039_恋愛(愛を求めた君、愛を得た俺)婚約解消、2881字
西陽が差し込む公爵家の応接室は、息が詰まるほどの沈黙に包まれていた。
テーブルを挟んで向かい合う婚約者の顔を、俺は冷静に見つめる。
彼女の美しい顔は不満げに歪み、俺を睨みつけている。その傍らでは、彼女の父親である侯爵閣下が、いたたまれなさそうに頭を抱えていた。
「——ヴァルド様。今のお話、聞いていらっしゃいましたの?」
「ああ、聞いているよ、ルナリア嬢。『愛のない婚姻など耐えられない。だから私との婚約を解消したい』……そういうことだね?」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかだったと思う。
怒りも悲しみもない。ただ、淡々と、気持ちは凪いでいた。
(……ようやく、この日が来たか)
内心で、小さく息をつく。
伯爵家の次男として生まれた俺は、10才の頃に寄り親の侯爵家へ婿養子に入ることが決まっていた。それ以来、次期侯爵としての教育を修め、ルナリアに対しても婚約者として非の打ち所がない態度を貫いてきた。つもりだった。
彼女の誕生日に薔薇の花束を手配し、夜会でのエスコートだけでなく、我が儘に付き合う忍耐強さや、困ったときには手を差し伸べる誠実さ。
それが、家同士の契約に対する俺なりの誠意であり、責任の果たし方だった。
だが、彼女にとって、それは『正解』ではなかったらしい。
「そうですわ!」
ルナリアは椅子から立ち上がり、胸に手を当てて訴えた。
「貴方はいつだって婚約者として完璧でした。でも、そこに『情熱』はないのでしょう? 私を見つめるその瞳に、愛はありますか? 貴方が私にするすべてのことは、ただの『義務』ではないのでしょうか?」
(義務、か。その通りだ。だが、それの何がいけないんだ?)
「否定はしないよ、ルナリア嬢。俺は君の家に入り、君を支え、領地を豊かにする。それが私の役割であり、君に対する誠意だと思っている。結婚とは、熱病のような感情ではなく、信頼の積み重ねの先にある契約だ。君を蔑ろにした覚えはないし、それなりの関係を築く努力はしてきたつもりだよ」
「そんな冷たい関係、私は嫌ですの!」
ルナリアは涙を浮かべて叫んだ。
「私は、私という存在そのものを、愛してくれる人と結婚したいのです! 義務で優しくされるなんて、惨めだわ!」
ルナリアの父親が、ついに耐えかねたように声を荒らげた。
「ルナリア、いい加減にしなさい! ヴァルド殿が今までどれほど我が家のために尽くしてくれたか分かっているのか! お前のその我が儘で、我が家が彼にどれほどの不義理を働くことになるか——」
「いいのです、侯爵閣下」
俺は片手を挙げて、静かに侯爵閣下の言葉を遮った。
(これ以上、この不毛な問答を続ける意味はない。
彼女は俺に、最初から持ち合わせていないものを求めている。
なら、答えは一つだ)
俺は懐から、一通の書状を取り出した。すでに俺の署名と捺印がなされた、『婚約解消合意書』だ。こうなる予感がしていたから、事前に用意しておいた。
「ルナリア嬢。君の言う通り、私は君に愛という感情を抱いてはいない。そして、これからも抱くことはないだろう。努力でどうにかなるものではないからね」
ルナリアが息を呑むのが分かった。
「君がそれを不満に思い、人生の不幸だと感じるなら、これ以上この婚約に縛る理由は互いにない。——閣下、婚約解消を受け入れます。元々、私が婿に入ることで成立していた縁です。私からの異議申し立ては一切いたしません」
ルナリアは、俺が引き止めてくれるのを、あるいは取り乱すのを期待していたのかもしれない。だが、もう彼女の顔色を窺う理由もないのだ。
俺の対応を見て、彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。
「ヴァ、ヴァルド様……本当に、それでよろしいのですか? 後悔なさいませんの……?」
「後悔? なぜだい?」
俺は、これまでの人生で最も晴れやかな美しい微笑みを彼女に向けた。
「君は『愛』を求め、私は『義務の解放』を得る。お互いに望むものが手に入るのだから、これほど円満な結末はないだろう」
席を立った俺の足取りは、羽のように軽かった。
幼い頃から背負わされていた重荷が、ルナリア自身の我が儘によって、綺麗さっぱり消え去ったのだ。解放感で、思わず笑い出しそうだった。
あとに残されたのは、呆然と立ち尽くすルナリアの姿だけだった。
自分の言葉の重さと、|父親が自分のために育ててくれた駒《俺》を自ら手放したという現実に気づいてくれるといいが。
——それから、三年が経った。
あの後、婚約解消の噂は瞬く間に社交界に広まったが、俺を悪く言う者は少なかった。それどころか、多くの貴族から誘いがかかり、俺は今、王都の財務省で充実した日々を送っている。
そして何より——今の俺の隣には、新たな婚約者、セシリアがいた。
「ヴァルド様、お疲れ様です。冷たいお飲み物をお持ちしましたわ」
仕事中の俺に、セシリアが微笑みながらグラスを差し出してくれる。彼女の瞳には、敬愛と情愛が宿っているように見えた。
「ありがとう、セシリア」
俺は書類から目を上げ、彼女の手を優しく取って引き寄せた。
セシリアは、かつてのルナリアのように「情熱」を求める女性ではなかった。彼女が愛してくれたのは、俺の誠実さ、理性、他者を尊重する人柄、そういうものということだった。
俺が彼女のために仕事を調整し、共に過ごす時間を作る。記念日を覚え、彼女の好む本を贈る。
かつてルナリアに「義務」と吐き捨てられた俺の行動の一つ一つを、セシリアは「愛」として受け止め、感謝し、同等の温かさで俺に返してくれた。
(ああ……満たされる、というのはこういうことか)
感情を強要されず、自分の「愛」を「愛」として受け取ってくれること。
自分が与えたものと、同じものを返してくれること。
気づけば、かつては合理的でしかなかった俺の心にも、セシリアを世界で一番に慈しみたいという、情愛が静かに湧いていた。
時折、俺を手放したルナリアの報せが耳に届く。
「情熱的な愛」を囁く放蕩貴族に騙されて破滅的な破局を迎え、今では実家でひっそりと、かつて手放した俺の価値を思い知る日々を送っているらしい。だが、今の俺にはもう関係のないことだ。
侯爵閣下はすでに親戚筋から後継者を養子にしたと聞く。ずっと息子として教育してくださり、誠実でいてくださったあの方には、いつか他の形で報いたいと思う。
「ヴァルド様? どうかなさいましたか?」
不思議そうに首を傾げるセシリアに、俺は笑みを向けた。
「いや、なんでもないよ。ただ……今、とても幸せだと思ってね」
「まあ。私も、世界中で一番幸せですわ」
そう言って微笑み合う二人の間に、義務の影はどこにもない。
かつての婚約者がくれた自由という名の我が儘に、俺は今、心からの感謝を捧げていた。




