第6話 「上層の影」
アルシェイド商会との契約から三日。
灰色街区の仕入れ価格は確かに下がった。
酒の原価は二割減、香料は三割減、衣装は品質を保ったまま値引き。
利益率は目に見えて改善している。
「……本当に三割下がってる」
ルシアが帳簿を見ながら呟く。
「ええ。総利益はさらに一五%増える見込みです」
「あなた、恐ろしいわね」
「数字が正しいだけです」
だがカイの表情は晴れない。
「どうしたの」
「アルシェイド商会は健全でした」
「それは良いことでしょ?」
「はい。ただし――」
彼は帳簿を閉じる。
「商会の帳簿は健全でも、帝国の帳簿は違う」
その日の夕刻。
灰色街区の入口に、見慣れぬ馬車が止まった。
紋章入りの深紅の馬車。
財務局のものだ。
ルシアの部下が駆け込んでくる。
「姐さん、役所の人間です!」
カイは静かに立ち上がる。
「予定より早い」
「予定?」
「いずれ来ます」
応接室。
扉が開く。
入ってきたのは、細身の男だった。
銀縁の眼鏡、無表情。
「財務局特別監査官、ヴォルフと申します」
柔らかい声。
だが目は冷たい。
ルシアが応じる。
「灰色街区は規定通り納税しています」
「承知しております」
ヴォルフの視線がカイに向く。
「あなたが、カイ・ヴェルナー」
「はい」
「追放された簿記官が、ずいぶん活躍していると聞きました」
契約はない。
だから罪は見えない。
だが、この男は危険だ。
「灰色街区の収支が急激に改善している」
「健全化しただけです」
「徴税官ガルドの報告も、興味深い」
ヴォルフは微笑む。
「あなたは彼に“再計算”を提案したとか」
「規定通りです」
「素晴らしい」
その口調は称賛だが、視線は探っている。
「帝国は、優秀な人材を求めています」
ルシアの指がわずかに動く。
緊張。
「戻る気はありませんか、ヴェルナー」
静寂。
カイはゆっくり答える。
「私は追放された身です」
「形式上は」
ヴォルフは机に一枚の紙を置く。
復職推薦書。
「財務局に戻れば、あなたの能力は正しく使われる」
“能力”。
どこまで把握している。
カイは表情を変えない。
「灰色街区の帳簿はまだ整備途中です」
「街区より帝国を選ぶべきでは?」
「帝国は巨大です。足元が崩れれば、上も崩れる」
ヴォルフの目が細まる。
「あなたは、帝国が崩れると言いたいのですか」
「計算が合っていないと申し上げています」
沈黙。
ルシアが口を挟む。
「うちは合法的に商売しているだけです」
「ええ、現時点では」
ヴォルフは立ち上がる。
「しかし、過度な黒字は疑念を呼ぶ」
脅しだ。
「灰色街区が帝都経済の一部になれば、疑念は消えます」
カイは静かに言う。
「商会と契約済みです」
ヴォルフの視線がわずかに揺れた。
「アルシェイドと?」
「ええ」
ほんの一瞬。
男の背後に、影が揺らいだ気がした。
契約はない。
だからはっきりとは視えない。
だが――
巨大な負債。
個人ではない。
帝国全体の。
「……面白い」
ヴォルフは微笑んだ。
「では、様子を見ましょう」
扉へ向かう直前、振り返る。
「ヴェルナー。帝国は、あなたが思うほど単純ではありません」
「承知しています」
「いずれ、選択を迫られるでしょう」
扉が閉まる。
静寂。
ルシアが深く息を吐く。
「危ない男ね」
「ええ」
「戻る気は?」
「ありません」
即答。
「帝国の内部では、計算は合わせられない」
「外から壊す?」
「壊しません」
カイは静かに言う。
「貸借を取るだけです」
ルシアは苦笑する。
「あなたの“だけ”は信用できないわ」
窓の外、灰色街区はいつも通り動いている。
だが、空気は変わった。
財務局が動いた。
つまり――
自分は認識された。
駒として。
あるいは、脅威として。
カイは机に置かれた復職推薦書を見つめる。
戻れば安全かもしれない。
だが安全は、腐敗の中にある。
視界の奥で、黒い巨大な数列が揺れる。
帝国。
その負債は、個人の横領とは桁が違う。
灰色街区の黒字など、砂粒だ。
だが砂粒が積もれば、地形を変える。
カイは推薦書を折り、火にくべた。
紙が燃える。
静かな炎。
「戻らない」
その声は、決意だった。
帝国の帳簿は、いずれ開く。
だがその時、彼は中にはいない。
外から、全体を計算する。
灰色街区はその足場。
そして足場は、確実に固まりつつあった。
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