第4話 「黒字化計画」
徴税官ガルドが去ったあとも、部屋の空気はしばらく張り詰めたままだった。
机の上には、返還された金貨。
灰色街区にとっては小さくない額だ。
「……助かったのは事実よ」
ルシアが金貨を袋に戻しながら言う。
「でも、あの男は黙っていない」
「ええ」
カイは頷いた。
「だからこそ、先に準備します」
「何を」
「黒字化です」
ルシアが眉を上げる。
「さっきも言ったわね、それ」
「灰色街区が“必要悪”である限り、上は搾取をやめない。ならば、“必要不可欠”になるべきです」
「抽象的ね」
「具体的に言えば、帝都経済の一部になる」
カイは地図の前に立つ。
灰色街区から中心街へ伸びる道を指でなぞる。
「軍関係者、商会、貴族。彼らは皆、ここを利用しています」
「裏で、ね」
「裏で動く金は、表を支える」
彼は振り返る。
「それを証明できれば、あなた方は切り捨てられない」
ルシアは腕を組み、しばらく黙る。
「どうやって」
「まずは数字を整えます」
その夜、カイは黒薔薇連盟の帳簿を徹底的に洗い直した。
収入の内訳、時間帯別の客数、従業員の稼働率。
問題は三つ。
一、価格設定が固定で柔軟性がない。
二、従業員の配置が非効率。
三、情報が活かされていない。
「情報?」
ルシアが問い返す。
「兵士や商人は、会話の中で多くを漏らします。戦況、物価、貴族の動向」
「盗み聞きしろと?」
「整理してください」
カイは真剣な目で言う。
「あなた方は帝都最大の“非公式情報網”になれる」
ルシアは一瞬だけ言葉を失った。
「……娼館を諜報機関にする気?」
「結果的に」
彼女はくく、と笑う。
「狂ってるわね」
「合理的です」
翌日から、黒薔薇連盟は動き出した。
兵士向けの短時間プラン導入。
中旬キャンペーン。
従業員のシフト再編。
そして、会話記録の簡易報告制度。
最初は戸惑いもあったが、数字は正直だった。
三日で客数が一割増。
一週間で売上が二割増。
「……本当に増えてる」
帳簿を見つめるルシアの声に、僅かな驚きが混じる。
「価格を下げたのに」
「回転率です」
カイは淡々と答える。
「単価より総量」
「あなた、感情ないの?」
「あります」
「どこに」
「帳簿の中に」
ルシアは呆れたように息を吐いた。
「変な男」
だがその目は、以前より柔らかい。
灰色街区の空気も変わり始めていた。
白百合との抗争は止まり、合同キャンペーンが始まる。
従業員同士の交流も増え、無駄な摩擦が減った。
黒字化。
それは、確実に進んでいる。
だが――
夜。
カイは一人、帳簿を見つめていた。
数字は整っている。
美しい。
だが視界の端に、別の数列がちらつく。
黒い、巨大な塊。
帝都中心部。
財務局。
そして――
ハイゼン議員。
契約はない。
だからはっきりとは見えない。
だが確信はある。
自分を追放した構造は、まだ生きている。
そのとき、軽いノックの音。
「入っていい?」
ルシアだった。
「どうぞ」
彼女は机に腰をかけ、カイを見下ろす。
「街区、うまく回ってる」
「一時的です」
「あなた、本当に帝国をどうにかするつもり?」
カイはペンを置いた。
「どうにかする、ではありません」
「?」
「計算を合わせるだけです」
「それで帝国が変わると?」
「変わらなければ、破綻します」
静かな沈黙。
ルシアがゆっくりと問いかける。
「あなたは、何を望んでるの」
カイは答えない。
代わりに問い返す。
「あなたは」
「私は……」
彼女は一瞬言葉を探し、そして言った。
「この街区を守りたいだけ」
「なら、利害は一致しています」
ルシアは小さく笑った。
「冷たいわね」
「合理的です」
彼女は机から降り、扉に向かう。
「でもね」
振り返る。
「あなたの目、少しずつ暗くなってる」
「……」
「罪を見るの、楽しい?」
その言葉に、カイは一瞬だけ視線を逸らした。
楽しくはない。
だが、必要だ。
「必要です」
それだけ答える。
ルシアは何も言わず、部屋を出ていった。
静寂。
カイは再び帳簿に目を落とす。
黒字化は進んでいる。
灰色街区は、帝都経済の一部になりつつある。
だが同時に、別の計算も進んでいる。
徴税官ガルドは沈黙しているが、彼の背後には誰かがいる。
そして、そのさらに上。
カイは小さく呟いた。
「次は、商会か」
灰色街区を完全に安定させるには、物資の流れを押さえる必要がある。
酒、香料、衣装。
すべて商会を通る。
そこに切り込めば、より大きな金が動く。
視界の端で、黒い数列がわずかに震えた。
帝都は、まだ健在だ。
腐ったままで。
カイは帳簿を閉じる。
黒字は、武器になる。
そして武器は、いずれ向ける。
帝国そのものへ。




