第3話 「灰色街区の貸借」
灰色街区の中心にある黒薔薇連盟の建物は、外から見るとただの古びた石造りの宿にしか見えない。
だが中に入れば、空気が違う。
香の匂いと酒の匂いが混ざり、笑い声と囁き声が交錯する。階段を上がる兵士、廊下を歩く商人、帳場で金を数える女。
金は、ここでは生き物だ。
「こっちよ」
ルシアが奥の部屋へと案内する。
扉を閉めると、喧騒が遠ざかった。
机と椅子、簡素な棚。壁にはこの街区の地図が貼られている。黒薔薇、白百合、そしてその他の小さな印。
「さて、簿記官」
ルシアが椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「帳簿を見せろって言ったわね」
「はい」
「どうして?」
試すような目。
カイは視線を逸らさない。
「あなた方は儲かっているようで、儲かっていない」
「随分な言い草ね」
「先ほどの抗争が証拠です。資金に余裕があれば、三割で揉めません」
ルシアは数秒黙り、やがて棚から分厚い帳簿を取り出した。
「いいわ。見なさい。ただし、外に漏らしたら殺す」
「合理的な判断です」
机に広げられた帳簿。
収入、支出、従業員給与、上納金。
カイは頁を繰る。
数字が流れ込んでくる。
やはりだ。
客数は減少傾向。軍関係者は増えているが、一般客は減っている。理由は単純。帝都中心部に新しい娼館ができた。
「帝都中心部に客を取られている」
「……分かる?」
「数字が語っています」
ルシアは机に肘をつき、顎を乗せた。
「じゃあ、どうするの」
「二つ提案があります」
カイは空白の紙を引き寄せ、簡易的な収支表を書き始める。
「ひとつ。料金体系の再編。兵士向けの短時間低価格コースを導入する」
「質が落ちるわ」
「回転率が上がります。単価が下がっても総収入は増える」
数字を書き込みながら説明する。
「もうひとつは、徴税対策です」
ルシアの目が鋭くなった。
「そこに触れるの」
「触れなければ黒字になりません」
帳簿の中に、毎月一定額の“雑費”がある。
だがその額が、徴税記録と一致していない。
「あなた方は正規税以上に払っている」
「……何ですって?」
「徴税官が上乗せしている」
静かな沈黙。
ルシアの視線が帳簿とカイを行き来する。
「証拠は」
「まだありません。ですが、計算が合わない」
カイは顔を上げた。
「徴税官と契約を結ばせてください」
「正気?」
「合法的に減額できます」
「どうやって」
カイは一瞬だけ考え、そして言った。
「彼の罪を使います」
言葉を選びながら。
「……あなた、本当に何者?」
「帳簿を読む人間です」
ルシアはしばらく彼を見つめ、やがて小さく笑った。
「面白いわね。いいわ、やってみなさい。ただし失敗したら――」
「追い出しますか」
「違う。あなたも徴税官も、両方消す」
合理的だ。
「承知しました」
その夜。
徴税官は予定通り灰色街区に現れた。
名はガルド。
肥えた身体に高価な外套。護衛を二人連れている。
「今月分だ」
机に置かれた袋。
金貨の音が鈍く響く。
ルシアが無言で受け取る。
カイは一歩前に出た。
「少しよろしいでしょうか」
ガルドが眉をひそめる。
「誰だ」
「帳簿担当です。徴税額について確認を」
「確認? 額は決まっている」
「帝都財務局の規定では、灰色街区は三割課税のはず」
ガルドの背後で、黒い数値が揺れた。
契約はまだない。
だから見えない。
「だが特別区域は四割だ」
「特別区域指定の書類を拝見したい」
「……」
ガルドの視線がわずかに泳ぐ。
ルシアが横目でカイを見る。
「契約を」
カイは静かに言った。
「次月以降の徴税額について、再確認の契約を交わしましょう」
「契約?」
「文書で。双方署名の上で」
徴税官は一瞬ためらったが、やがて鼻で笑った。
「いいだろう。どうせ額は変わらん」
紙とペンが用意される。
カイは条文を書き、双方の署名を促す。
ガルドが署名した瞬間。
視界が開けた。
黒い数列が、はっきりと浮かび上がる。
――十二万リル。
自覚ある横領。
毎月、灰色街区から抜いている。
「……やはり」
カイは小さく呟いた。
「何だ?」
「規定以上の徴収を行っていますね」
「何を言っている」
「帝都財務局に提出されている記録は三割。残り一割は、あなたの私財」
ガルドの顔色が変わる。
「証拠は!」
「いま交わした契約書に、徴税額の確認条項があります」
カイは穏やかに続ける。
「この契約を帝都財務局に提出すれば、あなたの提出書類との不一致が明らかになる」
沈黙。
護衛がざわつく。
「……脅しているのか」
「いいえ。再計算です」
カイは机に新しい収支表を置いた。
「規定通り三割に戻す。それであなたの罪は外に出ない」
ガルドの背後の数値が激しく揺れる。
彼は理解している。
自分が罪を犯していると。
「……三割でいい」
低く絞り出すような声。
「次月からだ」
「今月分も再計算を」
数秒の睨み合い。
やがて、ガルドは袋を一つ差し出した。
「余剰分だ」
ルシアが無言で受け取る。
徴税官は足早に去っていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ルシアがカイを見る。
「……本当に、何者なの」
「帳簿を合わせただけです」
「合わせすぎよ」
彼女は袋を開け、中の金貨を机に広げた。
「灰色街区は助かったわ」
「一時的にです」
「どういう意味?」
カイは窓の外を見る。
雨は止んでいる。
「帝国全体の収支が狂っています。灰色街区だけ整えても、いずれ圧が来る」
「圧?」
「もっと上から」
彼の視界の端で、街区全体を覆う黒い影がうごめいた。
まだはっきりとは見えない。
だが確実にある。
大きな罪。
「……面白いわ」
ルシアが笑う。
「じゃあ次は?」
カイは静かに答えた。
「灰色街区の完全黒字化です」
「その先は?」
彼は一瞬だけ考え、そして言った。
「帝国の再計算」
ルシアは目を細めた。
「大きく出たわね」
「帳簿は、全体で見なければ意味がありません」
机の上の金貨が光る。
小さな勝利。
だが、これは始まりに過ぎない。
帝国は巨大な帳簿だ。
そしてその負債は、まだ誰も精算していない。
カイは心の奥で静かに呟く。
貸借は、必ず取る。
そのために、まずはこの灰色街区から。
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