009_異世界_振る方(理想の女)
目の前に立つ彼は、どこから見ても完璧な英雄だった。
多くの魔獣を退け、この国を救い、そして異世界から聖女として召喚された私を、誰よりも大切に守ってくれた人。
彼の深い青色の瞳が、私をまっすぐに見つめている。
そこにあるのは、純粋で、濁りのない、狂気じみた期待だ。
「リサ、君は世界を救う聖女だ。僕と共に、この国の光となり、人々を導く正義であってくれ」
その言葉が、私の胸を鋭く刺す。
私はただの、どこにでもいる平凡な人間だった。
痛いのは嫌いだし、誰かを恨むことだってある。
だいたいいつでも気高く、優しく、傷ついた人々を無条件で許す聖女なんて、ただの張り子の人形じゃないか。
彼の望む完璧な聖女を演じるたびに、私という存在が摩耗し、消えていくような恐怖に囚われていた。
私はゆっくりと首を横に振り、一歩、後ろへと下がった。
「……もう、なにも求めないで」
絞り出した声は、静まり返った部屋に小さく響いた。
「リサ?」
「あなたの理想どおりになんか、私はとてもとても生きられないわ」
彼の眉が微かに動く。完璧な仮面に、初めて困惑の亀裂が入った。
「私は聖女じゃない。ただの、弱い人間なの。あなたの隣で、その理想の型に嵌め込まれるために、ここにいるんじゃない」
きつく握りしめていた手のひらには彼から贈られた、聖女の証である魔石のブレスレットが握られていた。それをそっと、テーブルの上に置く。
「リサ、僕は君を愛して――」
「あなたが愛しているのは、私じゃない。あなたが作り上げた『理想の聖女』よ」
私は彼に背を向け、扉へと歩き出す。
この部屋を出れば、もう二度と、守られた安全な城には戻れない。
それでも、誰かの描いた物語の登場人物として生きるより、泥に塗れても自分の足で歩く方が、ずっと息がしやすいはずだから。
「さようなら、オルフェウス」
私は一度も振り返ることなく、豪奢な部屋を、そして彼の完璧な世界を後にした。




