大人が十人で囲んでも腕が届かず、根元の雪だけは、どれほど吹雪いても薄くしか積もらない。

祭壇を囲む神官たちの白衣が風にはためく。その向こうには王族と貴族、さらに鉄柵の外には選ばれた王都の民がいた。叔母であるオルフェリア王妃は、祭壇の正面に立っていた。

「リリア」


呼ばれて、私は叔母の前へ進む。

「民は百年、この日を待ちました」

「存じております」

「あなたの慈愛が、セレフィリアを救うのです」

慈愛とは便利な言葉で、逃げ道を塞ぐ時に使えば、鎖まで美しく見える。


けれど王妃の目の下にも、眠れない夜の影があった。昨冬だけで南部の村を三つ失ったと聞いている。彼女が何も感じていないわけではない。

ただ、感じた上で私を祭壇へ立たせる人なのだ。そのほうが、いっそ憎みにくい。

「手を」


神官長に促され、私は千年桜の幹へ右手を置いた。氷より冷たい樹皮に触れると、王国の繁栄と雪解け、実り、命の巡りを願う祈りが始まった。

そこに私の命は含まれていないらしい。胸の奥で、細い糸が引かれた。


次の瞬間、灼けた針を心臓へ刺されたような痛みが走る。息を吸えず、膝が折れそうになった。それでも幹から手は離さなかった。

離せば、後ろにいる子どもたちの春が来ない。そんな立派な理由と、ここで倒れるのは悔しいという意地が、半分ずつだった。黒い枝の先で、小さなつぼみが膨らんだ。

薄紅色の先端が固い殻を押し開き、一輪だけ咲いた。たったそれだけで、広場が揺れた。


「奇跡だ!」

歓声が上がり、誰かが泣いた。鐘が一斉に鳴らされる。雪雲の切れ間から射した淡い光が、一輪の花を照らした。

その美しさに、私まで見惚れてしまった。同時に、胸のどこかがぽっかりと欠けた。これが最初の一輪。


私が死ぬまでの、最初の一輪だ。

「リリア様」

よろめいた私の肘を、騎士団長のアルヴィンが支えた。


「お手を離してください。儀式は成立しました」

神官長が眉をひそめる。

「しかし、開花はまだ一輪です」

「姫の脈が乱れている」


低く言い切ったアルヴィンに、神官長は黙った。私は幹から手を離し、自分の足で立ち直る。

「大丈夫よ。皆が見ています」

「だからこそです」

アルヴィンはそれ以上支えようとしなかった。ただ、私が倒れた時に届く距離を保って一歩下がった。私は民のほうを向き、両手を広げた。


「セレフィリアに、春の祝福を」

歓声が返ってくる。私は笑った。上手に笑えたと思う。

少なくとも、口の中に広がった鉄の味には、誰も気づかなかった。



夜になっても、王宮は祝いの灯で明るかった。厨房では百年ぶりの春を祝う菓子が焼かれ、廊下には甘い蜂蜜と香辛料の匂いが漂っている。私の部屋にも豪華な夕食が運ばれたが、喉を通ったのは温めたミルクだけだった。

ミナが蜂蜜を多めに入れてくれた。体調記録には書かないでおきます、と言って。そのささやかな反逆を飲み干したあと、私は寝台へ入るふりをした。

見張りの足音が遠ざかる。窓を開け、儀式靴を脱いだ。裸足で石床へ降りると、足の裏から冷たさが刺さった。


でも、自分で選んだ痛みは嫌いではない。肩掛けだけをまとい、窓下の低い屋根へ降りる。雪を踏むたび、足跡が残った。

明朝には叱られるだろう。どうせなら神官長の説教が春より長いか、確かめてみてもいい。宴の音を避け、千年桜へ向かった。

昼に咲いた一輪は、月明かりの下で淡く光っていた。近づくにつれ、凍った土の匂いに混じって、かすかな花の香りがする。


「あなたも、一輪だけならかわいいのね」

幹へ向かって呟いた時、根元の向こうで何かが動いた。足を止めると、黒い影が倒れているのが見える。獣ではなく、人だ。

見たことのない黒い上着と細身のズボン。雪に投げ出された手には剣だこもなく、肌は冷え切っていた。黒髪の青年が、太い根に片頬を押しつけている。

侵入者なら、護衛を呼ぶべきだ。そう考えながら、私は彼のそばにしゃがんだ。

「生きていますか?」


返事はない。頬に触れる寸前で、彼の目が開いた。青年は飛び起きようとして根に後頭部をぶつけた。

鈍い音がした。

「っ、痛……え、誰?」


聞いたことのない響きだった。意味の分からない言葉が、数拍遅れて頭の中で形を結ぶ。千年桜の翻訳の加護だろうか。

彼は私を見上げ、それから周囲の雪と巨大な桜を見回した。冗談みたいに口元を曲げているのに、息は浅い。指先も震えていた。

「ここ、撮影セット……じゃないよな」

「さつえい、というものは存じません。ここはセレフィリア王国の王宮です」

「王宮」


青年は目を閉じた。

「なるほど。疲れてるんだな、俺」

「眠れば消えるとお思いなら、ご自由に。ただし朝には凍っています」

彼は片目を開けた。


「きついこと言うなあ」

「親切に申し上げたのです」

「そっか。じゃあ、ありがとう」

礼を言われるとは思わず、私は口をつぐんだ。青年は立とうとして、また膝をついた。迷った末に、私は右手を差し出す。

護衛を呼ぶより先に名前くらい聞いても、国は滅びないだろう。


「あなたは?」

彼は私の手ではなく、顔を見た。怯えているくせに、笑ってごまかそうとする目だった。

「神谷春人。えっと……あなたは?」


春人。よりにもよって、春の名を持つ人。

「リリアよ」

姫とも、精霊姫とも付けなかった。なぜそうしたのか、自分でも分からない。春人が私の手を取った。


その掌は冷たく、けれど生きている人の温度を奥に残していた。胸の欠けた場所へ、熱が流れ込む。次の瞬間、千年桜が震えた。

地鳴りに似た音とともに雪が枝から落ちる。黒かった梢という梢に薄紅の光が走り、固いつぼみが一斉にほどけていく。一輪ではない。

千、万――数えきれない花が、凍てつく夜を埋め尽くした。甘い香りと、春のぬるい風が押し寄せる。王都の鐘が、誰の手にも触れられず鳴り始めた。


そして満開の桜の下で、私の胸を、昼とは比べものにならない痛みが貫いた。


あとがき


命を削る春を恐れるリリアと、春の名を持つ青年との出会いでした。春人に触れた瞬間、千年桜が満開になったのはなぜだと思いますか?

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