029_恋愛(奇跡の価値)、平民治癒能力者、3214字
「ルネ、頼む! 息子の足を治してくれ!」
「ああ、そんなに泣かないで。ちょっと見せて」
うららかな陽気が差し込む下町の広場で、私はいつものように荷車に腰掛け、男の子の腫れ上がった足首に手を当てた。
私の手から淡い黄金色の光が溢れ出す。
一瞬の後、男の子は弾かれたように立ち上がり、「痛くない!」と飛び跳ねた。父親は何度も頭を下げ、大事そうに抱えていた小魚の干物を私に差し出す。
「ありがとう、ルネ! これ、大したもんじゃないが受け取ってくれ!」
「わあ、ありがとう。今夜のスープに入れるね」
私は生まれつき、どんな怪我や病も癒やす「奇跡の力」を持っていた。
けれど、私は高貴な聖女でもなければ、神殿の隠し玉でもない。ただの、しがない平民の娘だ。
私の暮らす下町では、私の奇跡は「ちょっと器用なルネちゃんがタダでやってくれる便利なもの」として扱われていた。
風邪を引けばルネのところへ。骨を折ればルネのところへ。
お礼は、大根一本、あるいは「ありがとう」の軽い一言。
私自身、それでいいと思っていた。困っている人がいるなら、減るものでもないし、助ければいい。
「奇跡の価値」なんて、考えたこともなかった。
あの冷徹な死神と呼ばれる魔術師に出会うまでは。
ある雨の日の夕暮れ、下町の私のボロ家に、一人の男が訪ねてきた。
黒の外套、黒髪に、冷徹な氷の瞳。この国の魔術師団長であり、若き伯爵でもあるレオン・ヴァーダックだった。
貴族がこんなスラムまがいの場所に何用だろうと身構える私に、彼は酷く冷ややかな視線を向け、懐から一冊の手帳を取り出した。
「お前がルネだな。ちまたで『無償の聖女』と噂される平民の」
「聖女なんて大層なものじゃありませんけど……。あの、どなたか怪我でも?」
私が首を傾げると、レオンは冷たく言い放った。
「お前の市場破壊行為を止めにきた」
「はあ!?」
レオンが提示した手帳には、私がこれまで下町の人々に施してきた治療の記録がびっしりと書かれていた。
「いいか、平民、よく聞け。神殿が重傷者を一人治療するのに請求する金額は、金貨5枚だ。お前が昨日治した大工の骨折は、本来それだけの価値がある。それを……何だ? 『干し肉一切れ』だと?」
「だって、彼らにお金がないのは分かってますし……」
「お前が『タダ』で奇跡を配るせいで、周囲の人間はお前の力を『タダ同然の価値』だと錯覚している。価値なき奇跡は、やがてお前自身を食い潰すぞ」
計算高い貴族の嫌がらせだ、と私は思った。
けれど、彼の冷酷な予言は、あまりにも早く現実となって私に襲いかかった。
その年の冬、下町にひどい流行り病が蔓延した。
私の家には、昼夜を問わず人々が押し寄せた。
「ルネ、早くうちの娘を!」
「俺の母ちゃんが先だろ!」
私は不眠不休で光を放ち続けた。けれど、私の魔力も無限ではない。三日三晩が過ぎた頃、ついに私の指先から光が消えた。頭が割れるように痛み、その場に崩れ落ちる。
「ごめんなさい……もう魔力がなくなっちゃって……。少しだけ、休ませて……」
私が息を切らせて言うと、集まっていた下町の人々の顔色が変わった。
そこに浮かんだのは、心配ではなかった。怒りと焦燥だった。
「そんな、困るよ! いつもならすぐに治してくれるじゃないか!」
「出し惜しみするなよ! 聖女様のくせに冷たい奴だな!」
「ケチケチしないで、さっさと治せ!」
罵声が飛び交う。
昨日まで「優しいルネちゃん」と呼んでいた人たちが、まるで動かなくなった道具を叩くような目で私を睨みつけている。
彼らにとって、私の奇跡は「いつでもそこにある、タダの蛇口」と同じだったのだ。水が出なくなれば、怒るのは当然だと言わんばかりに。
