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私は春に咲き、あなたを忘れていく  作者: 九葉(くずは)


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14/24

第14話 婚約披露の白いドレス

婚約披露の朝、結婚式でもないのに花嫁の色を着せられた私は、王宮が既成事実を作る手際に感心しそうになった。鏡の中では、私の顔だけが華やかな祝福から取り残されている。

「お苦しくありませんか?」

ミナが背中の紐を締めながら尋ねた。


「十分に」

「少し緩めます」

「違うわ。ドレスではなく、全部よ」

鏡の中で、ミナの目が潤んだ。

「泣かないで。化粧が移るでしょう」

「泣いてません」

「悲しい時ほど、あなたは嘘が下手ね」


白い絹には、千年桜を模した銀糸の刺繍が施されている。胸元には帝国の黒い狼と王国の桜を組み合わせた宝飾品。二つの国の友好を、一人の女の身体へ縫いつけたようだった。

仕立師が左脇へ指を入れ、布の余裕を確かめる。

「記録どおり、午後は左半身の震えが出やすいとのことですので、こちらを少し広くしております」


私は鏡越しに彼女を見た。

「誰の記録?」

「王妃陛下付きの書記官から、今朝――」

ミナの手が止まった。部屋の扉が叩かれる。入ってきた王妃付きの若い書記官が、革表紙の帳面をミナへ差し出した。


「昨日分の署名が抜けていました。披露前に追記を」

書記官は私を見て、顔色を変えた。遅かった。

「その帳面を見せなさい」

「リリア様、これは」

「見せて」


書記官は助けを求めるようにミナを見た。ミナは唇を噛み、帳面を私へ渡した。最初の頁から、見慣れた字が並んでいる。

起床時刻。食事量。喀血の有無。

私が口にした不満。誰と会い、何を調べ、春人の名を何度呼んだか。市場へ抜け出した日の前には、こう書かれていた。


――異邦人へ鍵を渡した可能性あり。外出を計画している様子。

「知っていたのね」

自分の声が冷たかった。

「私たちが市場へ行くことを、王宮へ報告していた」

「止められると思って、あの日だけは書きませんでした」

「では、これは?」

「前日の報告です。まさか、本当に鍵を――」

「ずっと私を見張っていたの?」


ミナの顔から血の気が引く。仕立師たちへ退出を命じた。書記官も追い出し、扉を閉める。

部屋には私とミナだけが残った。

「いつから?」

「十二歳で、お仕えし始めた時からです」

「最初から」


五年分の会話が、音を立てて崩れた。厨房から盗んだ焼き菓子。夜中の蜂蜜ミルク。

窓から逃げたこと。春人へ会いに行ったこと。姉妹のようだと思っていた時間のすべてに、王妃へ続く細い糸がついていた。

「お嬢様を売ったんじゃありません」


ミナの声が震える。

「家族を飢えさせたくなかったんです」

「私を売ったお金で?」

言ってから、彼女が傷つくのを見た。それでも言葉を戻せなかった。


「父が怪我をして働けなくなった時、王宮勤めを紹介されました。監視役を受ければ、家族五人分の配給札を出すと」

「断れば?」

「任を解かれます。配給もなくなる」

ミナは両手を握った。

「最初は全部書きました。でも、お嬢様が眠れない夜や、民を憎いと仰ったことは書かなかった。春人様へ鍵を渡した時も、外出の時間はずらして報告しました」

「だから、感謝しろと?」

「違います」


彼女は首を振った。

「許されると思っていません。ただ、家族も捨てられなかった」

胸の奥で、怒りと理解がぶつかる。私も国を捨てられない。だから死にたくないと願う自分を、毎日責めている。


ミナだけを卑怯者にすれば、きっと楽だった。でも、今はまだ許せるわけではない。

「今日は、私のそばを離れて」

「お嬢様」

「今、あなたに髪へ触れられたくないの」

ミナの手が落ちる。


「承知しました」

彼女は深く頭を下げ、部屋を出た。扉が閉まってから、私は鏡の前へ座った。髪は半分しか結われていない。

自分で編もうとして、指が震えた。卓上には、監視帳が残されていた。見たくないのに、閉じることもできない。


私は頁を戻した。春人が幽閉された翌朝。

――リリア様、朝食後は自室で休養。異常なし。

その時間、私は西塔で春人へパンを渡していた。市場へ出た日。


――午後まで自室で休養。外出の兆候なし。

明らかな嘘だった。記憶帳を初めて春人へ見せた夜には、こうある。

――異邦人との会話は体調確認のみ。機密事項への言及なし。


ミナは私を監視していた。同時に、何度も王宮へ嘘をついていた。帳面の最後には、毎月支給された配給の受領印が並ぶ。

小麦、豆、薪、薬。彼女の家族が冬を越すために必要なものだ。どちらか一つだけなら、もっと簡単に憎めた。

私は監視帳を閉じ、引き出しへ入れた。許すつもりはない。けれど捨てることも、王妃へ返すこともできなかった。


髪を編み直そうとして、途中で諦める。呼び鈴へ手を伸ばしかけたが、ミナを呼ぶことはできない。代わりの侍女が来るまで、私は半分ほどけた髪のまま、鏡の中の自分と向き合った。



婚約披露は、千年桜が見える大広間で行われた。結局、別の侍女に髪を整えてもらった。見事な仕上がりだったのに、頭がひどく重い。

カイルは黒と銀の礼装で壇上に立っている。春人は列席者の最後尾。約束どおり、私から十歩以上離れていた。

見ないようにするほど、どこにいるか分かってしまう。王妃が両国の合意を読み上げる。


「本日、セレフィリア王家とヴェルグ帝国皇室は――」

私は一歩前へ出た。

「その前に、訂正があります」


広間がざわめく。叔母の目が鋭くなったが、止められる前に続けた。

「王家は婚約交渉を受諾しました。しかし、私はまだ婚姻へ同意しておりません」

帝国の使節たちが顔を見合わせる。


「食糧支援は、カイル殿下のご厚意により交渉中も開始されます。私の命と引き換えに買われたものではありません」

今朝、帝国の食糧馬車はすでに南門を通った。私がここで拒絶しても、今日配られるパンまで消えるわけではない。その事実を、誰にも都合よく塗り替えさせたくなかった。

自分の声が、広間の端まで届く。婚約を壊せば、民が食料を失う。そんな噂が広がる前に、事実を残したかった。


カイルが私の隣へ進み出る。

「相違ない。婚約交渉は継続中だ」

王妃は何も言わなかった。笑ってもいなかった。カイルが右手を差し出す。


「形式上の挨拶だ。触れても?」

春人とは違う尋ね方だった。私は一度頷き、その手へ自分の指を重ねた。冷たい手だった。

何も起こらない。千年桜は揺れず、胸も痛まない。安堵するべきなのに、ひどく悲しかった。


視界の端で、春人が俯く。白い包帯が礼装の袖から少し見えていた。胸の奥で、何かが急に引かれる。

「春人」

名前が口からこぼれた。広間が凍りつく。カイルの手の中で、私の指から力が抜ける。


頭上の千年桜から花びらが一斉に舞い込み、白いドレスへ薄紅の染みを作った。倒れる直前、春人が十歩の距離を越えて走り出すのが見えた。


あとがき


ミナの裏切りと事情が明らかになり、リリアは公の場で自分の同意が未了だと訂正しました。皆さまは、ミナを許せますか?

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