021_恋愛(救いようのない恋)婚約解消からの立ち直り、2317字
恋というものは、もっと温かいものだと思っていた。
胸が高鳴って、ただ遠くから姿を見つめるだけで世界が色づき、いつかその想いが届くことを夢見る、あまいあまい感情。
だけど私の恋は、最初から冷たい冬の雨のようだった。
あの人の視線の先に誰がいるのかなんて、最初から知っていた。
王城の庭園で、近衛騎士である彼の瞳がまっすぐ見つめるのは、いつも同じ少女。
彼の熱い視線の中に私が入ることなどまったくなく、私に向けられるのはいつだって、ただの婚約者としての義務的な眼差し。
それでも、私は彼を愛してしまった。
今思えば、救いようのないほどに愚かだったと、自分でも思う。
でも何度諦めようと思っても、期待は消えず、自分から終わりの言葉を出せなかった。
はじまりは、彼の立場を守るためだった。
婚約が調い、いざ会ってみれば彼は他の女の子に恋をしている。もし平民上がりの侍女に心を奪われていることが公になれば、倫理を正義とする騎士団で彼の出世に響くかもしれない。そう思った。
だから私は決めたのだ。お慕いしている「振り」をしよう、と。
好きでもない相手を愛しているように振る舞うなど、簡単なことのはずだった。
だけど。
毎日、彼にとびきりの笑みを向けて
毎日、彼の名を愛おしく呼んで
毎日、彼の歩む道が幸福であるようにと神に祈り続けて
気付いた時には、私は本当に彼に恋してしまっていた。
なんという皮肉だろう。嘘から出たまこと、とはよく言ったものだ。
それなのに、彼は最後まで、私に見向きすることもなかった。
「……すまない。君には、本当に感謝している」
婚約破棄を告げられたあの日、彼は申し訳なさそうな顔をして、頭を下げた。
手柄を立て、ついに彼女を妻に迎える許しを騎士団長から得たのだという。
私の数年間に及ぶ恋は、感謝という一言で綺麗に片付けられてしまった。
「そうですか」
私は、自分でも驚くほど優雅に微笑んでみせたと思う。
泣く資格などなかった。だって彼は私を裏切ったわけではない。最初から私を見てなどいなかったのだ。勝手に恋をして、勝手に期待を膨らませていたのは、他でもない私なのだから。
「どうか、お幸せに」
そう祝福を口にすると、彼は安堵の笑みを浮かべた。そのあまりにも無防備で幸せそうな笑顔を見た時、私の恋心は静かに死んだ。
―― ああ、私は本当に、この人が好きだったのだな。
そう思って自嘲した。
帰り道、涙は一滴もこぼれなかった。泣けば少しは救われたのかもしれない。だけど、涙すら出ないほど、私の恋は終わっていた。
ただ一つだけ分かったことがある。
人の心なんて、案外いい加減で、騙されやすいものだということ。
好きな振りを続ければ、本当に好きになり、愛されていると信じ続ければ、愛されている気にもなれる。
でも――、どれほど上手に自分の心を騙せても、相手の心だけは騙せないけど。
それが、この恋の救いのなさだった。
婚約破棄から一年。私は、存外普通に暮らしていた。
もちろん、最初の1ヶ月程は落ち込んでいた。人と会えばどうしても話題を避けては通れないし、言われれば言われるほどあの時の想いがぶり返してしまいそうになった。
それでも、私というものは思った以上に楽天的にできていたようで。
どれほど悲しかろうと、お腹は減り、おいしいご飯を食べると幸せになってしまう。
季節が過ぎれば、世間はたかが子爵令嬢の婚約破棄なんてとっくに忘れ去ってしまって、だから私も、いつまでも立ち止まっているのをやめた。
「お嬢様、この商会との取引なのですが……」
「見せて。あぁ、最近うちの領地で商売を始めたところね。王都ではだいぶ有名みたいだけど、一応調査はしておいた方がいいかしら」
父の勧めもあり、領地経営の手伝いを始めたのは半年前のことだ。最初は、気晴らしのつもりだったけど、泥にまみれて働く領民たちの声を聴き、活気に満ちた街を歩くうちに、私は意外とこういう仕事が好きと気付いた。
「お嬢様、最近よくお笑いになりますね」
ある日、祖父の代からいる執事にお茶を淹れられながらそう言われた時、私は自分の頬に手を当てて驚いた。
―― 私、今、普通に笑っていたわ。前はあんなに胸が苦しかったのに
いつの間にか、彼の名前すら思い出さない日が増えていた。
忘れたわけではない。あの初恋は、きっと一生、私の胸に残り続けるだろう。
だけど、その思い出はもう痛みではなく、ただ昔のことの記憶として残っているだけだ。
そんなある日、私は一人の青年と出会った。
地方官として働く人で、特別美男子というわけでもないし、華やかさもない。でも、話していて楽しかった。
彼は私の意見を真剣に聞いてくれた。私が微笑めば、彼もまた、少し照れたように笑い返してくれた。
そして何より、彼は私を見てくれた。他の誰でもなく、今ここにいる私という人間を、真っ直ぐに見てくれたのだ。
その事実が、なぜだか胸を温かくした。
これが恋かどうかはまだ分からなかった。でも、すぐに答えを出す必要もないと思った。
だって、私はもう知っている。人の心はいい加減で、そして案外しぶとい。
どれほど深く傷ついても、粉々に砕け散っても、また誰かを好きになれるのだ。
夕暮れの空を見上げながら、隣を歩く彼の横顔を見て、私は静かに笑った。
「恋というものも、悪くありませんわね」
今度は、そう思えた。