恐怖で涙がこぼれ、身体が震えた。その時。
「――そこまでにしろ、愚者ども」
地を這うような低い声とともに、凄まじい圧力が部屋を包んだ。
人々が悲鳴を上げて飛び退く。入り口に立っていたのは、レオンだった。
彼は私を抱き起こすと、冷徹な瞳で群衆を睨みつけた。
「この娘の奇跡が欲しくば、一回につき金貨10枚をここに積め。それが払えないなら、己の寿命を呪って静かに死ね」
「そんな、横暴だ! 貴族様には関係ないだろ!」と一人が叫ぶ。
レオンは冷たく笑った。
「関係はある。この娘の身柄は、これより我が魔術師団が買い取る。――行くぞ、ルネ」
私はレオンに抱え上げられ、そのまま下町を連れ去られた。後ろからは、「裏切り者!」「貴族に魂を売った!」という、かつて私が命を救った人々の呪詛の声が響いていた。
レオンの邸に連れてこられた私は、数日間のあいだ、贅沢なベッドで泥のように眠った。
目が覚めると、部屋の窓からは美しい庭園が見えた。
「気がついたか」
お茶を持ってきたメイドとともに入ってきたレオンは、相変わらず冷たい表情だった。
私は布団を握りしめ、俯きながら呟いた。
「……あなたの言う通りでした。私が、みんなを甘やかして、――自分で自分の価値を無くしていたんですね」
「気づくのが遅い」
レオンは私の枕元に腰掛け、温かい紅茶を差し出した。
「だが、お前が自分の価値を低く見積もっていた一番の理由は、お前が平民だからではない。お前を正当に評価し、守る者がいなかったからだ」
レオンは私の荒れた手をそっととった。彼の手は、意外なほど温かかった。
「お前の奇跡は、国を救うほどの価値がある。だからこそ、それに相応しい代償を支払う覚悟のある者だけに差し出すべきだ。お前を擦り切らせ、使い潰そうとする奴らに分け与えていいものではない。分かるな?」
「レオン様……」
「私はお前の力が欲しい。だが、下町の奴らのようにタダで奪うつもりはない。私は我が爵位と、財産と、この命を持ってお前の奇跡を買おう」
氷のようだった彼の瞳に、熱い情熱が宿っているのが見えた。
「ルネ。私の妻になれ。私が、世界で一番高く、お前の価値をつけてやる。もう二度と、誰にもお前を安売りさせない」
それは、身分違いの傲慢な求婚のようでいて、傷ついた私への、これ以上ないほど不器用で優しい「救い」だった。
それから、私はレオンの婚約者として、彼の邸で暮らすようになった。
下町の人々は、私が貴族の囲い者になったと噂しているらしい。けれど、本当に困った人が、全財産を叩く覚悟で、あるいは心からの誠意を持って邸の門を叩いた時だけ、私はレオンの許可を得て奇跡を使う。
正当な対価を払って受ける奇跡に、人々は涙を流して感謝し、私を本当の意味で敬ってくれるようになった。
「ルネ、今日の分の対価だ」
書斎で書類をめくっていたレオンが、私を手招きする。
私が近づくと、彼は私の腰を引き寄せ、自身の膝の上にストン、と座らせた。
「あの……レオン様、まだお仕事中では……」
「お前を腕の中に抱く時間が不足している。これは私の精神安定のための、正当な取引だ」
真面目な顔で、とんでもないことを言う。
彼は毎日、私に美味しい食事を与え、美しいドレスを贈り、そして溢れるほどの言葉で「可愛い」「愛している」と囁いてくれる。
平民だった私は、奇跡の価値なんて知らなかった。
だけど、私を世界で、私を一番高い場所に引き上げてくれたこの人がいるから、今なら分かる。
奇跡の本当の価値は、魔法の強さではない。
それを「絶対に失いたくない」と願い、命がけで守ろうとする人の、愛の深さの現れなのだ。
「ふふ、じゃあ、一生分の対価を請求しちゃいますね」
私は彼の首に手を回し、幸せな未来の契約を交わすように、そっと唇を重ねた。




