047_別れ(すれ違いのはてに)婚約破棄、4294字
「すまないクラリス。仕事が忙しくて、今月も会えそうにない」
その短い手紙を受け取るたび、いつも自分に言い聞かせていた。
彼はこの国の重責を担う人。王家も絡むこの政略結婚を確かなものにするために、必死で成果を上げようとしているだけ。これも全部、私との未来のためだ。どんなに寂しくても、わがままを言わずに、彼を信じて待つ。それが婚約者としての私の義務なのだと。
あの午後、街の片隅にあるレストランを見かけるまでは。
窓際の席で、彼は笑っていた。
私には一度も見せたことのないような、肩の力が抜けた、穏やかな笑顔。その視線の先にいたのは、綺麗な女性――彼の仕事の同僚だと聞いていたヴィオレッタ様だった。
「あそこのお二人、美男美女で絵になりますね」
胸のざわつきを隠しながら、テラス席にいたお店の方にそっと声をかけた。単なる世間話のつもりだった。だけど、返ってきた言葉は、私の想いを粉々に砕くのに十分なものだった。
「ええ、あのカップルは開店以来 当店を贔屓にしてくださっていて。よくお二人でいらっしゃるんですよ」
――カップル。よく二人で。
頭がさっと冷えていくのが分かった。
私とは月に一度、一時間のお茶の時間さえ「忙しい」と言って削るのに。彼女とは、激務の合間を縫ってでも「よく通う」ほど、頻繁で、特別で、当たり前のものなのだ。
周囲に軽く聞いてみたら、彼の職場でも彼ら二人をカップルと認識しているものは少なくなかった。仕事終わりに二人だけで残ったり、二人で出かけたりすることも多いと言っていた。
同僚だから。仕事の話をしているだけだから。
きっと彼はそう言うのだろう。
でも、他人の目に「恋人同士」と映るほどの親密さを隠そうともせず、婚約者である私を放置するということが、どれほど私を傷つけるか、彼は考えもしなかったのだろうか。
泣きながら帰宅した私を見て、動いてくれたのは兄だった。
「クラリスを泣かせるなど許せない。僕がルシアンに直接、話を聞いてきてやる」
いつも優しく、私の味方でいてくれた兄。その言葉だけが救いだった。
しかし、ルシアンのもとへ抗議に向かった兄が、数日後に戻ってきたとき、その表情は一変していた。私を労わるのではなく、どこか諭すような顔で言った。
「クラリス、あれは全部お前の誤解だ。ルシアンは本当にお前のことを愛している。すべてはお前との未来のために、あいつは必死で成果を出そうと仕事を頑張ってるんだ。大きな仕事を成し遂げようとするとき、支えとなる同僚が必要なこともある。それが今回たまたま女性だっただけ。もう少し寛大になって、あいつを信じて待ってやるべきだ」
ルシアンに何を吹き込まれたのかは知らない。ただ、信じていた兄さえも、簡単に彼の言う建前に丸め込まれてしまったのだ。あまりの理不尽さに、私の心の中に冷たい怒りが宿った。
「……では、お兄様」
私は冷静に、けれど確かな拒絶を込めて兄を見据えた。
「私も将来、家のためにと業務上であれば、男性と二人きりで仲良く密室でお仕事をしても、ルシアンや皆様は許してくださるのですね? 『すべては未来のため、ただの同僚だから信じて待て』とルシアンに言えば、笑顔で私を信じてくれるのですね?」
兄は一瞬、不意を突かれたように目を丸くし、それから眉をひそめた。
「何を極端なことを言うんだ。お前とルシアンでは立場が――」
「立場など関係ありません。彼がやっているのは、そういうことです」
言い訳を重ねようとする兄を拒絶するように、私は視線を外した。
「ルシアンが浮気などするはずがないだろう」「彼女は仕事の同僚よ」「少し神経質になりすぎよ」
兄の言葉に同調するように、私の両親も、ルシアンの両親も、揃って私の訴えを一蹴した。
王家が絡む婚姻だ。泥沼にしたくない大人の事情は分かる。「事情がある」と、ただそれだけを繰り返す周囲に絶望しながら、それでも私は彼に話し合いを求めた。
やってきた彼は、あからさまに焦燥感を漂わせていた。
それは私と向き合うためではなく、この場を早く切り上げるための焦りに思えた。
「時間がないんだ、クラリス。ヴィオレッタはただの同僚だ。君が何を誤解しているのか知らないが、僕を信じて待っていてくれればいい」
それだけを言い残し、背を向けようとした彼の背中に、兄に向けたのと同じ言葉を返す。
「では私も今後、業務上の都合で他の男性と二人、仲良く密室でお仕事をしてもよろしいのですね? そこでどれほど親密そうに見えようとも、『ただの同僚だ、私を信じて待て』と言えば、貴方はすべてを納得して受け入れてくださるというのですね?」
ルシアンはピタリと動きを止め、衝撃を受けたような目で私を見つめた。その顔は怒りと困惑に染まっていた。
「何を言っているんだクラリス! 君が他の男と二人きりだなんて……そんなこと、許せるわけがないだろう! どうして君はそんな、極端な話をするんだ。全部、君との結婚を確かなものにするために、僕がどれだけ必死に頑張っているのか分かっていないのか!?」
