第14話 婚約披露の白いドレス
婚約披露の朝、結婚式でもないのに花嫁の色を着せられた私は、王宮が既成事実を作る手際に感心しそうになった。鏡の中では、私の顔だけが華やかな祝福から取り残されている。
「お苦しくありませんか?」
ミナが背中の紐を締めながら尋ねた。
「十分に」
「少し緩めます」
「違うわ。ドレスではなく、全部よ」
鏡の中で、ミナの目が潤んだ。
「泣かないで。化粧が移るでしょう」
「泣いてません」
「悲しい時ほど、あなたは嘘が下手ね」
白い絹には、千年桜を模した銀糸の刺繍が施されている。胸元には帝国の黒い狼と王国の桜を組み合わせた宝飾品。二つの国の友好を、一人の女の身体へ縫いつけたようだった。
仕立師が左脇へ指を入れ、布の余裕を確かめる。
「記録どおり、午後は左半身の震えが出やすいとのことですので、こちらを少し広くしております」
私は鏡越しに彼女を見た。
「誰の記録?」
「王妃陛下付きの書記官から、今朝――」
ミナの手が止まった。部屋の扉が叩かれる。入ってきた王妃付きの若い書記官が、革表紙の帳面をミナへ差し出した。
「昨日分の署名が抜けていました。披露前に追記を」
書記官は私を見て、顔色を変えた。遅かった。
「その帳面を見せなさい」
「リリア様、これは」
「見せて」
書記官は助けを求めるようにミナを見た。ミナは唇を噛み、帳面を私へ渡した。最初の頁から、見慣れた字が並んでいる。
起床時刻。食事量。喀血の有無。
私が口にした不満。誰と会い、何を調べ、春人の名を何度呼んだか。市場へ抜け出した日の前には、こう書かれていた。
――異邦人へ鍵を渡した可能性あり。外出を計画している様子。
「知っていたのね」
自分の声が冷たかった。
「私たちが市場へ行くことを、王宮へ報告していた」
「止められると思って、あの日だけは書きませんでした」
「では、これは?」
「前日の報告です。まさか、本当に鍵を――」
「ずっと私を見張っていたの?」
ミナの顔から血の気が引く。仕立師たちへ退出を命じた。書記官も追い出し、扉を閉める。
部屋には私とミナだけが残った。
「いつから?」
「十二歳で、お仕えし始めた時からです」
「最初から」
五年分の会話が、音を立てて崩れた。厨房から盗んだ焼き菓子。夜中の蜂蜜ミルク。
窓から逃げたこと。春人へ会いに行ったこと。姉妹のようだと思っていた時間のすべてに、王妃へ続く細い糸がついていた。
「お嬢様を売ったんじゃありません」
ミナの声が震える。
「家族を飢えさせたくなかったんです」
「私を売ったお金で?」
言ってから、彼女が傷つくのを見た。それでも言葉を戻せなかった。
「父が怪我をして働けなくなった時、王宮勤めを紹介されました。監視役を受ければ、家族五人分の配給札を出すと」
「断れば?」
「任を解かれます。配給もなくなる」
ミナは両手を握った。
「最初は全部書きました。でも、お嬢様が眠れない夜や、民を憎いと仰ったことは書かなかった。春人様へ鍵を渡した時も、外出の時間はずらして報告しました」
「だから、感謝しろと?」
「違います」
彼女は首を振った。
「許されると思っていません。ただ、家族も捨てられなかった」
胸の奥で、怒りと理解がぶつかる。私も国を捨てられない。だから死にたくないと願う自分を、毎日責めている。
ミナだけを卑怯者にすれば、きっと楽だった。でも、今はまだ許せるわけではない。
「今日は、私のそばを離れて」
「お嬢様」
「今、あなたに髪へ触れられたくないの」
ミナの手が落ちる。
「承知しました」
彼女は深く頭を下げ、部屋を出た。扉が閉まってから、私は鏡の前へ座った。髪は半分しか結われていない。
自分で編もうとして、指が震えた。卓上には、監視帳が残されていた。見たくないのに、閉じることもできない。
私は頁を戻した。春人が幽閉された翌朝。
――リリア様、朝食後は自室で休養。異常なし。
その時間、私は西塔で春人へパンを渡していた。市場へ出た日。
――午後まで自室で休養。外出の兆候なし。
明らかな嘘だった。記憶帳を初めて春人へ見せた夜には、こうある。
――異邦人との会話は体調確認のみ。機密事項への言及なし。
ミナは私を監視していた。同時に、何度も王宮へ嘘をついていた。帳面の最後には、毎月支給された配給の受領印が並ぶ。
小麦、豆、薪、薬。彼女の家族が冬を越すために必要なものだ。どちらか一つだけなら、もっと簡単に憎めた。
私は監視帳を閉じ、引き出しへ入れた。許すつもりはない。けれど捨てることも、王妃へ返すこともできなかった。
髪を編み直そうとして、途中で諦める。呼び鈴へ手を伸ばしかけたが、ミナを呼ぶことはできない。代わりの侍女が来るまで、私は半分ほどけた髪のまま、鏡の中の自分と向き合った。
◇
婚約披露は、千年桜が見える大広間で行われた。結局、別の侍女に髪を整えてもらった。見事な仕上がりだったのに、頭がひどく重い。
カイルは黒と銀の礼装で壇上に立っている。春人は列席者の最後尾。約束どおり、私から十歩以上離れていた。
見ないようにするほど、どこにいるか分かってしまう。王妃が両国の合意を読み上げる。
「本日、セレフィリア王家とヴェルグ帝国皇室は――」
私は一歩前へ出た。
「その前に、訂正があります」
広間がざわめく。叔母の目が鋭くなったが、止められる前に続けた。
「王家は婚約交渉を受諾しました。しかし、私はまだ婚姻へ同意しておりません」
帝国の使節たちが顔を見合わせる。
「食糧支援は、カイル殿下のご厚意により交渉中も開始されます。私の命と引き換えに買われたものではありません」
今朝、帝国の食糧馬車はすでに南門を通った。私がここで拒絶しても、今日配られるパンまで消えるわけではない。その事実を、誰にも都合よく塗り替えさせたくなかった。
自分の声が、広間の端まで届く。婚約を壊せば、民が食料を失う。そんな噂が広がる前に、事実を残したかった。
カイルが私の隣へ進み出る。
「相違ない。婚約交渉は継続中だ」
王妃は何も言わなかった。笑ってもいなかった。カイルが右手を差し出す。
「形式上の挨拶だ。触れても?」
春人とは違う尋ね方だった。私は一度頷き、その手へ自分の指を重ねた。冷たい手だった。
何も起こらない。千年桜は揺れず、胸も痛まない。安堵するべきなのに、ひどく悲しかった。
視界の端で、春人が俯く。白い包帯が礼装の袖から少し見えていた。胸の奥で、何かが急に引かれる。
「春人」
名前が口からこぼれた。広間が凍りつく。カイルの手の中で、私の指から力が抜ける。
頭上の千年桜から花びらが一斉に舞い込み、白いドレスへ薄紅の染みを作った。倒れる直前、春人が十歩の距離を越えて走り出すのが見えた。
あとがき
ミナの裏切りと事情が明らかになり、リリアは公の場で自分の同意が未了だと訂正しました。皆さまは、ミナを許せますか?




