第11話 「読めない女」
イリスが去った翌日、灰色街区は奇妙な静けさに包まれていた。
監視の目は減らない。
だが、圧力も強まらない。
まるで“判断待ち”だ。
「保留って一番嫌いなのよね」
ルシアが酒杯を傾けながら言う。
「殴られるなら殴られるで分かりやすいのに」
「国家は殴りません」
カイは帳簿を閉じる。
「締めるのです」
「同じよ」
「いいえ」
彼は淡々と続ける。
「締められていると気づかないうちに、窒息する」
売上はさらに三%減。
数字は小さい。
だが流れは悪い。
監視の存在が、噂を鈍らせている。
灰色街区の最大の資産は、金ではない。
情報だ。
その流通が滞れば、黒字も意味を失う。
「接触します」
カイは言った。
「向こうが動く前に」
その日の夕刻、カイは単身、諜報部の仮拠点を訪れた。
帝都南部の古い石造りの建物。
入口で名を告げると、すぐに通された。
イリスは書類に目を通していた。
「珍しいですね」
「時間を無駄にするのが嫌いなもので」
「同感です」
向かい合う。
静かな空間。
余計な装飾はない。
「あなたの提案は本部に上げました」
「返答は」
「条件付き承認」
カイの眉がわずかに動く。
「条件とは」
「灰色街区の情報を、諜報部が一次選別する」
「選別権は国家に?」
「ええ」
想定内。
だが問題は別にある。
「監視人員の削減は」
「二名に縮小」
「徴税安定保証は」
「三か月」
短い。
「短すぎます」
「国家は永久保証をしません」
イリスは淡々と告げる。
「あなたの黒字が、国家の戦略と一致する限りのみ」
「戦略とは」
「北方戦線維持」
やはりそこに帰着する。
「戦線の実情を知る必要があります」
カイは言う。
「知らなければ、再計算ができない」
「国家機密です」
「私は国家の協力者になるのでは?」
沈黙。
イリスは数秒、彼を観察した。
「あなたは危険です」
「なぜ」
「国家の枠内に収まらない」
それは評価か、警告か。
「あなたは」
カイは問い返す。
「なぜ国家に従うのですか」
「従っているのではない」
イリスの声は静かだ。
「維持している」
「腐敗も含めて」
「腐敗は切り落とす」
「切り落とせていない」
一瞬。
空気が凍る。
イリスの視線が鋭くなる。
「あなたは帝国をどうしたい」
「健全化です」
「理想論」
「計算です」
「健全化の過程で帝国が崩れたら?」
「崩れる構造なら、いずれ崩れます」
「その“いずれ”を遅らせるのが国家です」
価値観の衝突。
だが叫びはない。
静かな論理戦。
「少佐」
カイは低く言う。
「あなたは罪を自覚していますか」
イリスの目がわずかに細まる。
「何の話です」
「国家の名のもとに、犠牲を容認すること」
「それは罪ではない」
即答。
揺らぎはない。
その瞬間、カイは理解する。
能力が通じない理由。
この女は、本気で“罪ではない”と思っている。
「ならば、あなたは私をどう見る」
「有用な不確定要素」
「敵ではない?」
「現時点では」
現時点。
「では、利用し合いましょう」
カイは言う。
「灰色街区は情報を提供する。国家は干渉を抑える」
「条件は変わりません」
「三か月で十分です」
イリスの眉がわずかに上がる。
「自信があると」
「三か月あれば、次の手を打てる」
沈黙。
やがてイリスは頷いた。
「契約を正式に結びます」
書類が用意される。
署名。
再び、能力を意識する。
だが何も見えない。
ゼロではない。
“測定不能”。
イリスは立ち上がる。
「ヴェルナー」
「はい」
「あなたは国家を敵に回さないほうがいい」
「私は帳簿を敵にしているだけです」
「帳簿は国家そのものだと言ったはず」
「ならば」
カイは静かに言う。
「国家と私は、いずれ同じ頁をめくる」
イリスはわずかに目を細める。
「楽しみにしています」
拠点を出ると、夜風が冷たい。
灰色街区へ戻る道。
カイは初めて、わずかな不安を感じていた。
能力が効かない相手。
国家の論理。
そして北方戦線。
自分の黒字が、本当に誰かの死を招いているのか。
数字は正しい。
だが数字の向こうに、人がいる。
その事実が、胸の奥に小さく刺さる。
灰色街区の灯りが見えてくる。
ルシアが待っている。
ミレイアも。
守るべき場所は、ここだ。
だが帝国は、もっと大きい。
「三か月」
カイは呟く。
国家との契約期限。
その間に、答えを出す。
帝国は赤字を許さない。
ならば。
赤字の“理由”を暴く。
それが次の再計算だ。




