第10話 「監視下」
灰色街区の空気は、目に見えない鎖で締められたようだった。
諜報部の人間が三名、正式に常駐することになった。
理由は「情報管理の健全化」。
実態は、監視。
酒場の隅、帳場の背後、倉庫の入口。
灰色の外套が、静かに立っている。
笑わない目。
話しかければ丁寧に応じる。
だが、記録している。
すべてを。
「客が減ったわ」
ルシアが低く言う。
帳簿の数字が示していた。
軍関係者の来訪が減少。
商人も警戒している。
「監視は“恐怖”を生む」
カイは冷静に答える。
「恐怖は消費を鈍らせる」
「つまり赤字に戻るってこと?」
「可能性はあります」
灰色街区の従業員も落ち着かない。
囁きが減り、笑いが減る。
情報網は縮む。
カイは静かに計算していた。
監視が続けば、三か月以内に収益は二割減。
半年で赤字転落。
国家は、こうやって締める。
違法行為ではなく、空気で。
その夜。
イリスが再び現れた。
黒薔薇連盟の応接室。
灯りは控えめ。
「状況は理解していますか」
彼女は椅子に腰を下ろす。
「監視の影響を」
「理解しています」
カイは答える。
「灰色街区の消費活動は縮小しています」
「それでも違法ではない」
「違法ではありません」
イリスは頷く。
「国家は違法をしていない」
「承知しています」
静かな応酬。
だがこれは戦いだ。
「あなたの黒字は、帝国の再配分を狂わせた」
イリスは続ける。
「軍は予定より補給を削減された」
「規定通りです」
「戦場は規定通りに動きません」
初めて、彼女の声にわずかな温度が混じった。
「あなたの正確さが、誰かの死を招く可能性がある」
沈黙。
カイの思考がわずかに揺れる。
「証拠は」
「国家機密です」
「ならば感情論です」
「いいえ」
イリスはまっすぐ見つめる。
「国家の論理です」
国家の論理。
それは、個々の正しさよりも全体の維持を優先する理屈。
「灰色街区は、情報源として有用です」
イリスは言う。
「だが統制されなければ危険」
「統制とは」
「報告の義務化」
ルシアが口を挟む。
「客の会話を全部差し出せって?」
「必要な部分を」
カイは静かに言う。
「選別権は誰に」
「諜報部」
「灰色街区の利益は」
「保護される」
保護。
それは同時に拘束だ。
「拒否した場合」
「監視は強化されます」
脅しではない。
事実の提示。
イリスは淡々としている。
罪の自覚はない。
彼女は国家の一部だ。
歯車。
だから能力は効かない。
「少佐」
カイはゆっくりと言う。
「あなたは帝国が健全だと思いますか」
イリスは迷わない。
「健全ではありません」
意外な答え。
「だが崩壊よりはましです」
「崩壊は計算の結果です」
「そして国家は、計算を止める」
その視線は鋭い。
「あなたの再計算が、崩壊を早めるなら、我々は止める」
静寂。
灰色街区の外では、笑い声が小さく響いている。
だが以前より弱い。
「提案があります」
カイは言う。
「灰色街区を、準国家情報機関とする」
ルシアが目を見開く。
イリスはわずかに眉を動かす。
「続けて」
「情報を提供する代わりに、経済活動への干渉を最小化する」
「条件は」
「徴税の安定保証。商会契約への介入禁止。監視人員の削減」
大胆だ。
だが合理的。
イリスは黙り込む。
数秒。
十秒。
やがて言う。
「検討に値する」
「国家は赤字を許さない」
カイは静かに続ける。
「ならば、灰色街区を黒字のまま利用すべきです」
イリスは初めて、ほんのわずかに笑った。
「あなたは国家を敵にしていない」
「帳簿を敵にしているだけです」
「帳簿は国家そのものです」
それは真理に近い。
イリスは立ち上がる。
「条件を持ち帰ります」
「お待ちします」
扉が閉まる。
ルシアが椅子に崩れ落ちる。
「心臓に悪いわね」
「ええ」
「勝ってるの?」
「まだ分かりません」
カイは窓の外を見る。
監視の目は続いている。
売上は微減。
だが崩れてはいない。
国家は赤字を許さない。
ならば利用する。
灰色街区は、黒字のまま国家に組み込まれるか。
あるいは、潰されるか。
選択は近い。
そして初めて、カイは理解する。
これは経済戦ではない。
思想戦だ。
帝国の論理と、自分の論理。
どちらが生き残るか。
帳簿の次の頁が、静かに開かれようとしていた。




