第15話 私の中から、あなたが消える
目を覚ますと、私は自分の侍女の笑い方を思い出せなくなっていた。ミナという名前も、十八歳であることも、故郷へ給金を送り、悲しい時ほどよく喋ることも分かる。焼き菓子を盗む時だけ足音が妙に静かになることまで、記憶帳には書いてある。
それなのに、彼女が本当に笑った時の声だけがなかった。
「リリア様」
宮廷医が私の瞼へ光を当てる。
「分かりますか?」
「眩しいということは」
「ここがどこかです」
白い壁と薬草の匂い、窓の外に見える千年桜を順に確かめた。
「王宮の療養室」
「ご自分のお名前は?」
「リリア・セレフィリア」
「本日は?」
答えようとして、日付が一日ずれていることに気づいた。私は婚約披露から丸一日眠っていたらしい。
「忘れたものを確認したいわ。記憶帳を」
「まずお休みください」
「眠っている間に、また忘れたのよ」
宮廷医は困った顔をした。王宮の人間は、都合の悪い患者へ休息を勧めるのが好きだ。
「帳面を渡さないなら、あなたの診療記録を今後すべて拒否します」
脅すと、枕元の引き出しから桃色の手帳が出てきた。表紙を撫でる。自分のものだと分かるのに、他人の日記を盗み読むような気持ちがした。
市場の頁を開く。
――春人が天幕を直し、蜂蜜ミルクを二杯もらった。
――小さな女の子から紫の花をもらった。
――ヴェルグの男に襲われ、春人が左肩を負傷。
出来事の輪郭はある。でも市場の匂いも、女の子の顔も、土杯の手触りもない。文字の中の私は楽しそうだった。
今の私には、その人が遠い。春人の頁を開く。
――神谷春人。異世界から来た、礼儀知らず。怖い時ほど笑う。写真家になりたい。帰る方法を探している。
――忘れたくない人。
胸が痛んだ。名前は覚えている。けれど、なぜ忘れたくないと思ったのかが、少しずつ文字の向こうへ遠ざかっていた。
扉の外で、食器の触れ合う音がした。入ってきたのはミナだった。盆には薄い麦粥と、蜂蜜を入れない温めたミルクがある。
「失礼します」
彼女は侍女らしい礼をした。以前なら、勝手に枕を直しながら小言を言ったはずだ。記憶帳にそう書いてある。
今は寝台から三歩離れた場所で、許可を待っている。
「そこへ置いて」
「はい」
盆を置く指が震えていた。私は彼女の顔を見る。見慣れている。
泣く前に鼻の頭が赤くなることも、右の髪だけ跳ねやすいことも知っている。
「私たちが初めて会った日を覚えている?」
ミナが息を呑む。
「お嬢様が十二歳の春です。私、緊張して髪飾りを左右逆につけました」
「あなたは泣いた?」
「いいえ。お嬢様が鏡を見て笑ったので、私も」
その光景がない。記憶帳にも、髪飾りのことは書かれていなかった。
「ごめんなさい。覚えていないわ」
ミナは笑おうとした。どんな声で笑う人だったのか、やはり思い出せない。
「私のほうこそ、ごめんなさい」
「今は、謝罪を受け取れない」
正直に言うと、彼女は頷いた。
「承知しました。お食事が冷める前に、召し上がってください」
それだけ言って出ていく。許せない相手との思い出まで失うのは、罰なのか救いなのか分からなかった。
◇
「春人に会わせて」
私が求めると、王妃付きの侍従は首を横に振った。
「陛下のご命令により、神谷殿との面会は禁止されております」
「婚約披露で倒れたのは、カイル殿下へ触れたからではないわ」
「神谷殿の名を口にされた直後でした」
「だから話して、何を失ったか確かめる必要があるの」
「命を守るほうが優先です」
私の命。誰もがそれを理由に、私から選択肢を奪う。侍従が退出したあと、扉の外で声がした。
「会わせてください」
春人だった。寝台から立ち上がり、扉へ近づく。鍵がかけられている。
「許可できない」
アルヴィンの低い声が返る。
「顔を見るだけでいい。話さなくても」
「それで花が散れば、責任を取れるのか」
沈黙。扉一枚の向こうにいるのに、十歩より遠い。
「リリアに会わせてください」
衣擦れの音がする。扉の下の隙間から、床へついた手の影が見えた。春人が頭を下げている。
「助ける方法を探すから。お願いします」
あれほど王宮の礼を嫌がった人が、ためらいなく額を床へつけている。
「私に頭を下げても、許可は出ない」
アルヴィンの声は硬い。
「では、誰に聞けばいいですか」
長い間があった。
「図書館へ行け。ノアなら、逆咲きの残りを見つけているかもしれない」
足音が遠ざかる。春人のものと、アルヴィンのもの。扉の鍵が、一度だけ小さく鳴った。
試しに取っ手を回すと、開いた。アルヴィンは、また必要な事実を選んだらしい。
◇
身体はまだ重かった。それでも外套を羽織り、記憶帳を持って療養室を出た。春人に会うためではない。
自分の命に関する説明を、扉の外だけで済ませないためだ。図書館の奥で、人の声がした。私は書棚の陰へ身を寄せる。
会えば花が散るから姿は見せないが、聞くことまでは誰にも禁じさせない。
「見つけました」
ノアの声。書棚の隙間から、卓上に広げられた黒い紙片が見える。焼けた逆咲きの記録を、別の禁書から抜き出したらしい。
春人とアルヴィンもいる。
「逆咲きとは、散った花を根へ戻す儀式です」
ノアが古い文字を指で追う。
「精霊姫から流出した命と記憶を回収し、身体へ返す。成功すれば散花は止まり、失った記憶の一部も戻る可能性があります」
「なぜ術者が必要なんだ」
春人が問う。
「千年桜は、受け取ったものを自分から返しません。外から来た命を新しい根の錨にして、流れを逆転させる必要があります」
「錨?」
「術者の身体と記憶が根へ変わり、精霊姫の命を押し戻す水路になる。儀式中に切り離せば、二人とも死にます」
アルヴィンの手が剣の柄ではなく、卓の端を握った。
「儀式後に術者を戻す方法は?」
「記録にはありません。逆咲きは一方通行です」
春人の横顔が見える。肩の傷が治っても、彼の身体そのものがなくなる。写真を撮る手も、逃げるための足も、家族へ謝る声も。
胸が速く打った。助かる。その言葉を信じかけた瞬間、ノアが続ける。
「ただし、根へ命を返すための術者が必要です」
「術者はどうなる?」
春人が尋ねる。
「千年桜の新しい根になります」
紙をめくる音がする。
「死ぬわけではありません。人としての肉体を失い、意識は桜の中へ残る。歩くことも、話すことも、元の世界へ帰ることもできません」
春人は何も言わなかった。アルヴィンが低く問う。
「誰でも術者になれるのか」
「いいえ。千年桜の外から来た命。根と接触した時に、大規模な開花を起こした者」
最初の夜を思い出す。私と春人が手をつないだ瞬間、千年桜は満開になった。
「条件に合うのは一人です」
ノアが春人を見る。
「あなたが使えば、リリア様は助かります」
書棚の陰で、私は呼吸をすることさえ忘れた。
あとがき
記憶が文字の向こうへ遠ざかる中、逆咲きが春人を代償にする儀式だと判明しました。皆さまは、この代償を知った春人に何を選んでほしいですか?




