059_恋愛(「いつか」が来た日)、2583字
「いつか、あなたが私を迎えに来てくれる」
そのありえない『いつか』を、ずっと待っていた。
王立図書館の禁書庫は、いつだって静かに埃が舞い、古い紙の匂いがしていた。
窓の外は、もう何年も晴れることがなく、ずっとなまり色の空が広がっている。
リリアーナは、そんな場所で10年前の記録の整理をしていた。
彼女の肩まである銀色の髪は、日の光がない色褪せた世界では、灰色にくすんで見える。
この世界には、稀に他の世界から「落人」や「遺物」といったものが流れ着く。リリアーナはここでその管理を任されている。
だが、彼女自身もまた、この世界にとっては異物だった。
十年前の冬。
空が突如として血のように赤く染まり、裂け目が開いた。
少女だったリリアーナは、その裂け目の向こう側からこの世界へと転がり落ちた。
記憶にあるのは、眩いほどの光と、大きな手の温もり。
そして、別れ際に聞いた声。
――すぐに迎えに行くから、そこで待っていてくれ
その言葉だけを信じて、リリアーナは十年間、この灰色の世界で生き続けてきた。
「リリアーナ。またそんな古い資料を漁っているのか?」
声をかけてきたのは、この図書館の主任司書であるレイモンドだった。
彼は分厚い魔導書を脇に抱え、心配そうな目を彼女に向ける。
「もう十年前の事故だ。あのとき落ちてきた人間や遺物は、ほとんどが時の経過と共に消えた。君も、そろそろ現実を見たほうがいい」
「現実、ですか」
リリアーナは目の前にある古びた木箱の蓋をそっと撫でた。
その中には、彼女が元居た世界から持ってきた唯一のものが眠っている。この世界にはない素材でできたインクが切れたペンと、端が擦り切れた一枚の写し絵。写る男の顔は、長い年月のせいかすでにぼやけてはっきりと分からない。
「私にとっての現実は、あの日の約束だけです」
「……頑固なやつだ。王城も、君をそろそろ『特異個体』として正式に魔導兵器の研究に組み込もうという動きがある。身の振り方を考えたほうがいいぞ」
レイモンドはそれ以上何も言わず、去っていった。
特異個体。
リリアーナはこの世界において、極めて純度の高い異界の魔力を宿している。だからこそ、為政者たちにとって利用価値があった。彼らはリリアーナの力を欲しがった。
誰もが彼女を「利用する」か「諦めさせよう」とした。
だが、リリアーナの心は、あの日の約束によって固められていた。
「いつか、あなたが私を迎えに来てくれる」
そのありえない『いつか』を、リリアーナはずっと待っていた。
科学も物理法則も通用しない、魔法が支配するこの世界において、別の次元から誰かが自分を迎えに来るなど、論理的に考えればゼロパーセントの奇跡だ。
そんなことは起こり得ないと、頭の片隅では分かっていた。
それでも、その「ありえないこと」にすがるしか、彼女が正気を保つ方法はなかったのだ。
その日は、奇妙な前触れがあった。
王立図書館の魔力検知盤が、かつてないほどの高数値を示して狂ったように鳴り響いたのだ。
地鳴りのような低い音が、足元の石畳から伝わってくる。
空気がピリピリと帯電し、呼吸をするたびに肺が熱くなるような感覚。
それは、十年前のあの夜とまったく同じ気配だった。
「まさか……」
リリアーナは胸を押さえ、反射的に図書館を飛び出した。
周囲の司書や衛兵たちは、「結界を張れ!」と叫び声を上げながら走り回っている。
誰もがパニックに陥る中、リリアーナだけはまっすぐに見上げていた。
王城の真上で、夜空を引き裂くように、巨大な光の裂け目が開いていた。
それは十年前のものよりも遥かに大きく、眩いまでの光を放っていた。
空間が歪み、世界の境界が光に溶けていく。
「本当に出現した……?」
心臓が早鐘を打つ。息ができない。足がすくみ、その場から一歩も動けなくなった。
来るはずのない「いつか」が、目の前に現れた瞬間だった。
光の中から、影が落ちてきた。
この世界のどの魔法とも違う、理を歪めるほどのエネルギーの塊が、ゆっくりと地上へと降りてくる。
周囲の衛兵たちが攻撃の準備をする。
「撃て!何が来るか分からない!」
「待って!撃たないで!」
リリアーナは叫び声を上げ、光に向かって走り出した。
靴が石畳に引っかかり、何度も転びそうになりながら、ただひたすらに、あの日の約束の続きを求めて走った。
光の中心に、人の形があった。
それは、あの写し絵より少しだけ歳を取っているように見えたが、見覚えのある顔だった。
白衣をまとったその男は、手に持っていた何かを閉じると、周囲を見回し、そしてまっすぐにリリアーナを捉えた。
「――やっと見つけた」
その声はかつて、少女だった頃のリリアーナの耳元に響いたものと同じだった。
かすれ、震えながらも、確かな熱を持った声。
「遅くなってすまない、リリアーナ」
かつて彼女をこの世界へ落とし、そして自らは世界の向こう側に取り残された男は、走り寄ってきたリリアーナを強く抱きしめた。
その腕の温もりは、十年間夢にまで見たものと少しも変わっていなかった。
「……嘘じゃなかった」
リリアーナの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。
それは悲しみでも絶望でもなく、ずっと凍りついていた心が、ようやく熱を取り戻したときの涙だった。
「物理的観測と次元座標の固定に予想以上に時間がかかってしまって。この世界との時間軸のズレもあって、こちらから再び干渉するのに十年もかかったんだ。でも、約束は守ったよ」
男は微笑み、彼女の銀色の髪を優しく撫でた。
「さあ、帰ろう。元の世界へ」
王立図書館の最奥、あの灰色の部屋にはもうリリアーナの姿はない。
残されたのは、インクの切れたペンと、十年前の擦り切れた写し絵だけだ。
「いつか、あなたが私を迎えに来てくれる」
そのありえない「いつか」を待ち続けた少女は、もういない。
彼女はようやく、待ち焦がれたその人によって、元の世界へと帰っていった。
青い空が広がる、世界の向こう側に。
親子にするか迷った




