第2話 「罪は、視える」
帝都を囲む外郭壁を抜けると、舗装された石畳は途切れ、土の道になる。
雨は細かく、冷たかった。
カイ・ヴェルナーは足を止めずに歩き続けた。振り返らない。振り返れば、計算を誤る気がした。
帝都を追放された者が向かう先は決まっている。
南の運河沿い、灰色街区。
公式地図には存在しないが、帝都経済を裏から支える区域だ。密輸品の保管庫、非公式労働市場、娼館、闇賭博。税のかからない金が流れる場所。
――金は流れる場所に集まる。
帝国が腐っているなら、その膿は必ずどこかに溜まっている。
灰色街区に入ると、空気が変わった。
湿った石、安酒、香水、血の匂い。
路地の奥で怒号が響く。
「払えねぇって言ってんだろ!」
「先月分も滞納だ! うちは慈善事業じゃねぇ!」
男たちが揉み合っている。娼館の用心棒らしい。片方の胸章は黒薔薇、もう片方は白百合。
縄張り争いか、取り立てか。
カイは足を止め、観察する。
暴力は非効率だ。
殴れば壊れる。壊れれば修理費がかかる。
そこへ、低く通る女の声が響いた。
「やめなさい」
路地の奥から現れたのは、長い黒髪を後ろで束ねた女だった。濡れた石畳を迷いなく踏みしめる。赤い外套の裾が翻る。
黒薔薇連盟代表、ルシア・グレイフォード。
この区域では名の知れた調停者だ。
男たちが一瞬だけ動きを止める。
「先月の取り分は既に渡したはずよ」
「三割足りねぇ!」
「三割“減った”のよ。客が減ってるの、分からない?」
冷静だが、苛立ちを隠していない。
カイはゆっくりと近づいた。
路地の入り口で立ち止まり、二人と一人を視界に収める。
――契約はない。
だから、罪は見えない。
だが、見える方法はある。
「失礼」
声をかけると、三人の視線が一斉に向いた。
「なんだ、お前は」
白百合側の男が睨む。
「通りすがりの簿記官です」
「は?」
「喧嘩の前に、収支を確認されては」
男が舌打ちする。
「部外者は引っ込んでろ」
ルシアはカイをじっと見た。
「簿記官? あんた、役所の人間?」
「元、ですが」
短い沈黙。
雨音が強まる。
「面白いこと言うじゃない」
ルシアが腕を組んだ。
「収支? この状況で?」
「ええ。暴力は赤字です」
男たちが眉をひそめる。
「何言ってやがる」
カイは路地の壁に寄りかかり、淡々と続ける。
「仮にここで殴り合いをすれば、負傷者が出る。治療費、休業損失、客の減少。加えて、警邏が来れば罰金。三日で双方合わせて五万リルは飛びます」
「……」
「対して、取り分の三割。月間売上が二十万リルなら、六万リル。殴り合いで消える額と大差ない」
男たちが顔を見合わせる。
ルシアの口元がわずかに動いた。
「計算、合ってる?」
「おおよそ」
「うちの売上をどうやって知ったの」
「推定です。街区の客足、近隣の価格帯、従業員数から逆算しました」
嘘ではない。
簿記官は、数字の匂いで規模が分かる。
白百合の男が苛立った声を上げる。
「だから何だってんだ」
「赤字の取り分争いは非効率だと言っているだけです」
カイは一歩踏み出した。
「もしよろしければ、簡単な契約書を作りましょう。三か月間、固定取り分制。代わりに、客数増加策を提示します」
「は?」
「この区域は軍関係者が多い。北方方面軍から戻った兵士が流れ込んでいる。ならば、彼ら向けの料金体系を導入すべきです」
ルシアの目が細まる。
「……続けて」
「給金日は月末。ならば月初に割引を集中させるのは非効率。中旬にキャンペーンを置く。さらに、兵士は情報を持っている。彼らを囲えば、軍の内部事情も入る」
沈黙。
雨音だけが路地を満たす。
「つまり、喧嘩するより組んだほうが儲かると?」
ルシアが言う。
「ええ。敵は隣の娼館ではなく、徴税官です」
その言葉に、白百合側の男が小さく息を呑んだ。
徴税官。
この区域で最も恐れられている存在。
ルシアがゆっくりと頷く。
「契約書、書ける?」
「紙とペンを」
彼女が部下に目配せすると、簡易な紙束と炭筆が差し出された。
カイは膝をつき、濡れた石畳の上で契約文を書き始める。
固定取り分、期間、違反時の罰則。
そして最後に署名欄。
「双方、ここに署名を」
白百合の男が渋々と名を書き、ルシアも署名する。
カイも、証人として名を記した。
その瞬間。
視界が揺らいだ。
黒い数列が、白百合の男の背後に浮かび上がる。
――八万リル。
横領。
ルシアの連盟から抜いている。
自覚している罪。
カイはゆっくりと立ち上がった。
「ひとつ、確認を」
男が睨む。
「なんだ」
「先月の取り分、三割ではなく二割七分では?」
男の顔が強張る。
「な、何を――」
「差額、約八万リル。個人口座に流れている」
沈黙。
ルシアの視線が男に向く。
「……本当?」
「ち、違う!」
「自覚しているはずです」
カイは淡々と告げる。
「今なら、契約違反は未遂で済みます」
男の背後の数値が激しく揺れた。
やがて、膝をつく。
「……悪かった」
ルシアは深く息を吐いた。
「後で話しましょう」
男は部下に連れられて去る。
路地に残ったのは、ルシアとカイだけ。
雨は弱まっている。
「……どうやって知ったの」
低い声。
「簿記官の勘です」
半分は本当だ。
半分は、言えない。
ルシアはじっと彼を見つめる。
「あなた、ただの簿記官じゃないわね」
「ただの追放者です」
「名前は?」
「カイ・ヴェルナー」
彼女は小さく笑った。
「面白いわ。うちに来る?」
「雇っていただけるなら」
「条件は?」
「帳簿を見せてください」
ルシアは一瞬だけ考え、頷いた。
「いいわ。ただし、嘘をついたら許さない」
「当然です」
彼女が背を向け、歩き出す。
カイはその後ろをついていく。
視界の端に、灰色街区全体を覆うような、ぼんやりとした黒い影が見えた。
まだ契約はしていない。
だから、はっきりとは視えない。
だが確実にある。
この区域もまた、負債を抱えている。
小さな抗争は止まった。
だが、帝国の帳簿は変わらない。
カイは静かに思う。
まずはこの街区から。
貸借を、正す。
帝国を呑み込む第一歩として。




