第1話 「帳簿の底に沈んだ金」
帝国は赤字を恐れない。
恐れるのは、均衡の崩壊だ。
そして均衡は、必ず誰かの犠牲の上に成り立っている。
俺にはそれが視える。
黒い数列として。
だから追放された。
だが――
もし赤字が設計なら、
再計算もまた可能なはずだ。
これは、剣ではなく帳簿で帝国を動かす男の物語。
帝都財務局地下文書庫は、いつも湿っている。
石造りの壁に染み込んだ古い紙の匂いと、蝋燭の煤が混じり合い、空気は重い。地上の華やかな大理石の廊下とはまるで別の建物のようだった。
カイ・ヴェルナーは、分厚い軍需予算帳を机に広げ、淡々と頁を繰っていた。
数字は嘘をつかない。
だが、数字は隠される。
今年度第二四半期、北方方面軍への補給費。鉄材、火薬、保存食、輸送費。項目は整っている。計算式も合っている。合っているはずだ。
だが、合いすぎている。
カイは羽根ペンを止め、別の帳簿を引き寄せた。前年の同時期、さらにその前年。比較する。
増加率が不自然だ。
戦線は膠着している。兵の増員もない。にもかかわらず、鉄材の消費だけが三割増しになっている。
鉄は消えない。
溶かされ、形を変え、どこかに残る。
「……輸送費の名目で、二重計上か」
小さく呟いた瞬間だった。
背後に立つ気配を感じた。
「ヴェルナー、まだ残っていたのか」
振り向くと、財務局第二監査室長、バルツァーが立っている。肥えた腹を揺らし、にやりと笑った。
その背後で、空気が歪む。
黒い靄のようなものが、男の肩越しに揺らめいている。
数字だ。
いや、数字に似た何か。
赤黒い数列が、彼の背後に浮かび上がっている。
――三百二十七万リル。
カイは瞬きを一つした。
幻覚ではない。いつからか、それが見えるようになった。契約書に署名した相手の背後にだけ、浮かび上がる“自覚ある罪”。
バルツァーとは先週、予算確認のための承認書に互いに署名した。
だから見える。
「何を調べている」
「北方方面軍の補給費です。増減の推移を」
「余計なことはするな」
低く言われる。
その声の奥で、数字が膨らんだ。
――四百一万リル。
利息でもついたように、増えている。
横領か。
いや、もっと構造的な何かだ。
「数字は、合っています」
カイは視線を帳簿に戻した。
「ですが、整いすぎている。戦線が停滞している以上、鉄材の消費が急増する理由がありません」
「戦は現場で起きている。机の上で語るな」
鼻で笑う。
背後の数値がさらに揺れた。
――五百十二万リル。
これは個人の懐に収まる額ではない。
分配だ。
複数人。
上層部。
「お前は優秀だ、ヴェルナー」
バルツァーは机に手をついた。
「だからこそ、余計な疑問を持つな。帝国は、正しく回っている」
その言葉と同時に、数字が一瞬だけ弾けた。
罪は、本人が自覚している額しか見えない。
つまりこの男は、自分が不正に関わっていると理解している。
理解したうえで、回している。
帝国を。
「……承知しました」
カイは頭を下げた。
抵抗はしない。
まだ。
バルツァーが去ると、地下文書庫は再び静寂に沈んだ。
蝋燭の火が揺れ、帳簿の影が歪む。
カイは静かに頁を閉じた。
軍需予算。北方方面軍。鉄材三割増。
輸送業者は三社。いずれも最近設立。
代表者の名は違うが、保証人は同一人物。
保証人は貴族院議員、フリードリヒ・ハイゼン。
彼とはまだ契約を交わしていない。
だから、罪は見えない。
「……視えなくとも、計算はできる」
帳簿を重ねる。
横領額は推定で七百万リルを超える。
帝都郊外の農村が三つ、飢えずに済む額だ。
カイは机の引き出しから、個人用の小冊子を取り出した。私的な計算帳。
そこに数字を書き写す。
表向きの帳簿と、実際の流通量の差異。
帝国は黒字に見える。
だが、内部では血を流している。
そのとき、上階から足音が響いた。
複数人。
慌ただしい。
やがて地下室の扉が乱暴に開かれた。
「カイ・ヴェルナー!」
衛兵が二人、剣を携えて立っている。
「貴様を横領の疑いで拘束する」
カイは瞬きを一つした。
「……私が?」
「証拠は揃っている。第二監査室の予算から、三十万リルが消えている」
三十万。
先ほどの数字とは桁が違う。
だが、象徴としては十分だ。
小さな罪を着せる。
大きな罪を隠す。
美しい計算だ。
衛兵の背後に立つ書記官と目が合った。
彼とは先月、出納承認書に署名している。
黒い数値が浮かんだ。
――二万リル。
小さな横領。
彼は視線を逸らした。
理解しているのだ。
自分もまた、網の中にいることを。
「抵抗は?」
衛兵が問う。
「しません」
カイは立ち上がった。
机の上の帳簿を一瞥する。
数字は整然としている。
整然と腐っている。
手首に縄をかけられながら、彼は思った。
帝国は巨大な帳簿だ。
収入と支出があり、資産と負債がある。
だが今、この国は負債を資産として計上している。
嘘の黒字。
虚飾の繁栄。
階段を引き上げられながら、上階の光が目に刺さる。
廊下には職員たちが並び、ざわめいている。
誰も助けない。
誰も目を合わせない。
彼らの背後にも、小さな数字が揺れている。
数百、数千、数万。
帝国は罪でできている。
外へ連れ出されたとき、空は曇っていた。
石畳の広場で、正式な告発が読み上げられる。
「財務局簿記官カイ・ヴェルナーは、職務上横領の罪により、即日罷免、追放処分とする」
三十万リル。
あまりにも整った数字。
周囲から失望と軽蔑の視線が向けられる。
カイは静かに息を吐いた。
怒りはない。
恐怖もない。
ただ、計算する。
七百万リル。
三十万リル。
差額、六百七十万。
それが、彼らの守ろうとする数字。
縄を外され、帝都の門へと歩かされる。
振り返らない。
振り返る価値はない。
門を出る直前、石壁の上に帝国旗が翻っているのが見えた。
赤と金の紋章。
栄光の象徴。
その向こうに、幻のように黒い数列が重なる。
帝都そのものを覆う、巨大な負債。
それはまだ、契約を交わしていないからはっきりとは視えない。
だが確信がある。
この国は、破綻している。
門が閉じる音が響いた。
雨が降り始める。
カイは空を仰がず、ただ前を見た。
「……帳簿は、覚えている」
数字は裏切らない。
隠されても、消えない。
ならば再計算するだけだ。
帝国という巨大な帳簿を。
貸借を、取る。
そのための最初の一行は、いま記された。
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