第16話 助けたいのは、誰のため?
逆咲きの代償を知ってから、春人は三日間も私の前へ現れず、今度は私が避けられる側になった。文句を言える立場ではないが、図書館の席に彼の姿がないだけで落ち着かなかった。
「東客棟にもいません」
アルヴィンが報告する。
「王宮の外へ出たの?」
「門を通った記録はありません」
「では、どこに」
「旧温室かと」
知っているなら最初から言ってほしい。
「なぜそこだと思うの?」
「人目を避けたい者は、たいてい北庭へ行きます」
「経験者の言葉?」
アルヴィンは答えなかった。私は記憶帳と、焼けた逆咲きの紙片を持って北庭へ向かった。
◇
旧温室は、火晶石が壊れてから使われていない。春が来た今も、硝子の半分は霜で白く曇っていた。枯れた鉢の間に、春人は座っている。
黒い上着を着て、両手を見つめていた。
「随分と見つけにくい場所を選んだのね」
春人が顔を上げる。
「どうしてここが」
「騎士団長は、隠れる場所に詳しいの」
私は彼から十歩離れた木箱へ座った。以前決めた距離を、春人は律儀に守っている。
「聞いていたんだろ。図書館で」
「気づいていたの?」
「途中で、桜の匂いがした」
精霊姫は隠密に向かないらしい。春人は手のひらを握る。
「俺が逆咲きを使えば、リリアは助かる」
「そうね」
「死ぬわけじゃない」
「人間ではなくなるわ」
「意識は残るらしい」
彼は霜の向こうを見る。
「それが一番怖い。何百年も動けず、話せず、でも考えることだけはできるかもしれない」
冗談を言わない春人の声は、ひどく若く聞こえた。
「写真も撮れない。母親に謝れない。リリアが俺を忘れても、木の中から見てるだけ」
「怖くて当然よ」
私は自分の記憶帳へ視線を落とした。
「私も、死ぬことだけが怖いのではないわ。目を覚まして、ミナの笑い方が分からなかった。市場の頁を読んでも、そこにいる私が他人に見えた」
春人が顔を上げる。
「身体が残っていても、私が私だと思えなくなる。あなたは心だけを木に残され、私は身体だけを残して中身を失うのかもしれない」
「同じだって言うの?」
「まったく同じではない。でも、怖さを比べて、どちらかを軽くする必要はないでしょう」
春人の握った手が少し開いた。
「俺、リリアに助かってほしい。でも、自分も失いたくない」
「それでいいの」
「両方ほしいって、わがままじゃない?」
「私たちは国のために片方を諦める話ばかり聞かされてきたもの。わがままくらいでちょうどいいわ」
「でも、俺は助けるって言った」
「言葉だけで命を差し出す契約にはならないわ」
「あんなに偉そうに、王宮は間違ってるって言ったのに。代償が自分になったら、足がすくんだ」
春人は笑おうとした。うまく笑えず、口元が歪む。
「最低だよな」
「安心したわ」
「え?」
「あなたが怖がってくれて、安心した」
春人は私を見る。
「簡単に命を捨てる人を、私は好きになったんじゃないもの」
言ってから、温室が静かになった。自分の鼓動だけが大きい。花びらが散る音はしなかった。
ここから千年桜は見えない。それでも胸は少し痛んだ。
「今、好きって」
「聞き間違いよ」
「いや、はっきり」
「話の要点はそこではないわ」
春人の目から、一粒だけ涙が落ちた。笑っているのか泣いているのか、もう分からない。
「俺、使えないって言ったら、リリアはどうする?」
「別の方法を探す」
「見つからなかったら?」
「それでも、あなたを根にしない」
「リリアが死ぬかもしれない」
「だからといって、あなたがあなたでなくなればいい理由にはならないわ」
私は焼けた紙片を掲げた。
「逆咲きの記録は欠けている。術式の全容も、歴代精霊姫の記憶をどう扱うかも書かれていない。王宮が隠した部分に、別の道があるかもしれない」
「なかったら?」
「同じ質問を何度もしないで」
「答えが怖いから」
正直な言葉だった。
「なければ、その時また二人で考える。でも、一人で勝手に儀式を使うことは許さない」
「命令?」
「お願いよ」
春人は黙った。やがて、小さく頷く。
「分かった。一人では決めない」
「私も約束する。あなたへ黙って諦めない」
それがどれほど守るのが難しい約束か、二人とも知っていた。私は記憶帳から白紙を一枚外し、木箱の上へ広げた。
「では、探す場所を決めましょう」
「今から?」
「泣くだけで解決するなら、王宮はもっと早く滅びているわ」
紙の中央へ『逆咲き』と書く。一つ目。王妃の私蔵記録。
母を救おうとした叔母なら、禁書庫にない資料を持っている可能性がある。二つ目。ヴェルグ帝国の精霊術資料。
カイルは春の力を調べてきた。王宮と違う記録があるかもしれない。三つ目。
千年桜そのもの。歴代精霊姫の記憶が花へ移るなら、根にも何か残っているはずだ。春人が紙を覗き込む。
十歩の距離があるので、字はほとんど見えない。
「そこから読める?」
「無理」
「では、私が読み上げるわ」
「隣で書きたいけどな」
「今は我慢して」
春人は枯れた鉢の縁へ、自分の考えを指で書くふりをした。
「四つ目。俺が来た時のこと。千年桜がどうして俺を選んだか」
私は紙へ書き足す。
「採用します」
「ありがとうございます、姫様」
「返事だけは立派ね」
二人で作った最初の調査計画だった。
◇
温室の外では、春の雨が降り始めた。硝子屋根を叩く音が、次第に強くなる。春人は十歩先にいる。
抱きしめることも、手を取ることもできない。
「近くに行ってもいい?」
彼が尋ねる。私は首を横に振った。
「今日は、このままで」
「うん」
春人は動かなかった。その距離が悲しくて、ありがたかった。
「俺、本当はリリアを助けたいんじゃなくて、リリアがいなくなる自分を助けたいだけかもしれない」
雨音に消えそうな声だった。
「それでも、助けたい気持ちは嘘ではないでしょう」
「分からない」
「なら、分かるまで考えなさい。私も考えるわ」
「リリアは何のために自分を助けたい?」
すぐには答えられなかった。死にたくないから。忘れたくないから。
王国の道具のまま終わりたくないから。そして、春人にもう一度会いたいと思う明日が欲しいから。
「まだ、全部は分からない」
「そっか」
「でも、誰かを犠牲にして生きたいわけではない。それだけは分かる」
春人は顔を覆った。肩が震えている。私は十歩先で泣いた。
触れないまま、同じ雨音を聞いた。
◇
部屋へ戻り、記憶帳を開く。
『忘れたくない人』と書いた頁の下へ、新しい一行を加えた。
――逆咲きは春人を千年桜の根に変える。絶対に一人で使わせない。
さらに、その下へ書く。
――春人を救う方法を探す。
自分を救うためだけに始めた記録へ、初めて別の人の未来を書いた。
あとがき
リリアは春人の恐怖を否定せず、二人とも犠牲にしない方法を探すと決めました。皆さまは、春人が逆咲きを怖がったことを弱さだと思いますか?




