042_not恋愛(今際の言葉)貴族の義務、notバッドエンド、2333字
窓の外から木のさざめきが聞こえる。
部屋にはお香の香りが微かに漂い、室内の空気を重くする。
ベッドに横たわるエマの体は、幼い時のように軽い。それでももう、起き上がることはできなかった。
視界の端には、立派に成長した息子夫婦と、その傍らで涙をこらえる幼い孫たちの姿が映っている。
(私は、自分の為すべきことは、すべてやり遂げたわ)
天井を見つめながら、エマは静かに自分の人生を振り返っていた。
子爵家の、それも目立たない次女として生まれたエマは、自他共に認める平凡な女の子だった。
容姿が優れているわけでも、特別な才能があるわけでもない。だから、親から縁談が決まったと告げられた時も、ただ「分かりました」と頷くだけだった。
お相手は、由緒正しき伯爵家の跡取り、ギルバート。
きらびやかな夜会で見かける彼は、遠い世界の人のようだった。言われるがままに結婚し、広大な伯爵邸に足を踏み入れた日の緊張を、彼女は生涯忘れることはなかった。
結婚して間もなく、エマは風の噂で知ることになる。夫には、心から愛する人がいるのだと。
それは身分違いの恋であり、叶わぬからこそ、彼は義務としてエマを妻に迎えたのだった。
ギルバートはエマに優しかったが、その瞳の奥にはいつも、彼女ではない誰かの影が揺れていた。でも、彼が帰らない夜が続いても、エマは何も言わなかった。問い詰める勇気がなかったわけではない。ただ、それがこの家の、そして自分たちの「形」なのだと受け入れていた。
それに激しい嫉妬を覚えるほど、彼のことを知らなかったし、そもそもこれは「家と義務」のための結婚なのだから。
「私は、伯爵夫人の義務を果たそう」
そう心に決めてからのエマは、無我夢中だった。
膨大な家政の帳簿を管理し、領民たちの声に耳を傾け、伯爵家として恥ずかしくないよう、ただひたすらに家を切り盛りした。使用人たちに慕われ、やがて授かった我が子をこの手で抱いた時、彼女の人生の目的は定まった。この子を、立派な跡継ぎに育てること。それだけがエマの光だった。
変化が訪れたのは、結婚して十数年が経った頃だった。
気づけば、ギルバートは毎晩、真っ直ぐ家に帰ってくるようになっていた。愛人と別れたのか、あるいはただ年を重ねて落ち着いたのか。理由は聞かなかった。
「エマ、今日のスープは美味しいな」
「それは良うございました、旦那様」
そんな、どこにでもある、冷め切った、けれど平穏な夫婦の会話。
夫の瞳に、いつしか妻への深い信頼と、どこか申し訳なさそうな色が混じるようになったことにも、エマは気づかない振りをしていた。
領地は豊かに栄え、息子は立派な跡継ぎとなり、可愛い孫にも恵まれた。
もう、この家でエマが果たすべき義務は何一つ残っていない。
「エマ……、エマ、私を置いていかないでくれ」
枕元で、白髪の混じり始めたギルバートが、エマの手を両手で握りしめて泣いていた。
その涙は本物だった。彼は彼なりに、不器用ながらも、後半生のすべてをエマへの贖罪と愛に捧げていたつもりだったのだろう。
けれど、エマの心は凪のように静かだった。
恨みも、怒りも、そして愛すらも、そこにはない。
エマは、ぎゅっと握られた自分の手を、最期の力を振り絞って優しく、けれど確実に、するりと引き抜いた。
驚いたように目を見開くギルバートと、涙に濡れる家族たちを横目に、天井を見ながらエマは人生で一番、少女のような微笑みを浮かべる。
「……次は、私も好きな人と結婚して、幸せな人生を送りたいわ」
それが、完璧な伯爵夫人として生きた彼女が、嫁いできて初めて口にした「わがまま」だった。
エマの息が静かに絶えた瞬間、寝室は凍りついたような静寂に包まれ、次の瞬間、それぞれの感情が部屋を満たした。
「母上……ッ!」
息子は、母の最期の言葉の重みに声を詰まらせ、ベッドの傍らに膝をついた。自分を立派に育て上げてくれた母。その母が、この家で一度も「幸せ」を感じていなかったのだと突きつけられ、胸を抉られるような悔恨の涙が溢れて止まらなかった。
孫たちは何が起きたのか分からず、ただただ声を上げて泣きじゃくり、その母親である息子の妻も、義母のあまりにも哀しい告白に、口元を押さえて涙を流した。
しかし、最も致命的な一撃を受けたのはギルバートだった。
「エマ……? 何を、言っているんだ……?」
ほどかれたエマの手にすがるように触れると、すでに冷たくなり始めている。
ギルバートは呆然としていた。
彼にとって、後半生の家は「居心地の良い、愛着のある場所」になっていた。
愛人と別れ、妻の有能さと淑やかさに気づき、自分たちは時間をかけて本物の夫婦になれたのだと、都合よく思い込んでいたのだ。
だが、それはすべて一方的な幻想だった。
エマはただの一時も、自分を愛してなどいなかった。彼女はただ、完璧に『伯爵夫人』という役目を演じきり、幕が下りた瞬間に、一滴の未練もなく、別の誰かが待つ来世へと旅立ってしまった。
「ああ、あああ……っ!」
ギルバートの口から慟哭が漏れた。
遺されたのは、孫の代まで何一つ心配することのない程の富、栄えた領地、そして――愛する妻が自分を全く愛していなかったという、あまりにも自業自得な結末だけだった。
でも、たった一つ、家族の誰にも理解されなかったエマの心。
エマは幸せではなかったけど、不幸でもなかったということ。
だって、エマは、今生に何の期待もしていなかったのだから。