彼は裏切られたと言わんばかりに、悔しげに声を荒らげた。
自分は良くて、私は駄目。そのダブルスタンダードに本気で気づいていないのか。自分のしていることがどれほど独りよがりで、私の心を蔑ろにしているかも分からないのか――
それらを理解しようともせず、ただ「自分の愛」が正当に評価されないことに憤慨している。その姿に、眩暈がするほどの嫌悪感を覚えた。
「ええ、貴方は耐えられないのですね。そして、私は今、貴方にその『耐えられないこと』をずっとされていると言っているのです」
私の言葉にルシアンは言葉を失い、ひどく傷ついたように顔を歪めた。
「……僕を信じてくれないんだね。今はこれ以上、話しても平行線だ。本当に時間がないんだ、また連絡する」
悲痛さすら滲ませながら、彼は今度こそ風のように去っていった。
時計の針は、出会ってから5分も進んでいなかった。それが、彼が私のために割ける最大の時間。
私への情は、5分に満たなかった。そういうことだ。可能性なんてもううんざりだ。
なにもかも後になってから気付いて、取り返しが付かなくなってもいいというのであれば、好きにし続ければいい。私たちが重ねてきた年月も、私の流した涙も、五分間で切り捨てられる程度のもの。言葉を交わすことすら拒まれた私は、その日以降、完全に心を閉ざした。
もう、この家にいるのは嫌だ。誰も、兄さえも、私の話を聞いてくれない。
私は、地方で隠居している祖父母へ、すべてを綴った手紙を送った。助けて、と。
祖父母の動きは、私の想像以上に迅速で、そして苛烈だった。
孫娘のやつれた姿に激怒した祖父母は、独自の調査員を放ち、その結果を手に王家へと直談判に及んだのだ。
のちに知ったことだが、王家の調査も含めて、彼とヴィオレッタ様の間に「不貞の確証(肉体関係)」はなかったそうだ。
ルシアンは、ただ純粋に仕事で成果を出したかっただけ。ヴィオレッタ様を優秀なパートナーとして重宝し、ランチの時間すら「仕事の話ができるから時間の節約になる」と二人で過ごしていたに過ぎない。業務時間内に終わらなければ、場所を変えて二人きりで深夜まで書類に向き合っていた……それが真相だった。
けれど、ヴィオレッタ様には下心があった。ルシアンに好意を抱き、あわよくば婚約者の座を奪おうと、周囲にわざと「カップル」に見えるよう振る舞い、言葉巧みに彼を二人きりの空間へ誘い出していたのだ。
ルシアンは、その下心に全く気づかないほど愚かで、仕事に盲目だっただけだった。
だが、王家もすでに動いていた。王家が絡む大切な婚姻だからこそ、噂を感知した際にきちんと放置することはなく、対処してくれいたのだ。ルシアンの上司を通じて「ヴィオレッタとの距離が近すぎる。婚約者のいる身として行動を慎め」と、それとなく数回にわたり指摘をさせていたのだという。
しかし、ルシアンはその警告をすべて「業務上の正当なものである」と突っぱね、最後まで改めようとはしなかった。
「事実がどうあれ、婚約者がいながら周囲に恋人と誤認されるほどの親密さを行動で示し続けたことは、客観的に不貞がなかったと証明できない。何より、王家から上司を通じて数回にわたる指摘を受け、さらには婚約者本人からも直接の指摘があったにもかかわらず、行動を改めることもなく、説明すら拒絶した。婚約者として不誠実であり、不適格である」
王家が下した裁定は、婚約解消ではなく、ルシアンの有責による婚約破棄だった。
両家や兄は慌てて「ただの誤解だ、ルシアンに悪気はなかった」と弁明したそうだが、時すでに遅く。私は特例として祖父母の養子となることが認められ、実家、そしてルシアンの家とも「接触禁止」が言い渡された。
あれから、いくつかの季節が巡った。
私は今、王家と祖父母が新たに結んだ新しい婚約者の隣で、穏やかな日々を送っている。
彼は、仕事が忙しくても「ほんの少しでも顔が見たくて」と、花束を持って会いに来てくれるような人だ。5分間の面会ではなく、5分でもいいから私を笑顔にしたいと願ってくれる人で、傷ついた私に寄り添ってくれる人だった。
そんな人だからこそ逆に「その気持ちだけで嬉しいです。けして無理はしないでください」と笑って返すことができた。
風の噂で、ルシアンは仕事の成果が認められて昇進はしたが、私を失ったショックで塞ぎ込んでいると聞いた。「どうして分かってくれなかったんだ」「僕はただ、君との未来のために頑張っていただけなのに」と、今更嘆いているのだと。
「仕事だった」「悪気はなかった」
彼にとっては、それがすべてだったのだろう。今でも自分は被害者だと思っているのかもしれない。
けれど、彼が私のためにと必死で頑張ってくれていたことは事実であっても、その裏で私の心が傷つけられてきたことも事実だ。
すれ違っていたのではない。
彼は最初から、私を見ていなかった。私のためにと頑張る彼自身しか、見ていなかった。
今なおそのことに、彼も、彼の両親も、私の家族も気づいていないのだろう。
祖父母の家で紅茶を飲みながら、私は静かに過去を葬った。




