060_not恋愛(私は私)婚約破棄、家族愛、3121字
きらびやかな王城の夜会で、開かれた窓から吹く風がドレスの裾を揺らす。
輪の中心にいるのは、私の婚約者である公爵家次男のローランド様と、愛らしい笑顔を浮かべた男爵令嬢クララ様だった。
他人のすべてをすんなりと受け容れられる、あの人に――ひどく嫉妬する。
寂しさが積もる夜、誰かの肩に寄りかかることなどできず、私はただ頑なに心の扉を閉ざすことしかできない。それも、痛いくらいに甘ったれた拒絶だ。
『大丈夫、なんでもないから』
そう、気丈に微笑む裏側で、見捨てられたくないという醜い執着にしがみついている。
それならば、初めから何もかもを投げ出してその胸に身を委ねてしまえれば、どれほど楽だっただろう。
私は侯爵家の一人娘として生まれた。
この家に子は私しかおらず、しかし家督を継ぐことは許されない。物心ついた頃から、家族や親戚に「あぁ、男だったらよかったのに」と何度ため息をつかれたことだろうか。
その言葉を打ち消すため、私は厳しい後継ぎ教育を受け、誰よりも完璧な令嬢としてあろうと振る舞ってきた。
でも、人が求めるものと、私が人に求めるものの間には、埋めがたい圧倒的な隔たりがあった。
その根底には常に、この忌々しい『性別』という枷が付きまとっている。
私は自分の性別を中和するため、「いっそ男に生まれればよかった」と心のなかで呪うことでしか、自分の輪郭を保てなかった。
ただ一人の人間として、等身大の私を認めてほしかった。それが、私が魂の底から欲しかったものだ。けれど周囲の人間は、それを既に所有していて当然のことと認識していて、与えてくれるとしたらそれ以外のもの――彼らが与えてくれるのは、地位や社交辞令といった、私にとってはどうでもいいものばかりで。
だからこそ、私は誰にも弱音を吐けなかった。
周りが心配して声をかけてくれたり、「手伝おうか」と差し伸べてくれたりする温かい手さえも、「大丈夫」と突っぱねてしまう。そうして自ら孤立していく。
一人の人間として自分に自信が持てるようになってからでなければ、誰かを愛することも愛されることもできない――そんな生き方は、きっとただの甘えなのだろう。頭では理解していながらも、私にとってその『自尊心』は、剥ぎ取られたら生きていけないほど大切なものだった。
期待を外してしまって、美しく完璧な淑女の仮面を剥がされて、相手の態度が変わったり失望されたりすることが、何より怖かった。たとえ失敗したとしても、「それでも構わないんだよ」「よく頑張ったね」と、ただそれだけを言って抱きしめてもらえるだけで救われたのに。
だからこそ、もし私に誰かへ与えられるものがあるとするならば、そういうもの。それは他でもない、自分が一番欲しかった救済なのだ。
ずっとそばにいるよ、という強い優しさ。
それを差し伸べる資格が、私にはあるのだろうか。
――その答えが出る前に、冷酷な宣告が下される。
「エカテリーナ。君との婚約を、ここで破棄させてもらう」
目の前に立った婚約者は、冷ややかな目を私に向けていた。その隣には、困ったような、それでいてどこか慈悲深い顔をしたクララ様が寄り添っている。
ローランド様は言う。クララ様は自分の弱さも失敗も素直に見せ、どんな人間も温かく受け容れてくれるのだと。それに比べて私は、いつも隙がなく、強がりばかりで、傍にいて心が休まらないのだと。
周囲の貴族たちも、突然のことにざわめきながらも、どこか冷ややかな視線を私に向けていた。
……そこで私の中の何かが、音を立てて切れた。
「そうですか」
私は自分でも意外なほど穏やかな声で、そう呟いていた。
震えることも、泣き叫ぶこともなかった。
長年、家のためにと背負い続けてきた重圧が、その一言でスルスルと剥がれ落ちていくのを感じる。
完璧でなければならないという呪縛が解けた瞬間、胸のつかえが嘘のように消えていく。
「そこまでおっしゃるなら、喜んでこの婚約破棄を受け入れますわ。公爵家を継げないお立場でしょうが、お好きな方をお選びになるといいでしょう」
私がそう涼やかに微笑むと、元婚約者は少し気圧されたように目を丸くした。彼が描いていたのは、泣き崩れる私か、あるいは取り乱す私だったのだろう。しかし、今の私の心中は驚くほど軽やかだった。
ふと、彼の隣で、男爵令嬢がわずかに顔を青ざめさせているのが見えた。
彼女は「誰をも受け容れる」優しい少女だ。しかし、それは隣に立つ公爵令息が自分をチヤホヤしてくれるからこそ成り立っていた優しさなのだろう。でも、彼が公爵家を出て、その特権を失うとなれば話は違う。
案の定、周囲の貴族たちの間で打算まみれの会話が囁かれ始めた。
公爵家は、家への醜聞となるような不祥事を起こした者や、家格の釣り合わない相手に走った者を簡単には許さないだろう。現に、彼の背後に見える彼の両親――公爵夫妻の顔は、怒りと失望でか無表情になっている。平民落ち、あるいはそれに等しい冷遇が彼を待っているのは明白だった。
「わ、私は……っ! エカテリーナ様、ちがうのです……!」
クララ様はローランド様の腕にしがみつきながら、泣きそうな顔で私を見た。しかし、私にはもう何の感慨もわかなかった。彼女が他人に愛されるのは、常に「守られるべき弱い立場」を演じていられたからだ。いざ彼女自身が重荷を背負わされる立場になったとき、彼女は果たして誰かを真の意味で受け容れられるだろうか。
「お幸せに、元婚約者様」
私はそれだけ告げると、礼をして鮮やかに身を翻し、会場をあとにする。
背後で二人が言い争う声が聞こえたが、もう振り返る気もしなかった。
馬車に乗り込み、夜の冷たい風に窓を開けると、胸の奥が妙に澄みわたっていた。
私は一人娘だ。跡継ぎにはなれないと、親戚たちから男に生まれればよかったと陰口を叩かれ、それに抗うために必死に鎧をまとってきた。
けれど、それは本当に私の価値を定めるものだっただろうか。
――いいえ、違う。
私は私だ。
男であっても女であっても、ここまで歯をくいしばって努力してきた私の足跡は、決して嘘ではない。
誰かに認められなくても、私が私を誇らしく思えるなら、それで十分ではないか。
王都の邸宅に戻ると、厳格な父が珍しく出迎えてくれた。私の顔を見るなり、父は誇らしげな顔をして言った。
「エカテリーナ……すまなかったな。お前を後継ぎとして育てようと焦るあまり、お前の本当の心を見てやれなかった。今日のことは聞いた。さすが我が娘だ」
初めて、父が私を一人の人間として認めてくれた、そう思えた瞬間だった。
涙が出そうになったけれど、強がりではなく、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます、お父様。私、もう無理をして完璧でいる必要はないって気づいたんです」
「ああ、そうだ。お前はそのままで、十分に誇らしい」
父のその言葉は、かつて私が心の底から欲しかったものだった。
あの夜会で、元婚約者と男爵令嬢は結ばれたのかもしれない。けれど、平民落ちを恐れ、お互いの仮面が剥がれ落ちた彼らの未来がどうなるかは、もはや知ったことではない。
私はもう、誰かのようになりたいとは微塵も思わない。
他人を羨む必要などなかったのだ。
私は私のままで、私を愛し、私を支えてくれる人たちと共に、真っ直ぐに生きていけばいいのだから。




